・私たちは「心の扉を開いて、出向いていく教会」になっているか―菊地・東京大司教、「世界難民移住移動者」の日に

2025年9月27日 (土)週刊大司教226回:年間第26主日C

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 九月最後の日曜日となりました。年間第26主日にあたるこの日、9月最後の主日を、教会は世界難民移住移動者の日と定めています。

 この日にあたっての教皇レオ14世のメッセージは、「移住者—希望の宣教者」をテーマとし、次のように指摘されています。

「多くの移住者、難民、避難民は、彼らが神に身をゆだね、未来のために逆境に耐えることを通して、日々の生活の中で生きる希望の特別な証人となっています。彼らはこの未来の中に、幸福と総合的な人間的発展が近づくのを垣間見るからです。彼らにおいてイスラエルの民の旅の経験が繰り返されます」

 教皇様は、教会は神の民として旅を続ける存在であることを、難民や移住者の存在によって思い起こさせられ、教会が歩みを止め、ある一点に留まるときに、神ではなく世に属する者となる、として、次のように語られます。

「移住者と難民は教会に、自らの巡礼者としての側面を思い起こさせてくれます。教会は、対神徳である希望に支えられながら、最終的な祖国に到達することを目指してたえず歩み続けるからです。教会は、『定住』の誘惑に屈し、『旅する国(civitas peregrina)』―天の祖国を目指して旅する神の民(アウグスティヌス『神の国』[De civitate Dei, Libro XIV-XVI]参照)―であることをやめるとき、『世にある者』であることをやめ、『世に属する者』となるのです」

 このようにお述べになった後で、教皇様は、信徒として移住する人たちや難民の方々の存在に焦点を当て、彼らが福音を告げる宣教者であるとして、次のように語られます。

「特にカトリック信者の移住者と難民は、彼らを受け入れる国において、現代の希望の宣教者となることができます。彼らは、イエス・キリストのメッセージがまだ届いていないところに、新たな信仰の歩みをもたらし、日常生活と共通の価値の探求による諸宗教対話を始めることができるからです」

 国連難民高等弁務官事務所によれば、現在四千万人を超える人が国境を越えて難民となり、さらには七千万人の人が自国内での避難民となっています。国連によれば、この数は10年前と比較しても倍増していると言います。

 現時点で国際カリタスは、それぞれの国のカリタスを通じて、カトリック教会として難民の方々の支援や救援を行っています。もちろん現時点ではウクライナやガザの状況は困難を極め、とりわけガザでは虐殺とも言うべき状況が続いています。神から賜物として与えられた命の尊厳が損なわれる状況を、教会は見過ごすことはできません。国際カリタスは聖座と共に、あらゆるチャンネルを通じて、停戦の実現と人道支援の強化を求め続けています。

 以下、27日午後6時配信、週刊大司教第226回、年間第26主日のメッセージです。

【年間第26主日C 2025年9月28日】

 10年前にエコロジカルな回心を問う回勅「ラーダート・シ」を発表された教皇フランシスコは、その中で、「現在の世界情勢は、不安定や危機感を与え、それが集団的利己主義の温床となります(205項)」と指摘されました。10年が経過しても、その状況は全く改善していません。

 教会は9月最後の主日を、世界難民移住移動者の日と定めています。この日にあたり教皇レオ14世は、「移住者―希望の宣教者」と題したメッセージを発表されています。

 その中で教皇は、「現代の世界情勢は、残念ながら、戦争と暴力と不正と異常気象によって特徴づけられています。そのため何百万もの人々が故郷を離れ別の土地に避難することを余儀なくされています」と現状を指摘し、世にはびこる利己主義的価値観を踏まえて、「限られた共同体の利潤のみを求める一般的な傾向は、責任の共有、多国間の協力、共通善の実現、人類家族全体のための国際的な連帯に対して深刻な脅威となっています」と指摘しています。

 ルカ福音が記す金持ちとラザロの話には、まさしく世界が自分を中心にして回っているかのように考え振る舞う金持ちの姿が描かれています。利己主義に捕らえられた心には、助けを求めている人は存在する場所すらありません。自分の利益しか眼中に無い生き方の姿勢を捨てることができないからです。死後の苦しみの中で神の裁きに直面した時でさえも、金持ちの心は自分のことしか考えず、それを象徴するように、この期に及んでも、ラザロを自分の目的のために利用しようとします。

 教皇フランシスコは、私たちが心の扉を開いて、出向いていく教会であることが、「集団的利己主義から脱却する道だ」と繰り返し指摘され、そのためにこそ、教会はシノドスの道を歩みながら、互いに支え合い、隣人の叫びに耳を傾け、祈り合いながら、神に向かって歩み続けることこそが不可欠だ、と強調されました。

 希望の巡礼者として聖年の歩みを続けている私たちに、教皇レオ14世は、先ほどのメッセージの中で次のような指摘をされ、移住者と難民こそがそのような社会のただ中で、希望の宣教者となるのだ、と指摘しています。

 「カトリック信者の移住者と難民は、彼らを受け入れる国において、現代の希望の宣教者となることができます。彼らは、イエス・キリストのメッセージがまだ届いていないところに新たな信仰の歩みをもたらし、日常生活と共通の価値の探求による諸宗教対話を始めることができるからです。実際、彼らは、その霊的な熱意と活力によって、硬直化し、不活発になった教会共同体を活性化することに貢献できます」。

 私たちはこの現代社会の中で、希望を掲げながら旅を続ける宣教者です。アジア司教協議会連盟(FABC)50周年の文書には、「宣教は、教皇フランシスコが『自己中心の姿勢』と呼ぶものに向かう私たちの傾向の対極にあるものです。自己中心的になるのは、『私たちが自分自身のために存在するのではなく、世界のために存在するのだ』ということを忘れてしまう時です」という指摘があります。

 私たちが「心の扉を開いて、出向いていく教会」であり続けることができるように、イエスの呼びかけに耳を傾けて歩み続けましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2025年9月27日

・「”シノドスの道”の歩みを深めることは、教会で交わりを持つ私たちの生き方そのものを見直すこと」菊地・東京大司教の年間第25主日

2025年9月20日 (土) 週刊大司教第225回:年間第25主日C

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 9月も半ばを過ぎ、暑さの続いた東京も少し秋の気配を感じるようになってきました。9月21日は、年間第25主日です。

 2004年9月20日、今から21年前に、新潟において司教叙階を受け、新潟教区司教となりました。その日は、岡田大司教様が主式の司教叙階式でした。この21年の間、2004年から2017年までは新潟で、またその間、2009年から2013年までは札幌を兼任し、そして2017年末からは岡田大司教様から引き継いで、東京教区の大司教を務めさせていただいております。この間、多くの方々のお祈りと励ましをいただき、務めをなんとか果たすことができてきました。

 教区司教としての務め、またカリタスやアジア司教協議会などの務め、日本の司教協議会での務めなどなど、様々な務めを果たしていく中で、多くの方の助けと協力をいただいてきたことに感謝いたします。皆さん、本当にありがとうございます。

 まだこれから数年はこの務めを続けていくことになるだろうと想定しています。もっとも、すべては神様の計画ですからどうなるのかは分かりませんけれど、これからも与えられた場で求められる務めをふさわしく果たしていくことができるように、皆さまの助けと協力とお祈りをお願い申し上げます。これからも、どうぞよろしくお願い致します。

 これまでも繰り返し説教などの機会に触れてきましたが、聖地の状況はますます混迷を深めています。歴史的な背景から生み出される課題の政治的な解決は一朝一夕では得られないのは、聖地をはじめとする中東地域の複雑な現実ですが、教会の立場からは政治的意図の違いを超えて、まず第一に神から与えられた賜物である命を、すべからく守ることを基本として、声を上げ続けます。命は、例外なくすべて、その始まりから終わりまで護られ、神から与えられた人間の尊厳が尊重されなくてはなりません。

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 私が現在責任者と務める国際カリタスは、世界で活動する他の44の国際NGOなどと共に、9月12日に短い声明を発表しました。原文はこちらの国際カリタスのサイトで英語でご覧ください。以下、仮の機械翻訳を掲載します。

 イスラエル軍によるガザ市への攻撃が激化し、全市民に対する強制移動命令が出されている中、家族は避けがたいジレンマに直面しています。逃げれば道中や人であふれかえっている避難所での死の危険があり、留まれば隠れているシェルターへの容赦ない爆撃に直面します。どちらにしても、飢餓と包囲が待ち受けています。

  「私たちの唯一の要求は命です。私たちはあなたと同じ人間です。私たちは尊厳と安全の中で生きたいのです。飢えや爆弾で死にたくはありません」(アイマン=仮名、ガザ市で家族と避難している父親)

 100万人近くのパレスチナ人が、飢え、悲しみ、そして何度も移動を強いられながらガザ市に残っています。イスラエルの作戦が続けば、病院は孤立し攻撃され、避難所や学校は爆撃され、逃げることができないほど弱い、年老いた、または病気の人々には、死しか残されていません。

  「私たちは一つの場所から別の場所へ逃げることに疲れました」(アビール=仮名)、人道支援活動家)

 同時に、イスラエルは人道的な活動を故意に妨害しています。援助トラックは引き続き拒否され、国際NGOは不透明な登録制度によって宙ぶらりんの状態に置かれ、飢饉が深刻化しています。

 国際司法裁判所は、ガザのパレスチナ人がジェノサイドから保護される権利を持っていることを認めています。各強制移動の行為や飢餓の高まりは、その危険性をより確実なものにしています。そして、世界はこれが起こるのを見て見ぬふりをすることはできません。

 私たちの物資を通過させてください。私たちに働かせてください。この攻撃を止めてください。

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 以下、20日午後6時配信の、週刊大司教第225回、年間第25主日のメッセージで原稿です。なお文中に登場するFABCは、アジアの各国地域にある司教協議会の連名組織で、事務局を現在はバンコクに置いています(以前は香港にありました)。現在の会長はインドのゴアのフィリッポ・ネリ・フェラオ枢機卿、副会長がフィリピンのパブロ・ダビド枢機卿、事務局長をわたしが務めています。英語ですがホームページがありますので、ご参照ください

【年間第25主日C(ビデオ配信メッセージ) 2025年9月21日】

ルカ福音は、「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である」というイエスの言葉を記します。

 私たちはどうしても、すべてに対して全身全霊を傾けるよりは、そこから自分の得られる利益を勘案して物事の価値を計り、ある意味選択をしながら行動してしまいがちです。どのような選択をするのかに、私たちひとり一人の価値観が反映されます。その時々の事情に応じて、いわば、「神と富」のどちらか必要な方を選択することを繰り返しています。それに対してイエスは、「どちらかをはっきりと選択し、選択したのであれば小さなことにも大きなことにも、全身全霊をかけて忠実であれ」と命じています。

 私たちが選択する道は、神の愛といつくしみから、誰一人忘れ去られることなく、また誰一人排除されることのない世界を実現する道です。神の愛はすべての人に向けられているにもかかわらず、その愛の実現を妨害しようとするのは、私たちの不忠実さであります。わたしたちは神の愛といつくしみの実現の前に立ちはだかる様々な障壁を取り除くという大きな目的を達成するために、目の前の小さな事への取り組みを忠実に果たしていかなくてはなりません。

 アジア司教協議会連盟(FABC)は、2022年10月に開催された創立50周年の総会で最終文書「アジアの諸民族としてともに旅する」を採択しました。その冒頭で、これからの歩みの中心にあるのはシノドス的な教会の道であることを明確に記し、「シノドス的な教会には、交わり、参加、宣教という、不可欠な3要素が」あることを指摘します。

 その上で、「交わり」の重要性について、「排他性の傾きに対するアンチテーゼです。洗礼を受けた人は皆、尊厳において平等です。・・・教会には、一流の人も二流の人もありません。霊はさらに、私たちが同じカトリック信者とだけでなく、すべてのキリスト者、人類すべて、造られたものすべてとの交わりを結ぶよう、力を与えてくれます。・・・霊との交わりのうちにおいてのみ、私たちは弟子の共同体へと成長し、パン生地の塊の中のパン種のように働く、キリスト教基礎共同体、人間基礎共同体の建設者となることができるのです」と指摘しています。

 さらにFABCは2025年3月15日に司牧書簡を発表し、「交わり」を具体的に生きるために、特にエコロジーの側面に取り組むことの重要性を指摘しました。その上で同書簡は、9月1日から10月4日まで、ちょうどいま祝われている「被造物の季節」にあって、エコロジカルな回心を交わりのうちに具体化するよう、次のような取り組みを呼びかけています。

 第一に、「エコロジカルな責任について、私たちの共同体の学びを導く」こと。次に、「より簡素で、より持続可能なライフスタイルを奨励する」こと。そして、「神・人類・宇宙との私たちのかかわりを深める、創造の霊性を培う」ことであります。

 ”シノドスの道”の歩みはエコロジカルな回心の道と密接に関わり、それは別々の事柄ではありません。”シノドスの道”の歩みを深めることは、教会で交わりを持つ私たちの生き方そのものを見直すことにも繋がります。そのためにも、この数年の間に発表されてきたシノドス関係の文書などをしっかりと学ぶ時を持ち続けたいと思います。”シノドスの道”は過去のことではなく、今、私たちが歩む道であり、そのためにも小さなことにも忠実であるものでありたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2025年9月20日

・「生きる姿そのものでイエスの愛と慈しみを証しし、十字架と共に歩む者でありたい」—菊地・東京大司教、「十字架称賛の祝日」に

2025年9月13日 (土)週刊大司教第224回:十字架称賛の主日

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 9月14日は十字架称賛の祝日にあたり、今年はちょうど日曜日ですから、明日9月14日は十字架称賛の主日となります。

 また日本の教会では本日を「祖父母と高齢者のための世界祈願日」としています。本来は7月最後の主日と定められていますが、日本では9月半ばの月曜日に敬老の日があるため、その前日の主日をこの世界祈願日とすることを申請し、聖座(バチカン)の許可をいただいています。

 今年の祖父母と高齢者の世界祈願日のテーマは、旧約のシラ書からとられた、「希望を失うことのない人は、幸いだ」とされています。教皇様のメッセージが発表されていますので、こちらのリンクからご覧ください

 十字架称賛の翌日9月15日は、その十字架の元にたたずまれた聖母マリアに思いを馳せる悲しみの聖母の祝日です。 聖母マリアの人生は、主イエスとともに歩む人生です。主イエスと苦しみをともにする人生です。神の救いが実現するために、救い主とともに歩む人生です。奇跡を行い困難を乗り越えるようにとイエスを促す、取り次ぎの人生です。

 十字架の苦しみの時、主イエス御自身から託された、教会の母として歩む人生です。弟子たちの共同体が教会共同体としての歩みを始めた聖霊降臨の日に、ともに聖霊を受け、ともに福音を告げた、教会の福音宣教の母としての人生です。

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 その人生は、不確実な要素で満ちあふれていました。天使のお告げを受けたときから、一体この先に何が起こるのか、確実なことはわかりません。わかっているのは、確実に苦しみの道を歩むことになるということだけであり、聖母マリアはそれを、神のみ旨の実現のためにと受け入れ、神に身を委ねて人生を歩み続けました。

 聖母マリアは神への信頼のうちに、神の計画を受け入れ、身を委ねました。その力の源は、ともに歩まれる様々な人たちとの連帯の絆です。ともに歩む人たちのその先頭には、主イエス御自身がおられました。聖母マリアはシノドスの道をともに歩む神の民の模範でもあります。

 9月15日午後に某所で、グレゴリオ聖歌によるラテン語のミサで悲しみの聖母の日を祝いますが、それについては後日また報告します。

 以下、13日午後6時配信、週刊大司教第224回、十字架称賛の主日のメッセージです。

十字架称賛 2025年9月14日

 日本の教会では、本日は祖父母と高齢者のための世界祈願日です。ローマでは7月最後の主日に行われますが、日本の教会は敬老の日の近くに移動することで聖座からの許可を得ています。

 今年のこの祈願日のメッセージで教皇レオ14世は、シラ書から「希望を失うことのない人は、幸いだ」という言葉を引用してメッセージを発表されています。

 メッセージの中で教皇は、アブラハム、サラ、ザカリア、エリサベトやモーセについて取り上げ、神からの働きかけがこの人たちが高齢の時にあったことを記して、「これらの選択によって、神は次のことをわたしたちに教えます。神の目にとって、老年は祝福と恵みの時であり、神にとって〈高齢者は希望の最初の証人です〉」と宣言されます。

 その上で教皇は、「わたしたちの祖父母は、わたしたちにとって、どれほどしばしば、信仰と献身、市民的美徳と社会貢献の模範となってきたことでしょうか。希望と愛をもって彼らがわたしたちに託してくれたこのすばらしい遺産は、わたしたちにとって、どれほど感謝し、守っても不十分なものです」と、人生の先達への感謝を忘れないようにと呼びかけ、社会が「高齢者への敬意と愛情を回復する」必要性を説いておられます。

 また教皇は「わたしたちは、どんな困難も奪うことのできない自由をもっています。すなわち、愛し、祈る自由です。すべての人は、つねに、愛し、祈ることができます」と述べて、高齢になって自由を失っても、愛し、祈ることで、希望をもたらすことができると強調されています。

 9月14日は十字架称賛の祝日です。いまでこそ、ファッションで十字架を身につける一般の方もおられるようになっていますが、もちろん十字架の起源は、処刑の道具であります。決して「かっこいい」ものではありません。しかしその十字架に、特別な意味を与えたのは、主イエスであります。主イエスこそが、「恐るべき処刑の道具」を「輝かしい栄光のあかし」に変えてくださいました。だからわたしたちは、誇りを持って十字架を示します。感謝を持って十字架を仰ぎ見ます。信頼を持って十字架により頼みます。勇気を持って自らの十字架を背負います。

 十字架は、神の愛のわざの目に見えるあかしです。自らいのちを与えられて人間を愛するがあまり、神はその滅びを許されなかった。滅びへの道を歩む人類の罪をあがなうため、自らを十字架の上でいけにえとしてささげられた。これ以上の愛のわざはあり得ません。わたしたちにとって十字架は、悲しい死刑の象徴ではなく、敗北の印ではなく、弱さの象徴でもありません。わたしたちのとって十字架は、希望の印であり、勝利の印であり、強さの象徴であります。そしてなによりも、神の愛のわざの目に見えるあかしのわざであります。

 十字架は、キリスト者の生きる姿の象徴であります。他者の喜びのために、自らのいのちを投げ出す。いのちを賭してまでも、他者のために尽くそうとする生き方。キリストご自身の生き方そのものです。わたしたちキリスト者は、優しい人間だから、善人だから、困っている人を助けたり、愛のわざを行うのではありません。そんな、個人の性格に頼った、生やさしい信仰ではありません。

 私たちも、私たちの生きる姿そのものによって、イエスの教えを、福音を、その愛と慈しみを証ししていく、十字架と共に歩む者でありたいと思います。

2025年9月13日

・「歩むべき十字架の道を、聖霊の導きのうちに識別したい」-菊地・東京大司教の年間第23主日メッセージ

2025年9月 6日 (土)週刊大司教第223回:年間第23主日C

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 あっという間に9月になりました。7日は年間第23主日。日本の教会ではこの日、9月の最初の主日が「被造物を大切にする世界祈願日」です。教皇様のメッセージはこちらのリンクです。

 先週の週刊大司教第222回の記事でも触れましたが、9月1日に始まって、アシジの聖フランシスコの祝日である10月4日まで、日本の教会は「すべてのいのちを守る月間」と定めています。

 これは2019年に、「すべてのいのちを守るため」をテーマと掲げて教皇フランシスコが日本を訪問されたことを記念し記憶するために日本の教会が定めました。また世界の教会は、エキュメニカルなコンテキストの中で、この同じ期間を「被造物の季節」と定めています。今年は特に、2015年に教皇フランシスコが「ラウダート・シ」を発表されてから10年ですので、節目を祝うイベントが多く予定されています。

 司教協議会は、先般、「ラウダート・シ」をテーマとして様々な啓発活動を行う担当を、「デスク」から「部門」へ変更しました。これはこれまで別の委員会に分かれて活動していた諸課題を、「福音宣教司教委員会」と「社会司教委員会」に大きく分け、その中でテーマに分かれて委員会や部門を設置して行くことになった組織変更に伴っています。

 この二つの司教委員会の他の大きな分類は、「常任司教委員会」と「広報宣教司教委員会」で、さらに「カリタスジャパン」が事業体として委員会組織から離れました。現在の司教協議会の委員会の構成は、こちらのリンク先をご覧ください。なおこれらの委員会組織は司教協議会の枠組みの中にあり、司教を中心として動きます。その具体的な事業活動の事務局がカトリック中央協議会で、こちらは事務局長をトップに、具体的な作業を行う組織です。なお中央協議会で働く司祭は、全国の三つの教会管区からそれぞれひとりずつ派遣されている司祭の合計3名だけです。

 「ラウダート・シ」をテーマとする部門もデスクから福音宣教司教委員会内の部門になったことで、さらに宣教司牧的側面から啓発活動を強めていくことが期待されていますし、その意味で、現在行われている「すべてのいのちを守る月間」の方向性を明確にしてくださるものと期待しています。

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 なお9月4日に、日本のシノドス特別チームは玉造の大阪教区本部を会場に、全国の司教様方と、各教区のシノドス担当者、合計47名を集め、今回のシノダリティ(共働性)をテーマとした世界代表司教会議(シノドス)通常総会に初めから深く関わられ、教皇フランシスコと緊密にやり取りをされておられたオロリッシュ枢機卿様を講師に迎え、一日の研修を行いました。

 他の国でもバチカンのシノドス事務局のグレック枢機卿様やシスターナタリーを迎えて研修会をしていますが、どうしても言葉の壁があるため、今回、オロリッシュ枢機卿様に日本語でお話しいただけたのは良かったと思います。

 今後は、それぞれの教区で、シノドス最終文書の学びを深め、多くの人に霊における会話を体験していただき、その上で、ともに歩みなが聖霊の導きを識別する共同体に育っていきたいと思います。これからもシノドス特別チームでは必要に応じて講師を派遣しますし、様々な資料の提供を続けていきます。今後の各教区での取り組みに期待しています。

以下、6日午後6時配信、週刊大司教第223回、年間第23主日のメッセージです。

【年間第23主日C(ビデオ配信メッセージ)2025年9月7日】

 9月最初の主日は、「被造物を大切にする世界祈願日」であります。世界のキリスト教諸教派は共に、9月1日からアシジの聖フランシスコの祝日である10月4日までを「被造物の季節」と定め、この地球、すなわち私たちが共に暮らす家のために祈り、またそれを守る行動をとるように呼びかけています。

 カトリック教会もこのエキュメニカルな活動に参加しており、日本の教会はこの期間を「すべての命を守るための月間」として様々な取り組みが行われています。また今年は、教皇フランシスコの回勅「ラウダート・シ」が発表されてから10年となる節目の年でもあり、環境保全活動にとどまらずそれを土台とした信仰的な回心の必要性を、教会はさらに強調しています。

 教皇レオ14世もこの世界祈願日にあたってのメッセージを発表されており、今年のテーマを、教皇フランシスコがすでに選ばれていた「平和と希望の種」とされています。

 メッセージの中で教皇は、「イエスは、説いて教える際、しばしば「種のたとえ」を用いて神のみ国について語られました」の述べ、「時間がかかる試みかもしれないが、私たちは神がのぞまれた世界のあり方を、すなわち「平和と希望」を実現するために、大地にまかれた種のように、忍耐を持って、具体的な取り組みと呼びかけを続けるように」と励まされています。

 その上で教皇は、「『自然破壊による打撃は、すべての人に同じように作用しているわけではない』という認識は、いまだに十分には共有されていないようです。正義と平和を踏みにじることは、いちばん貧しい人、最も隅に追いやられた人、排除された人が、最も皺寄せを被るのです。この点で、先住民族のコミュニティの苦しみは象徴的です」と指摘され、その存在すら忘れ去られた人たちに心を向けるようにと呼びかけます。

 ルカ福音は、弟子となる条件として、「自分の十字架を背負ってついてくる者」であれ、と述べたイエスの言葉を記します。同時に、「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎む」ことを不可欠であると述べ、この世の常識を遙かに超える行為を、愛に基づいて選択することが不可欠であることを名確認します。

 パウロは第一コリントの1章17節で十字架の意味を、神ご自身によるすべてを賭した愛のあかしの目に見える行いそのものであると記します。この世の知恵に頼って愛をあかしするのではなく、すべてをうち捨て全身全霊を賭して神の愛をあかししたイエス。それこそが十字架の持つ意味であることをパウロは強調します。

 ですから、イエスの十字架は、単に「苦労をせよ」と命じているのではありません。「人間の知恵が作り上げた常識の枠にとらわれず、自らの全身全霊を賭して、神の愛を証しするための行動をせよ」と求めておられるのです。

 神の愛を証しするために、私たちが今、捨てなくてはならない常識の枠は何でしょうか。そして今、歩むべき十字架の道は、どの道でしょうか。聖霊の導きのうちに識別したいと思います。

2025年9月6日

・「常に愛に満たされる社会を生み出していく努力を」菊地・東京大司教の年間第22主日メッセージ

2025年8月30日 (土)週刊大司教第222回:年間第22主日C

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 今年は八月の最後の日が日曜日となりました。年間第22主日です。

 9月1日にの月曜日に始まって、アシジの聖フランシスコの祝日である10月4日まで、日本の教会は「すべての命を守る月間」と定めています。これは2019年に、「すべての命を守るため」をテーマと掲げて教皇フランシスコが日本を訪問されたことを記念し、記憶するために、日本の教会が定めました。

 また世界の教会は、エキュメニカルなコンテキストの中で、この同じ期間を「被造物の季節」と定めています。今年は特に、2015年に教皇フランシスコが環境回勅「ラウダート・シ」を発表されてから10年ですので、節目を祝うイベントが多く予定されています。

 日本の司教協議会では、「ラウダート・シ部門」を設けており、担当者である成井司教様から、メッセージが出ています。こちらのリンク先をご覧ください。また教皇レオ14世の被造物を大切にする世界祈願日にあたってのメッセージ、「平和と希望の種」は、こちらのリンクです

 またラウダート・シ部門では、10月4日にシンポジウムを福岡で開くことになっており、こちらのリンクに詳細がありますが、オンラインでも参加いただけることになっています。

 先日米国はミネソタ州ミネアポリスのカトリック教会で、学校の子どもたちが集まりミサを下げている場で銃による襲撃が起こり、二人の子どもが殺害されるという事件がありました。銃撃犯もその場で自死したと伝えられています。犯行の背景や具体的な動機など詳細には分からないことも多いので、予断を持って語ることは避けたいとは思います。しかし、命に対するこのような暴力的攻撃は赦されてはなりません。

 亡くなられた子どもたちの永遠の安息と、怪我をされた子どもたちの身体と心の癒やしを祈るとともに、改めて、神からの賜物である命に対する暴力は、どのような理由であれ、許されないことを心に留めたいと思います。

 とりわけ、「すべての命を守る月間」に入ろうとしている今、それは単に環境保全活動を推奨しているのではなく、回心を求めていることを心に留め、神が愛を込めて創造されたすべての被造物の中でも特にご自分の似姿として創造され与えられた私たちの命を、徹底的に守り抜く決意を固めたいと思います。

 9月3日には聖座とイタリアのルッカ大司教区の主催する大阪万博でのシンポジウムがあり、日本の司教団も招待されています。その機会を捉えて、シノドス特別チームでは、翌日に大阪で、司教団と教区のシノドス担当者を集め、”シノドスの道”のこれからの歩みについて学ぶ研修会を開きます。

 先の世界代表司教会議第16回通常総会(シノドス)の総書記であったオロリッシュ枢機卿様もこのシンポジウムのために来日されることから、今回の研修会ではオロリッシュ枢機卿様に日本語で講演をしていただきます。シノドスの中心におられた方で、日本語で話ができるのはオロリッシュ枢機卿様だけですから、この機会を逃さず、いろいろと学び実践し、それを各教区での”シノドスの道”のこれからの歩みにつなげていきたいと思います。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第222回、年間第22主日のメッセージです。

【年間第22主日C(ビデオ配信メッセージ)2022年8月31日】

 ルカ福音は、イエスがファリサイ派のある議員の家で食事に招かれたときの話を記しています。集まってきた人たちが、多分は、「われ先に」と名誉ある良い席に着こうとする姿を見て、イエスが「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない」と語ったことを福音は記します。

 人間関係においては謙遜さが重要だとするこの話は、それだけで終わっていたら、単にマナーを教える話にとどまってしまいます。しかしこのあとにルカ福音は、「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」と記し、ここでいう謙遜さはマナーではなく、人としての生き方の選択の話であることを明確にします。

 すなわち、「神の国に招かれる」というのは、「何かを成し遂げたことに対するご褒美」なのではなく、「どのような生き方を選択したかに基づく、神からの恵み」であります。謙遜に生きることを選択した時、初めて神からの恵みとして、「さあ、もっと上席に進んでください」という招きがあるのです。何を成し遂げたかではなく、どう生きることを選択したのか。それが神の目には重要です。
 その選択にあっては、賜物として与えられたすべての命を神が愛おしく思われているからこそ、「誰一人として忘れ去られることはない」という道を最優先にしなければならないことが、その続きの話によって示唆されます。

 天の国で豊かに報いを受けるためには、この社会の現実の中で、余すことなく自分自身を与え、互いのきずな、交わり、兄弟愛を深め、報いを期待せずに困難にある隣人に目を向けることが不可欠である、と指摘されます。

 高慢さの中にあって、困難に直面する隣人への視点を失ったところには命がないと、イエスは指摘されています。

 現代社会の現実は、排除と排斥に軸足を置き、持てる者と持たない者との格差が広がり続け、持たない者はその存在さえ忘れ去られたと、教皇フランシスコは、たびたび指摘してこられました。

 教皇レオ14世は、先日の聖年の行事の一つ、青年の祝祭での晩の祈りで、青年たちにこう語りかけました。

 「選択は、人間の根本的な行為です。・・・私たちが選択を行うとき、私たちはどのような者になりたいかを決断します。実際、優れた意味での選択とは、自分の人生に対する決断です。私はどのような人間になりたいのか。親愛なる若者の皆様。私たちは人生の試練を通して、そして、何よりもまず自分が選ばれたことを思い起こすことによって、選択することを学びます… 私たちは命を、自分で選ぶことなく、無償で与えられました。私たちの存在の起源にあるのは、自分の決断ではなく、私たちを望んだ愛です。私たちが行うように招かれた選択において、この恵みを認め、新たにすることを、私たちの存在を通して助けてくれる人こそが、真の友です」

 私たちの謙遜さは、社会の人間関係にあってのマナーではなく、「神からまず愛されたのだ」という事実を認めることによる、神の前での謙遜さです。そのとき、同じく愛されたものとして、特に困難に直面する隣人への目が開かれます。危機に直面する命に対して、目が開かれます。私たちは同じ命を与えられました。そのいのちが、神が求めた人生を豊かに充実して歩み、常に愛に満たされる社会を生み出していく努力を続けたいと思います。

 

(編集「カトリック・あい」=「命」は、「天を仰ぎ、ありがたくいただくもの」と言う意味の象形文字で、立派な日本語です。新聞など一般社会でも「命」が広く使われていますが、”教会用語”の、ひらがなの「いのち」では、この意味は伝わりません。「カトリック・あい」では、この表記に統一させていただいています。)

2025年8月31日

・「24日の主日に、教皇に倣い、世界の平和のために共に祈りを捧げよう」菊地・東京大司教メッセージ

2025年8月23日 (土)週刊大司教第221回:年間第21主日C

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 8月も後半に入り、年間第21主日となりました。暑い毎日が続いています。体調はいかがですか。東京では、朝晩やっと涼しさを感じるようになりましたが、それでも日中は熱帯のようです。

 私は昔、若い頃に、アフリカのガーナで働いていましたが、日本の気候も熱帯のようになったと感じます。

 ガーナは赤道の少し北ですから、今の時期は夏、つまり雨期であります。雨期といっても朝から晩まで雨が降っているのではなく、いわゆるスコールというのか、一日の後半に、やにわに雲が湧き出してバケツをひっくり返したような雨が一時間くらい降り注いで、あとは晴れているような毎日でした。その雨が降っている間に、台風のような風が吹き荒れて、この時期には屋根を飛ばされる家も相次ぎました。何か、日本の夏も、そのような気候に変化しているように感じます。しかし、気温的には、ガーナの雨期の方が、遙かに涼しく感じます。

 教皇様は世界の平和を祈るために、先日、天の元后聖母マリアの祝日である8月22日(金)に、平和のために断食と祈りを捧げるように呼びかけられました。「聖地、ウクライナ、また世界の他の多くの地域で、戦争によって傷つけられ続けて」いる現実を取り上げ、祈りを求められました。わたしたち日本の教会は、ちょうど平和旬間を終わったところですが、この日曜日、24日の主日には、是非とも世界の平和のために共に祈りを捧げてくださるようにお願いします。

 以下、23日午後6時配信、週刊大司教第221回、年間第21主日のメッセージです。

【年間第21主日C(ビデオ配信メッセージ)2025年8月24日】

 救いはどのようにして得られるのか。この問いかけは、時代や文化、また宗教の違いを超えて、人類に共通の課題の一つであります。

 命の創造主であり、私たちに賜物としてこの命を与えてくださった神は、すべての人が救われることを望まれているのは確実です。ご自分が賜物として与えられたすべてのいのちを愛おしく思われる神は、その救いがすべての人に及ぶことを望まれています。

 「キリストの苦しみと死は、いかにキリストの人性が、すべての人の救いを望まれる神の愛の自由で完全な道具であるかを示して」いると、「カトリック教会のカテキズム」の要約に記されています(119)。

 ですからキリストが語り行ったこと、すなわちイエス・キリストの福音が一人でも多くの人に伝わることは、神の望まれる救いの計画の実現のために不可欠であります。その意味でも、私たちの第一の使命は、福音をありとあらゆる手段を通じて、一人でも多くの人に告げ知らせることであります。救いは私だけのものではありません。

 その救いの計画の中で私たちが何もしないで、ただひたすらに「自分の救い」だけを待ち望んで、自分勝手に生きていたのであれば、果たしてそこに救いはあるのだろうかと、今日のルカ福音は問いかけています。

 イエスは、「救われる者は少ないのでしょうか」という問いに、直接には答えていません。なぜなら、「救われるはずの者は、すべての人」だからです。しかしせっかくのその「すべて」を、「少ない人」としてしまうのは、人間の怠惰と努力のなさであることをイエスは指摘します。「狭い戸口から入るように努めなさい」というイエスの言葉は、ともすれば苦難の道を避けて安楽な道を選んだり、準備を怠り無為無策に過ごしている私たちこそが、「神からの救いへの招きに応えようとしていないのだ」という事実を指摘しています。

 現代社会の象徴でもあるインターネット上での”インフルエンサー”と呼ばれる人たちをローマに招いて、7月末に行われた聖年の行事で、教皇レオ14世は、デジタルコミュニケーションを通じて福音宣教することの重要性を説きながら、こう言われました。

 「教会は、歴史を通じて文化的な挑戦を受けても、決して受け身な姿勢にとどまることはありませんでした。教会は、善と悪を識別することによって、すなわち、変化し、変容し、清めることを必要とするものから善を識別することによって、すべての時代をキリストの光と希望によって照らそうと常に努めてきました」。

 そのうえで、教皇レオ14世は、「単にコンテンツを生成することではなく、心の出会いを生み出すことです。そのために、苦しむ人、主を知ることを必要とする人を探し求めなければなりません。彼らが傷を癒し、自分の足で立ち上がり、人生に意味を見い出せるようになるためです。何よりもまず、このプロセスは、自分の貧しさを受け入れ、あらゆる偽りを捨て、自分自身が福音を本質的に必要としていることを認識することから始めなければなりません」と指摘されました。自分の利益や名誉のためではなく、他者の必要に目を向け、常に救いの福音をもたらすために行動することの重要性を強調されました。

 私たちも、狭い門を避けるものではなく、困難への挑戦から目を背けず、隣人の必要に常に心の目を見開き、積極的に行動する者でありましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2025年8月24日

・「現実から目を逸らさず、イエスに倣って、学び、働き、愛する者に」菊地東京大司教の年間第20主日メッセージ

2025年8月16日 (土) 週刊大司教第220回:年間第20主日C

 8月も半ばを過ぎました。8月17日は年間第20主日です。(写真は、先日8月9日に行われた、東京教区としての平和旬間行事から)

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 今年の東京教区平和旬間2025は、「平和を実現する人は幸い 戦後80年不戦の誓いをあらたに」をテーマに、8月9日の午後に教区としての行事を行いました。それ以外にも、小教区や宣教協力体で独自の行事を行っている共同体もあります。

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 教区行事はまず、午後1時からの講演会で、講師は、信徒の浜矩子さん(同志社大学名誉教授、エコノミスト)。演題は「戦後80年 キリスト者としての平和への新たな決意」。

 その後、私が司式し、多くの信徒、修道者、司祭の参加を得て平和祈願ミサ。その後、関口から目白駅まで平和行進が行われました。ご参加くださった皆さん、配信ミサに与りともに平和のために祈ってくださった皆さん、ありがとうございました。

 以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第220回、年間第20主日のメッセージ原稿です。

【年間第20主日C(ビデオ配信メッセージ)2025年8月17日】

 争い事のない世界があれば、それは確かに良いことではあります。しかし争い事のない状況、つまり私たちが「平和だ」という状況が、本当の意味での「平和」の実現であるのかどうかは、定かではありません。

 なぜなら、「真の平和の確立」とは、神の秩序の実現を意味しているからです。例えば武力の脅威の均衡によって成り立っている平和は、単なる平穏な状況であって、神の平和の確立からはほど遠いことであると、教会は繰り返し指摘してきました。

 神の目において人間が不完全である限り、時としてその「平和」は、誰かの人間の尊厳が不当に虐げられ、忘れ去られることで成り立っている平穏さかもしれません。神の秩序を確立する行動は、居心地の悪さを生み出します。長年の人間関係の中で確立してきた既得権益を奪い取ろうとすることもあるためです。

 神からの賜物であるすべての命がその尊厳を守られる世界を実現するためには、現実から目を背けることなく、世界を支配する価値観に挑戦することが不可欠です。

 ルカ福音は、「私が来たのは、地上に火を投ずるためである」というイエスの言葉を記しています。「平和をもたらすために来た、と思うのか。そうではない… 分裂だ」ともイエスは言われます。

 イエスのこの言葉が、愛と赦しを語るイエスの姿とは、かけ離れているように見えます。しかし、そこにこそ、福音の真髄が示されているのです。福音においてイエスが語っておられる「愛と赦し」は、単なる人の優しさの話ではありません。

 神の平和を確立するための、命を懸けたコミットメントであり、既存の世界の価値観を根底から覆す、まさしく地上にもたらされる火こそが、神の平和の確立のためには不可欠であることを明確にしています。あの聖霊降臨の出来事は、騒々しく落ち着かない出来事でありました。聖霊の燃えさかる炎が広がっていくのであれば、それはこの世を支配する既成の価値観と対立するからにほかなりません。

 教皇レオ14世は、7月末に行われた聖年の行事の一環である青年の祝祭において、世界中から集まった100万人を超える青年たちに、「信仰に生きようとするなら、具体的な行動をするように」と促されました。

 トール・ヴェルガータでの青年の祝祭ミサ説教で教皇は「私たちは、すべてのものが予定され、固定された人生としてではなく、絶えず賜物と愛において新たに生まれる存在として造られています」と指摘され、「私たちは、この世のいかなるものも満たすことのできないものへの深い、燃えるような渇きを覚えています」と指摘されます。

 そのうえで教皇は、「このような渇きを前に、効果のない代替物でこの渇きを鎮めようとして、自分の心をごまかしてはなりません。むしろ、この渇きに耳を傾けてください。つま先立ちする幼子のように、この渇きを、神と出会う窓に顔を出すためにの足台としてください」と若者たちに求められました。

 さらに、その前晩の夕べの祈りで、「生き方を反省し、より人間らしい世界を築くために正義を追求してください。貧しい人に奉仕し、そこから、常に隣人にしてほしい、と望む善を証ししてください。聖体のうちにイエス・キリストと一致してください。永遠の命の源である至聖なる秘跡のうちにキリストを礼拝してください。イエスの模範に従って学び、働き、愛してください」と呼びかけられました。

 私たちも現実から目をそらすことなく、イエスの模範に倣って、「学び、働き、愛」するものでありたい、と思います。平穏な世界に満足せず、福音の実現のために、そして神の平和の確立のために行動し続けるものでありたい、と思います。

(編集「カトリック・あい」)

2025年8月16日

・「私たちには、命の尊厳を守り抜く責務がある」-平和祈願ミサで菊地・東京大司教

2025年8月 9日 (土)2025年平和旬間:広島、そして東京教区平和祈願ミサ

2025hiroshima01 日本の教会は毎年、8月6日から15日までを平和旬間と定めています。今年は特に戦後80年の節目の年であり、それは同時に、広島と長崎での原爆投下の80年でもあります。

 今年の平和旬間を前に、先日、6月23日の沖縄慰霊の日の直前に開催された司教総会で、日本のカトリック司教団はまず、80年の平和メッセージを採択しました。そのタイトルを「平和を紡ぐ旅、平和を携えて」といたしました。全文はこちらのリンク先の中央協議会ホームページにあります。是非ご一読ください。

 さらに司教団は、核兵器廃絶宣言も採択いたしました。全文はこちらのリンク先です

2025hiroshima04 今年の平和旬間には、米国の司教団からお二人の枢機卿様とお二人の大司教様、そして大勢の巡礼団がおいでになり、広島と長崎での平和行事に参加されています。

 シカゴのスーピッチ枢機卿、首都ワシントンのマッケロイ枢機卿、サンタフェのウェスター大司教、シアトルのエティエンヌ大司教の四名が来日され、8月5日の昼から、エリザベト音楽大学のホールを会場に、被団協のノーベル平和賞受賞の祝賀式、引き続いて、核兵器廃絶を呼びかける日本、米国、韓国の司教有志が集まって、シンポジウムを開催し、終わりに平和宣言を発表しました。今年の広島教区の平和行事のテーマは、「原爆投下80年 平和への希望を新たに ~核廃絶をわたしたちはあきらめない~」です。

 この後に、世界平和記念聖堂(広島教区カテドラル)に移動し、平和祈願ミサを捧げました。わたしはこのミサの司式と説教を担当させていただきました。また教皇レオ14世から送られた平和メッセージが、教皇大使によって朗読されました。メッセージ全文はこちらです

2025hiroshima06 翌朝、広島に原爆が投下されて80年目の朝、8時から世界平和記念聖堂に多くの方々、修道者、司祭と共に、あらためて日米韓の司教有志が集まり、投下時間に黙祷を捧げた後、白浜司教の司式でミサが行われました。なおこのミサの説教は、シカゴのスーピッチ枢機卿です。

 どちらのミサも映像を、カトリック広島教区「平和の使徒推進本部」のYoutubeチャネルでご覧いただけます。

 今回お祝いを申し上げ、また協働していくことを誓った被団協のノーベル平和賞受賞ですが、司教団の80周年平和メッセージでは、次のように指摘いたしました。

 「日本被団協のノーベル平和賞受賞は、世界が核兵器使用の脅威の中で「核抑止」から抜け出し、核兵器廃絶に向かうための大きな一歩です。・・・今回の受賞が、核兵器のない世界に向けた希望の灯となるように祈るとともに、世界と日本政府がこの「時のしるし」を深く心に留め、一刻も早く核兵器禁止条約の署名・批准に向けて行動することを強く求めます」

 教皇フランシスコが指摘されたように、核兵器を使用することだけでなく保持することにさえ倫理的な問題があることを同じように指摘し、平和のためにという口実でいのちに対する暴力を行使することを認めず、神からの賜物であるいのちの尊厳が、その始めから終わりまで護られ尊重される世界の確立を目指したいと思います。

 東京教区の平和旬間行事は、基本的にはそれぞれの小教区や宣教協力体で行われますが、教区全体の行事としては、本日8月9日午後1時から、同志社大学名誉教授でエコノミストの浜矩子さんを迎え、『戦後80年キリスト者としての平和への新たな決意』と言うテーマで講演をいただきました。浜矩子さんは東京教区の信徒です。その後、質疑応答を経て、午後3時半から、大勢の方が参加する中で、私が司式して平和祈願ミサを捧げました。ミサ終了後、有志の方々が、カテドラルから目白駅まで、平和ウォークをされました。参加された多くの皆さん、ありがとうございます。

 以下、本日8月9日、長崎の原爆忌の日に東京教区で行われた、その平和祈願ミサの、説教原稿を掲載します。

【平和祈願ミサ 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2025年8月9日】

 心に深く刻み込まれた戦争の記憶は、多くの人がそれを共有してきた時代に、「同じ過ちを繰り返してはならない」という誓いを、常に新たにする原動力となってきました。ところが戦争が終結してから80年という時の流れのなかで、実際に戦争を体験したことのない世代が増え、伝えられなくてはならないその記憶を少しでも薄めよう、忘れようとする力が働いています。いまでは、国家間の対立を解決するためには、まず武力の行使も仕方がない、いや外交努力は武力の行使によってこそ強められるという考えまでが、現実的な選択だと言われるようになりました。

 現代を生きている私たちは、あたかも過去の歴史に対して敬意を払うことなく、それを無かったこととして忘れ去ろうとし続けているかのようであります。

 人間の命を暴力を持って奪い取ることが、どれほどの悲劇を生み出してきたのか。利己的な欲望を満たすために他者を犠牲にし、自己正当化を繰り返しながら歩み続けることが、どれほど多くの人の希望を奪い取り絶望を生み出してきたのか。私たちは何度も何度も同じ間違いを繰り返してきました。何度も繰り返すのですから、間違いなのではなくて、それがわたしたちの本当の姿なのかもしれません。

 今もまた、私たち人類は、様々な正当化の理由の元、例えばガザで多くの命に暴力的に襲いかかり、すさまじい命の危機が続いているにもかかわらず、それを止めるすべを持ちません。コロナ禍で始まったウクライナでの戦争で、どれほど多くの命が奪われても、それを止める術を持ちません。同じくコロナ禍で起きたミャンマーでのクーデターでは、その後の混乱が、平和を求める教会の叫びにまで襲いかかり、絶望を生み出し続けています。それどころか、近隣のタイとカンボジアで、武力による衝突まで起きています。

 どんなに時間が経過したとしても、起こった事実は変わりません。その事実を目の当たりにしたからこそ、心に誓った願いは、どんなに時間が経過したとしても、変わることはありません。だからこそ、80年前の悲劇を記憶し平和を祈るこの10日間、特に今日は長崎の原爆忌です。私たちは改めて、起こった出来事の記憶を新たにし、その直後の誓いを新たにし続けなければなりません。過去に起きた出来事とその教訓を忘れ去ることは、時の流れを支配する神に対する不遜な行動です。

 私たちの信仰の中心には、あの最後の晩餐の席で主イエスご自身が「私の記念としてこれを行いなさい」と命じられたように、連綿と伝え続けられている記憶があります。時間の流れの中で薄められ忘れられてはならない記憶です。私たちの信仰は、最初にあった出来事を記憶し、それを次の世代へと連綿と伝え続ける信仰です。記憶を伝え続けることの大切さを十分に知っているキリスト者だからこそ、教会は、平和の確立のために戦争の記憶を伝え続けることを放棄することはできません。

 日本のカトリック司教団は戦後80年にあたり、6月23日の沖縄慰霊の日の直前に開催された司教総会で「平和を紡ぐ旅 -希望を携えて-」と題する平和メッセージを採択しました。

 その冒頭で私たち司教団は、教皇フランシスコの広島での言葉、「思い出し、共に歩み、守る。この三つは倫理的命令です。これらは、まさにここ広島において、よりいっそう強く、より普遍的な意味をもちます。この三つには、平和となる道を切り開く力があります。ですから、現在と将来の世代に、ここで起きた出来事の記憶を失わせてはなりません」を引用いたしました。

 私たちは歴史的事実に誠実に向き合い、謙虚に学び、深く心と記憶にとどめ、さらに次の世代に確実にそれを伝え、その上で、この世界において神の平和を確立するための努力を続けていかなくてはなりません。

 80年以上前に広島、長崎で、また日本各地、さらに世界各地で起こった戦争と核爆弾によるいのちの悲劇。それを実際に体験した多くの方にとっては、どんなに時間がたっても、その出来事は命に対して襲いかかった暴力という負の力として、心に深く刻み込まれ、忘れ去られることはないものと思います。

 私たちは記憶が薄れることをいいことに、さらには時間の経過とともに実体験として暴力の記憶を心に刻み込んだ人が少なくなることをいいことに、様々な理由を見つけてきては命に対する暴力を肯定する誘惑に駆られます。そのような弱い私たちに対して、教皇フランシスコは力強く挑戦状を突きつけました。

 2019年、広島で「確信をもって、改めて申し上げます。戦争のために原子力を使用することは、現代においては、これまで以上に犯罪とされます。人類とその尊厳に反するだけでなく、私たちの共通の家の未来におけるあらゆる可能性に反する犯罪です。原子力の戦争目的の使用は、倫理に反します。核兵器の所有は、それ自体が倫理に反しています」と言われました。「使う」だけではなく、「使いたいという誘惑」に私たちを駆り立てる核兵器の所有でさえ、倫理に反している、と断言されました。

 この呼びかけの実現は、夢物語なのでしょうか。非現実的なのでしょうか。「平和を確立しよう」と声を上げるたびに、冷ややかな批判の声が聞こえてきます。「夢物語を語るな」「現実を直視せよ」と。

 果たして、核兵器の無い世界の実現を、そして平和に対する呼びかけを、「夢物語であり、非現実的だ」と言うのであれば、福音に記されたイエスの言葉は、まさしく夢物語です。

 「心の貧しい人々。悲しむ人々。柔和な人々。義に飢え乾く人々。憐み深い人々。心の清い人々。平和を実現する人々。義のために迫害される人々」を「幸いだ」と言われる主の言葉を、夢物語に終わらせるのか、現実のものとするのか。それは、私たちの決断にかかっています。主イエスの言葉を現実のものとするために、罵られ、迫害され、悪口を浴びせられるのか、それを避けようとするのか。主は、前者こそが幸いであると言われます。私たちはどちらを選択するのでしょうか。

 教皇ヨハネ23世の回勅「地上の平和」は、冒頭で、「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」と記しています。

 果たして、私たちが生きている今の世界の現実は、神の秩序が全面的に尊重された世界でしょうか。神が望まれている世界は実現しているでしょうか。ありとあらゆる方法で、そして口実で、神からの賜物であるいのちが暴力的に奪われている状況を、神が望んでいるとは到底思えません。賜物である命は、その始まりから終わりまで、例外なく守らねばなりません。

 神がご自分の似姿として創造されたいのちには、神の愛が注ぎ込まれています。神は命を賜物として私たちに与えられました。ですから私たちには、命の尊厳を守り抜く責務があります。賜物である命を守るのは、私たちの信仰における決断です。平和を確立するための道です。

 平和旬間にあたり、改めて私たちの信仰に生きる姿勢を見直しましょう。伝えるべき記憶をしっかりと伝え続ける者でありましょう。神の支配が確立するように、働く者でありましょう。

(編集「カトリック・あい」=原文ではこれまでも、ひらがな表記が多用されていますが、新聞などで一般に使われていて、読みやすい当用漢字表記に改めました。また「命」のように、象形から「ひざまずいて神意を聞く人」を表し、そこから神からいただいたもの」を意味する漢字となった、とされるなど、言葉自体に深い意味があり、ひらがな表記では当然、読み取ることができません。)

2025年8月9日

・「与えられた使命を謙遜に忠実に果たす者でありたい」菊地大司教の年間第18主日メッセージ

2025年8月 2日 (土)週刊大司教第219回:年間第18主日C

 
2025caritasyouth11 年間第18主日です。8月に入りました。暑さが続く中、皆さん体調は大丈夫ですか。私は今週、ローマにおります。今年の聖年の中での青年の祝祭が行われており、ローマ市内は世界各国から集まった青年たちであふれかえっています。
 
 その中には日本からの60名近い青年たちもいます。東京よりは少しだけ涼しく、朝晩は心地よさも感じるローマですが、先週までは猛暑だったようで、ちょうどこの青年の祝祭にあわせて少し涼しくなってくれたようです。それでも十分暑い中、青年たちはローマ市内を徒歩で、またバスで、巡礼を続けています。

 3日、日曜日の午前中に行われる青年の祝祭のミサは、ローマ郊外にあるTor Vergataというところの競技場で、これは2000年の大聖年のときのWYDで教皇ヨハネパウロ2世のミサが行われた場所と聞いています。

 参加する青年たちは、今夜、土曜の夜は、近隣で野宿だということです。同行している司祭や修道者のリーダーも一緒に野宿だということ。100万人近くが集まるということなので、参加者の健康を祈ります。朝晩は涼しいとはいえ、ローマは真夏の暑さです。2025caritasyouth07
 ローマ市内の教会には、至る所で青年の祝祭のサイドイベントが、ありとあらゆる教会関係の団体によって行われており、聖堂内は涼しいこともあって、ローマ中の教会が青年たちであふれかえっています。
 今週は、国際カリタスも、この聖年の行事にあわせて、サイドイベントを行っています。バチカン近くでブースを出して、現在行っている債務を希望に変えようというキャンペーンの署名を求め、青年たちがカリタスの活動に参加するようにアピールしています。 またこれにあわせて、すでに先週、世界各地から集まった青年たちの代表50名ほどによる交流行事が行われました。
 そして今週はその青年たちの中のリーダーたち25名ほどがローマに残り、国際カリタス本部の事務局職員も交えて、様々に交流を続けています。アジアからも、カリタス・アジアの事務局、ミャンマー、シンガポール、韓国、香港などから青年のリーダーが参加しています。2025caritasyouth10 7月30日の午後には、国際カリタス本部のあるサンカリスト宮殿隣にあるトラステベレの聖マリア聖堂で、青年たちのミサを行いました。私はその司式をさせていただきました。
 ミサ後にはサンカリスト宮殿(バチカンのローマ市内にある飛び地です)の中庭での青年リーダーたちの交流会に参加して、様々なゲームにも一緒させていただきました。 
 また、これに合わせてバチカンの総合人間開発省や福音宣教省、そして国務省とのカリタスの活動についての打ち合わせの予定が入りましたので、毎日、動き回っています。広島での8月5日の平和祈願ミサを司式することにもなっているので、それまでには日本に戻ります。 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第219回、年間第18主日のメッセージです。

【年間第18主日C(ビデオ配信メッセージ)2025年8月3日】

 今年は2015年に教皇フランシスコが、回勅「ラウダート・シ」を発表してから10年となる節目の年です。司教団のラウダート・シ部門でも、9月の「すべての命を守るための月間」に、エコロジカルな霊性をテーマとしたシンポジウムを計画していると聞いています。 

 またアジア司教協議会連盟(FABC)は、中央委員会を開いた今年の3月15日付けで、「被造界のケアについて、エコロジカルな回心の呼びかけ」を発表し、アジアの教会に今一度、「ラウダート・シ」の精神を振り返るように呼びかけました。 

 この文書でアジアの司教たちは、「人間的な無関心、虐待、乱開発の重荷により被造界が苦しんでいるいくつかの事例」を掲げた後に、「この聖年という時期にあたり、こうした苦難は、私たちが悔い改め、回心し、神の創造の御業の管理者としての共同責任を、より堅固な決意をもって、引き受けるように」と呼びかけています。

 教皇フランシスコは「ラウダート・シ」において、「神との関わり、隣人との関わり、大地との関わり」が引き裂かれることが罪なのだ、とされる中で、こう記されました。 「私たちが図々しくも神に取って代わり、造られたものとしての限界を認めることを拒むことで、創造主と人類と全被造界の間の調和が乱されました」(66項)。

 罪の状態の根源にあるのは、人間の思い上がりと、関係の断絶です。 ルカ福音は、「自らのために蓄財しようと、新しく大きな蔵を建てようとしている金持ち」のたとえ話を記しています。この世の価値観の典型である「自分のための蓄財行為」に対して、神は「愚か者よ、今夜お前の命は取り上げられる」と、「自分の命をコントロールするのは自分自身」であるかのように錯覚している人間に対して、その思い上がりを指摘されます。

 「図々しくも神に取って代わり、造られたものとしての限界を認めることを拒む」、この人間の行動は、神の前の真の豊かさとは無縁です。 環境破壊に限らず、神からの究極の賜物である命に対する暴力的な攻撃のすべては、「この世界をコントロールするのは自分だ」という思い込みに支配され、この世の富と繁栄に目と心を奪われ、結果として神との関係を断絶し、隣人との関係を断絶し、被造界との関係を断絶する私たちの慢心に、その根源があります。

 その意味で「ラウダート・シ」に記された環境問題への教会の取り組みと環境的な回心の勧めは、環境の保護・回復にとどまらず、私たちの、この世界に、神の秩序を打ち立てること、すなわち平和の確立に繋がっています。 

 今週は8月6日が広島平和記念日(原爆の日)、9日が長崎原爆の日、そして15日が終戦記念日でそれぞれ80年目。この期間、日本のカトリック教会は平和旬間を迎えます。平和を求めることは、この共通の家である地球を大切にし、神との関係、隣人との関係、被造界との関係を正しく戻そうとする行動でもあります。

 教皇レオ14世の7月9日のカステル・ガンドルフォでのミサ説教の言葉です。「被造物を守り、平和と和解をもたらすという私たちの使命は、イエスご自身の使命です。それは、主が私たちに委ねられた使命です。私たちは地の叫び声を聞きます。貧しい人々の叫び声を聞きます… 私たちの業は、神の業なのです」。

 与えられた使命を謙遜に忠実に果たす者でありたいと思います。(編集「カトリック・あい」)

2025年8月2日

・「私たちが求めるものは、善、神の御旨の実現」菊地大司教の年間第17主日メッセージ

2025年7月26日 (土) 週刊大司教第218回:年間第17主日C

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 年間第17主日です。あっという間に時は過ぎ、7月も、もうあと少しで終わります。各地で通常を超える暑さが続いていますが、お見舞い申し上げます。

 7月27日から8月3日まで、ローマでは聖年の行事として「青年の祝祭」が行われ、日本からも青年たちを中心にした巡礼団がローマに出かけています。アンドレア司教様が同行されてローマに行かれます。

 私も、同じ時期ですが、別の予定で7月30日、国際カリタスの青年部門が主催するカリタスの青年の祝祭で、ローマの教会でのミサの司式を依頼されているので、数日間だけローマに出かける予定にしています。ローマも非常に暑いと聞いています。青年の行事に出かけられる皆さんには、体調にぜひ気を付けて、良い巡礼と出会いを体験して来られますように。

 まもなく日本の教会は平和旬間を迎える時期です。この時期だからこそ、改めて声をあげますが、神からの賜物である命に対する全ての暴力を止めましょう。武力の行使をやめましょう。大切なこの命から尊厳を奪い、恐れのうちで絶望を抱くような世界を、希望を生み出す世界にしましょう。命を与えられたものとして、神の前で謙遜に生きるものでありましょう。

 以下本日午後6時配信、週刊大司教第218回、年間第17主日のメッセージです。

【年間第17主日C(ビデオ配信メッセージ)2025年7月27日】

 ルカ福音は、主の祈りが弟子たちに与えられた様を記しています。その祈りは、「父よ」と始まります。イエスがその言葉と行いを通じてわたしたちに示される「父」は、例えば放蕩息子を迎え入れる父親であったりするように、慈しみそのものであります。イエスは、慈しみそのものである御父が、私たちの叫びに耳を傾けようと忍耐強く待ち続けているのだから、信頼のうち、「お父さん」と呼びかけるように教えられます。

 主の祈りは、私たちの叫びの祈りであるとともに、私たちに歩むべき道を教える祈りでもあります。

 御父の御名があがめられるように努めるのは、私たちの役割です。そのために何ができるのでしょうか。

 「御国が来ますように」、すなわち「神の秩序がこの世界を支配するように」と祈ることは、神の平和が実現し、確立するように祈ることでもあります。神の平和は、私たちが具体的に働くことでのみ、この世界に実現します。そのために何ができるのでしょうか。

 「日ごとの糧」を求めることで、賜物である命が十全に生きることのできるように働く決意を示します。命の尊厳が護られ、与えられた使命を生きることのできる世界を生み出すのは、私たちの務めです。「命を生かしてください」と御父に願う私たちが、その命の尊厳をないがしろにするような行動をとったり、他者の尊厳を傷つけて平然としていることは考えられません。人間の尊厳を尊重し護る道を歩むものでありたいと思います。

 「赦し合う」ことは、一致のうちに共に支え合いながら歩もうとする私たちにとって、重要な姿勢です。神がその愛をもって私たちを包み込んでいるからこそ、私たちもその愛を同じように分かち合いたいと思います。

 「誘惑に遭わせないでください」と祈ることで、人として様々な誘惑に打ち勝った主ご自身に、私たちが倣うことのできる恵みを願います。霊的に闘うのは私たちの務めです。

 私たちの祈りに耳を傾けられる御父の姿勢は、創世記に記されたソドムの町に関するアブラハムと神のやりとりにもよく表れています。辛抱強く耳を傾けるのは、御父です。

 御父が耳を傾けてくださる存在であるからこそ、イエスは弟子たちに、「求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい」と諭します。与えられるものは「よいもの」です。「聖霊」です。邪悪な事柄を執拗に求めたからと言って、それは聞き入れられません。求めることができるのは、善であり、悪ではありません。神の御旨の実現であり、悪の支配ではありません。赦しであって、分裂や分断ではありません。人間の尊厳を護ることであって、賜物である命に対する暴力を肯定することではありません。

(編集「カトリック・あい」)

2025年7月26日

・「私たちの教会は『迎え入れる教会』になっているだろうか」-菊地・東京大司教の年間第16主日メッセージ

2025年7月19日 (土)週刊大司教第217回:年間第16主日C

 年間第16主日となりました。先日7月13日に、生まれ故郷である岩手県の宮古市を訪れ、枢機卿に親任されてから初めてのミサを、宮古教会で捧げることができました。宮古教会は、教会で働いていた両親のもと、わたしが洗礼を受け、育てられ、幼稚園の年中組までを過ごした地です。わたしにとっては、信仰の原点が宮古教会です。聖堂はその頃(昭和30年代)と同じように建っていますが、内装も外装も新しくなっています。聖堂横の鐘楼は昔のまま。幼稚園園舎や司祭館は新しく建て直されています。25miyako06

 この日は宮古教会だけでなく、同じ宮古出身で、現在宮古教会を担当しているイエズス会の堀江神父様が、ひとりで兼任されている釜石や遠野を始め、大船渡、水沢や盛岡の四ツ家や志家からも信徒の方が来てくださり、聖堂はいっぱいになりました。ミサにおいでくださり祈りの時をともにしてくださった皆さんありがとうございます。中には一緒に幼稚園に行った幼なじみや、小学校のころに一緒に侍者をした仲間もおいででした。

Img_20250718_165003694_burst000_cover その幼なじみのひとり、ウルスラ会のシスター中島が、わたしの肖像画(写真左)を描いてくださいました。

 また土曜日には、たまたま訪れた景勝地の浄土ヶ浜で、クリーンアップ活動が行われており、このたび新しく就任された宮古市の中村尚道市長にお会いしてご挨拶させていた来ました。(右下の写真:向かって左側が中村尚道市長。右はカトリックの小百合幼稚園の加藤園長で、クリーンアップ活動に参加中でした)

 岩手県の教会の皆さん、いつもお祈りありがとうございます。

 明日は大切な選挙の日です。世界には民主的な選挙が実現しておらず、かえって制限されたり独裁がまかり通る国も、近隣を始め少なからず存在することを考える時、この国で私たちに与えられた意思表明の権利を行使することは大切です。今の自分のことだけでなく、もっと広く、将来の世代への希望や、この地球全体で神から賜物としていのちを与えられている全ての人の明日も考えながら、しっかりとご自分の考えに基づいて、この権利を行使されますように。絶望ではなく、希望が生み出される社会となることを願いながら。

  以下、本日午後6時配信、週刊大司教第217回、年間第16主日のメッセージです。25miyako04

(年間第16主日C 2025年7月20日)

 ルカ福音はよく知られているマリアとマルタの物語を記しています。イエスを迎えた家で、イエスの話に耳を傾けるばかりで客人の接待の手伝いをしようとしないマリアに対して「手伝ってくれるようにおっしゃってください」と不平を漏らしたマルタの心持ちを、私を含めて多くの人が、理解できると思ったのではないでしょうか。

 そしてそれに対するイエスの言葉、「マリアはよい方を選んだ」というのは、なんとも一生懸命になって、もてなしをするマルタをないがしろにしている、と感じたのではないでしょうか。イエスの本意はどこにあるのでしょう。

 イエスの本意を知る手がかりは、マルタが「せわしく立ち働いていた」という福音の描写と、イエス自身の言葉、「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」にあります。すなわちイエスは、マリアとマルタのどちらの行動が優れているのか判断を示されているのではなく、その現実の中で「心がどこにあるのか」を問題にしておられるのです。

 教皇レオ14世は、6月1日の、聖年における家庭・子ども・祖父母・高齢者の祝祭のミサ説教で、次のように述べておられます。

 「私たちは、望む前から命を与えられました… それだけではありません。私たちは生まれるや否や、生きるために他の人を必要としました。私たちは独りきりでは生きることができませんでした。他の誰かが、私たちの肉体と霊魂の世話をすることによって、私たちを救ったのです。それゆえ、私たちは皆、関係によって、すなわち、自由で解放をもたらす人間のつながりと、互いに世話をし合うことによって生きるのです」

 互いに助け合う中で、そこにはそれぞれが果たすべき役割があります。しかしながら、心は常に命を与えてくださった神に向けられている。その命の与え主に対して、マルタは思わず、自分の役割についての不平を述べてしまいました。

 教皇フランシスコは2019年7月21日のお告げの祈りで、「心の知恵は、観想と活動、この二つの要素をどのように結び合わせるかを知ることにあるということです。マルタとマリアはその道を示してくれます。喜びをもって人生を味わいたいのなら、この二つの姿勢をつなげなければなりません」と述べています。どちらが優れているのかではなく、神に向かって生きるときには、二つの行動がどちらも大切であり、その二つが十分になくてはならないことを強調します。個人的な優しさの問題ではなく、神に向かっているかどうかの問題です。

 そもそも、話の冒頭で、イエスを迎え入れるのはマルタです。創世記でアブラハムが三人の旅人を無理にでもと迎え入れたように、マルタはイエスを家に迎え入れます。マルタのこの迎え入れる態度がなければ、全ては始まりません。マルタがイエスを迎え入れていなければ、マリアはその足元でイエスの言葉に耳を傾けることもなかったことでしょう。

 マルタのこの行動とアブラハムの行動は、私たちに、迎え入れる態度こそが、神との出会いの鍵であることを教えています。私たちの教会は、迎え入れる教会となっているでしょうか。

2025年7月20日

・「神の慈しみの心の思いを身に受け、行動で示そう」-菊地・東京大司教の年間第15主日メッセージ

2025年7月12日 (土)週刊大司教第216回:年間第15主日C

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 暑い毎日が続いています。7月13日の主日は年間第15主日です。(写真は、教皇様が夏休みのため滞在されるカステル・ガンドルフォ遠景)

 私は、予定通りであれば13日は岩手県宮古市のカトリック宮古教会で、主日のミサを捧げます。宮古市は私の生まれ故郷であり、洗礼を受けたのがカトリック宮古教会で、当時宮古をはじめ岩手県を担当していた宣教師(ベトレヘム外国宣教会)が、チューリヒあたりのドイツ語を話すスイス人であった関係で、当時まだドイツ人宣教師が多くいた神言修道会に入ることになりました。その意味で、今の私の信仰生活の基礎は宮古にありますので、特に、枢機卿にしていただいてまだ宮古を訪問していませんでしたので、宮古教会の皆さまへの感謝を込めてミサを捧げさせていただく予定です。

 以下、本日午後6時配信、年間第15主日のメッセージ原稿です。

【年間第15主日C 2025年7月13日】

 ルカ福音書は、よく知られた「善きサマリア人」の話を伝えています。

 教皇レオ14世は、5月28日の一般謁見で、このたとえ話を取り上げ、こう述べておられます。

 「人生は出会いによって作られます。そして、この出会いの中で、私たちの真の姿が現れます。私たちは他者の前に立ち、他者の脆さや弱さを目にします。そして、なすべきことを決断することができます。すなわち、その人の世話をするか、何事もなかったかのようなふりをするかです」

 その上で教皇様は、「憐みは具体的な行動によって示されます… サマリア人は、近づきます。なぜなら、誰かを助けたいと思うなら、距離を保とうとは考えません。あなたは関わり、汚れ、もしかすると泥まみれにならねばならないかもしれません。サマリア人は、傷口を油とぶどう酒できれいにしてから包帯をしました。その人を自分のロバに乗せました。つまり、重荷を負いました。なぜなら、真に人を助けたいなら、人の苦しみの重みを進んで感じねばならないからです。サマリア人はその人を宿に連れて行き… 追加の料金が必要なら、さらに支払うことを約束しました。なぜなら、他者は、配達すべき荷物ではなく、ケアすべき人だからです」と述べ、「イエスが立ち止まって、私たちの世話をしてくださったすべての時を思い起こすなら、私たちは一層、憐み深くなることができる」と呼びかけておられます。

 律法の専門家のイエスに対する問いかけは、例えば、労働の対価としてそれに見合った報酬があるべきだ、というような意味合いです。しかし、神と私との関係では、「これだけすれば、これだけ報いがあるはずだ」という論理は通用しません。なぜなら、「神を信じる」とは、神からの一方的な働きかけに身を任せることに他ならないからです。

 〝見事〟な答えをした律法の専門家に対して、イエスは、「よく知っているではないか。それではその神の望みを具体的に生きなさい」と告げます。しかし彼は自分の常識にこだわり、隣人の範囲を明確に定めようとします。

 「善きサマリア人」のたとえ話は、神が求められている慈しみの思いに心を動かされず、自分の殻の中で生きようと目を閉じる二人と、神の慈しみの心に動かされて目を見開き、困窮する隣人の存在を認め、慈しみに具体的に生きよう、としたサマリア人の対比を描いています。

 私たちが求められている憐み深い行動は、単に私たち自身の優しい性格によっているのではなく、神ご自身の思い、張り裂けんばかりに揺さぶられている神の憐みの心に、私たちが自分の心を合わせることによって促される行動です。

 神ご自身は、ただ〝傍観者〟として憐みの心を持って見ているのではなく、行動されました。自ら人となり、十字架での受難と死を通じて、ご自分の慈しみを、目に見える形で生きられました。

 私たち一人ひとりの日常生活での出会いを通じて、また教会の組織を通じて、神の慈しみの心の思いを身に受けて、具体化して参りましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2025年7月12日

・「”シノドスの道”を共に歩み、福音宣教の務めを果たそう」菊地・東京大司教の年間第14主日メッセージ

2025年7月 5日 (土)週刊大司教第215回:年間第14主日C

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 6月30日の月曜日、毎年恒例の司祭の集いのミサが東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げられました。東京教区の歴代の教区司教は、土井枢機卿、白柳枢機卿、岡田大司教と、お三方ともペトロが霊名であったこともあり、聖ペトロと聖パウロの祝日に近い月曜に、教区司教のお祝いのミサを行ってきたと伺いました。

 私の霊名がペトロではないことから、この数年は、その年にお祝いを迎える司祭叙階の記念者(金祝や銀祝)をお招きして、司祭の集いのミサを捧げています。

 今年は、該当者の中から、イエズス会の岩島神父様、フランシスコ会の小西神父様、アウグスチノ会の柴田神父様がお祝いに参加してくださいました。

 また大阪万博のバチカンナショナルデーに参加するために、日本政府からの招聘で来日中であったバチカン国務長官であるパロリン枢機卿様も、ミサに臨席くださり、その後、東京教区で働く司祭団と昼食を一緒にしながら、しばし歓談してくださいました。この日は、朝大阪から移動され、午後には石破首相などと会う政府関連の公式行事もありましたが、教区の行事にも参加するための時間を空けてくださったパロリン枢機卿とモリーナ教皇大使に、感謝します。

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 7月1日と2日には、千葉県の白子で、東京教会管区の年次会議が行われました。札幌、仙台、新潟、さいたま、横浜、東京の6つの教区から、教区司教と事務局長や総代理などが集まり、情報交換のひとときを持ちました。二日目の午前には白子にある聖バチルド・ベネディクト白子修道院を訪問し、ミサを捧げて、修道院のシスター方と祈りの時を一緒にすることができました。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第215回、年間第14主日のメッセージ原稿です。

( 年間第14主日C(ビデオ配信メッセージ)2025年7月6日)

 ルカ福音は、「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」というイエスの言葉を記しています。

 この言葉を耳にするたびに、「働き手が少ない」という部分は切実な現実の問題として実感させられるのですが、「『収穫は多い』というのはどういう意味だろう」と考えさせられます。

 長年にわたって日本の地で福音は告げ知らされてきました。禁教と迫害の時代を挟んでいるとはいえ、日本における福音の種はすでに1549年から蒔き続けられてきました。救いの道を切り開く福音宣教は、徹底的に人間の業ではなくて神御自身の業であります。もちろん福音宣教は人の業として、時に殉教者の血に支えられながら、日本の地で続けられてきました。

 しかし福音宣教は、徹底的に神ご自身の業であります。ですから、慈しみそのものである御父は、ありとあらゆる手段を講じて、一人でも多くの人を救いに与らせようとされ、福音の種を蒔き続けておられます。

 それは私たち人間の成し遂げる業績でもありません。神様は自ら種を蒔かれ、すでに豊かな実りを用意されています。人間の常識からすれば、諸々の困難が社会の現実にはあり、「どう見ても、福音を告げ知らせることができない状況だ」と感じさせられたとしても、主御自身はすでに実りを用意されており、不足しているのはそれを見いだし、刈り取る私たち働き手であります。

 福音には主が72人を任命し、「ご自分が行くつもりの全ての町や村に2人ずつ遣わされた」と記されています。「福音を告げるように」と遣わされた宣教者は、神の支配の確立である平和を告げ知らせ、その告知は病人の癒しという具体的な行動を伴っていたことが記されています。

 同時に「福音を告げるように」と遣わされることは、たやすいことではなくて、「狼の群れに小羊を送り込むようなもの」と主ご自身が言われるように、命の危険も意味する数多の困難を伴う生き方です。まさしく主ご自身が十字架を持って具体的に証しされたように、福音を告げ知らせることも、命懸けの具体的な愛の証しの行動です。しかし同時にそれは、主がすでに用意された実りを見い出し、刈り取るための作業でもあります。私たちはありとあらゆる困難に直面しながらも、実りを見い出し、刈り取る者としての務めを果たさなくてはなりません。それが、召命です。

 信仰者は皆、「福音を告げるように」と派遣されています。私たち全てが、福音宣教者として派遣されています。働き手は「誰か」ではなく、「私」です。

 召命を語ることは、ひとり司祭・修道者の召命を語ることにとどまらず、全てのキリスト者に対する召命を語ることでもあります。司祭・修道者の召命があるように、信徒の召命もあることは、幾たびも繰り返されてきたところです。

 互いに耳を傾け合い、互いに支え合い、互いに道を歩み続ける弟子の姿は、今、「共に道を歩む教会」に変わろうとしている私たちへの模範です。福音を証しする”シノドスの道”を共に歩みながら、実りを見い出し、刈り取る者としての務めを果たして参りましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2025年7月5日

・「私たちも、自分自身の実体験から信仰を告白する者でありたい」—菊地・東京大司教の聖ペトロ聖パウロの主日メッセージ

2025年6月28日 (土)週刊大司教第214回:聖ペトロ聖パウロの主日

Catact1801 今年は、聖ペトロと聖パウロの祝日が日曜日と重なったため、この偉大な二人の使徒の記念日としての主日となります。ローマでは、この一年間に首都大司教(メトロポリタン)に任命された大司教が、教皇様からパリウムと呼ばれる肩掛けをいただく式が行われます。

 私がパリウムをいただいたのは、教皇フランシスコから2018年のこの時期でした。前日土曜の晩には、前田枢機卿様が枢機卿会の中で叙任された日でもありました。このときは、パリウムは小箱に入ったものを教皇様から渡され、帰国後に自分のカテドラルで、教皇大使からそれをいただくという形式でした。下の写真は、2018年当時の教皇大使チェノットゥ大司教様から、パリウムを授けられているところです。

1805b 今回教皇レオ14世は、以前の形式に戻して、ご自分で直接大司教たちに授けることにしたと聞いています。どちらにも象徴的な意味があると思いますが、今回のように直接の方が、確かにペトロの後継者である教皇と使徒の後継者である司教の絆を、直接的に感じることができるのではなかろうかと思います。

 ところで、聖ペトロ聖パウロの祝日に近い主日には、ペトロ使徒座献金が行われます。名称はなにか教皇庁の建物でも支える献金みたいですが、実際には教皇様の使徒職、特に困難に直面する人たちを助ける愛の業を実現するための、教皇様への個人的献金です。Peter’s PenceとかObolo di San Pietroと呼ばれ、中央協議会のホームページには次のような説明が記されています。

「教皇は毎年、世界各地を訪問します。そして、人々の苦しみや悩みを聞き、優しい笑顔で力づけ、数々の援助を与えます。キリストの代理者、教会の最高牧者である教皇は、祈りと具体的な援助を通して全世界の人々にいつも寄り添っているのです。この教皇に心を合わせて、私たちも世界中の苦しんでいる人々のために祈りと献金をささげます」

 是非教皇様の活動を支えるために、献金をお願いします。こちらは教皇庁広報省が用意した、今年の呼びかけのページとビデオのリンクです。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第214回、聖ペトロと聖パウロの主日のメッセージです。

【聖ペトロ聖パウロ使徒の主日C(ビデオ配信メッセージ)2025年6月29日】

 今年は6月29日の聖ペトロ聖パウロの祝日が日曜日と重なったため、主日としてこの二人の偉大な聖人の記念をいたします。

 昨年12月7日に、教皇フランシスコから枢機卿に叙任していただいた際に、教皇様から二つのしるしをいただきました。一つは枢機卿が「その命をかけて信仰を護る」という務めを象徴する深紅の帽子「ビレッタ」であり、もう一つは右手の薬指にはめる「指輪」です。この指輪には二人の人物、すなわち使徒ペトロとパウロの二人の姿が刻み込まれています。

 ペトロとパウロこそは、今に至るまで続く主の教会を支える二つの柱であります。二人は人生で歩んだ道は異なるものの、イエスご自身から声をかけられて使徒となり、その生涯を福音の告知のために捧げ、殉教への道を歩まれました。ペトロは使徒の頭として選ばれ、「神の民を牧するように」と命じられ、聖霊降臨を経て生み出された教会を育て、導きました。パウロは元来は熱心なユダヤ教徒としてキリスト者の信仰を激しく迫害するものでしたが、イエスご自身から回心へと招かれ、世界に向けて福音を告げ知らせる「宣教する教会」の基礎を築き上げました。

 そして二人は、信仰を命をかけて証しし、その血を持って教会の礎となられました。私たちはその二人の信仰を受け継ぎ、守り、育み、同じように勇気を持って信仰を証しするものとなるように招かれています。

 マタイ福音は、イエスが弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だといっているか」と問いかけた話を記しています。弟子たちは口々に、どこからか聞いてきた話をイエスに伝えます。

 「あの人はこう言っていた。こちらではこう言われている」。それは、根拠の薄い、または根拠のない噂話に過ぎません。全く今の時代を生きている私たちそのもの、のようです。自分が実際に見聞きしたわけでもないのに、ネット上に流れている情報を鵜呑みにして、即座に結論に到達しようとする私たちの姿そのものです。

 それに対してイエスは、「それで、あなたがたは私を何者だというのか」と問いかけます。根拠のない噂話ではなくて、自分の体験から得た自分自身の心の思いを語れ、と迫ります。イエスとの実際の出会い、交わり、信仰に基づいて、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたのは、ペトロでありました。私たちも、自らの実体験から信仰を告白するものでありましょう。

 ところでペトロの後継者である教皇様は、同時にローマの司教でもあります。5月25日、ローマの司教座であるラテラン大聖堂に着座されたレオ14世は、こう述べておられます—「ローマ教会は、ペトロ、パウロと数えきれない殉教者の証しを基盤とした、偉大な歴史の相続人です。そしてそれは独自の使命をもっています。この大聖堂のファサードの銘文の『すべての教会の母』に示されるとおりです」。

 その上で教皇様は、ペトロとパウロのエルサレムにおける対話が教会を大きく発展させたことに触れ、対話の重要性を強調されながら、「この教会は、大胆な計画に限界なく取り組み、新たな骨の折れる見通しにも立ち向かうことによって、『大きく』考えることができることを何度も示してきたからです」と述べ、今、教会が歩んでいる”シノドスの道”を歩み続けることの重要性を説いています。

 聖ペトロとパウロの祝日に当たり、改めて、教皇レオ14世のために祈りましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2025年6月28日

・「私たちを一致させるのは、聖体に凝縮されたイエスの御心」菊地・東京大司教の「キリストの聖体の主日」メッセージ

2025年6月21日 (土)週刊大司教第213回:キリストの聖体の主日C

   22日の主日はキリストの聖体の主日です。キリスト教が日本よりも社会認知されている国や伝統的なキリスト教国では、この日に合わせて、ご聖体を顕示しながら行列をして、聖体に現存する主を称え礼拝する聖体行列が行われます。私が昔、若い頃に主任司祭をしていたアフリカのガーナの村でも、大がかりな聖体行列をしていました。

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 日本でも聖体行列ができればそれに越したことはありませんが、同時にキリスト教が社会的に認知されず秘跡の意味合いが理解されていない地で、御聖体がご神体であったり、極論すれば見世物のように見なされる事態は避けなければなりません。

 御聖体はキリストの実存であり、ふさわしい敬意のうちに礼拝され、共にいてくださる主に感謝と祈りがささげられるのですから、持って回ればそれで良いというものではありません。つまり私たちの満足のためにするものではありません。

 キリスト教が今以上に認知され、ご聖体の意味が広く知られるようになる、そういったふさわしい宗教的環境を整えていく必要も、常日頃から感じています。

 同時にご聖体を通じて私たちと共におられる主キリストの聖体の主日にあたり、信仰やそれに伴う公の行動が制限され、信教の自由が侵害されている国で、また命を生きる危機を肌で感じながら信仰を守っている国や地域で、ご聖体のうちに現存される主が、常に共にいてくださり、兄弟姉妹を護ってくださることを信じ、祈りたいと思います。

 月曜日、6月23日は、「沖縄慰霊の日」です。太平洋戦争末期の沖縄戦で、陸軍の現地司令官だった牛島満中将が、昭和20年6月23日未明に、糸満の摩文仁で自決したとされており、沖縄県では1974年に「慰霊の日を定める条例」を制定し、戦没者の追悼と平和を祈る日とされています。

 沖縄県の「慰霊の日を定める条例」の第一条には、「我が県が、第二次世界大戦において多くの尊い生命、財産及び文化的遺産を失つた冷厳な歴史的事実に鑑み、これを厳粛に受けとめ、戦争による惨禍が再び起こることのないよう、人類普遍の願いである恒久の平和を希求するとともに戦没者の霊を慰めるため、慰霊の日を定める」とその目的が記されています。

 この日には沖縄全戦没者追悼式が行われますが、カトリック教会も那覇教区が、毎年この日に慰霊のミサと祈りを捧げる行事や、平和行進を行っており、80周年に当たる今年は、日本の多くの司教も参加する予定となっており、朝6時から小禄教会で私が司式して平和祈願ミサが行われます。当日の予定と、バーント司教様の平和メッセージは、こちらのリンクから那覇教区のホームページをご覧ください。

 以下、21日午後6時配信、キリストの聖体の主日メッセージです。

【キリストの聖体の主日C(ビデオ配信メッセージ)2025年6月22日】

 映画「教皇選挙」の上映と時期が重なったこともあって、キリスト教国ではない例えば日本においても、本当の教皇選挙が大きな注目を浴びました。私も教会やキリスト教について、マスコミで語る機会を多く与えられたことに感謝しています。映画は選挙の情景描写について非常に良くリサーチされており、実際の教皇選挙とほとんど変わらない様子が映し出されていました。もっとも実際の選挙人の人間関係においては、そこまで激しい駆け引きの”権力闘争”というよりも、「祈りのうちに聖霊の導きを真摯に求める一時だった」と実際に現場にいて感じました。

 その教皇選挙の前に行われた枢機卿総会では、教会の現状と新しい教皇への期待が参加した枢機卿たちから表明されましたが、その中で「一致の重要性」が多くの枢機卿から語られました。裏を返せば、「教会全体の一致が揺らいでいる」ということへの不安の表明でもあったと思います。

 教会のシノダリティ(共働性)を問う世界代表司教会議(シノドス)の終わり、2024年10月末に発表された最終文書は、そのままの形で今を生きる神の民の声を反映した、教皇ご自身の文書ということになりました。後日、教皇フランシスコはその冒頭に序文を加えられました。

 そこには、「もちろん教会には、教義と実践の一致が必要です。けれどもそれは、教義のいくつかの側面や、そこから帰結される何らかの結論の、解釈の多様性を排除するものではありません」という一文があり、その解釈の多様性が一致を阻害すると感じる人たちがいることは事実でしょう。

 もっとも教皇フランシスコご自身が、「この共同体としての聖霊の導きがどこへ向かっているのか、を明確に知ることは難しいこと」を自覚しておられたのは間違いなく、そのために即座に結論を求めるのではなく、「時間をかけて共同の識別を続けることの重要性」を説いておられました。とはいえ、私たちは辛抱強く待ち続けることに、不安を覚えます。

 その不安を払拭するのは、ご聖体の秘跡です。なぜなら、聖体は「一致の秘跡」であるからに他なりません。

 第二バチカン公会議の教会憲章には、「聖体のパンの秘跡によって、キリストにおいて一つのからだを構成する信者の一致が表され、実現される」(3項)と記されています。

 聖体は、私たちを分裂させ分断させるのではなく、キリストにおいて一致するように、と招く秘跡です。なぜならば、それこそがキリストご自身の私たちへの心であり、あふれ出る神の慈しみそのものの具体化だからです。

 ルカ福音書は、五つのパンと二匹の魚が、五千人を超える群衆の空腹を満たした奇跡物語を記します。イエスは奇跡を行う前に弟子たちに対して、「あなた方が彼らに食べ物を与えなさい」と命じることで、「人々を、共同体において常に一致させることの大切さ」を指摘しています。

 神の民として共に旅する私たちを一致させるのは、主イエスの私たち一人ひとりへの思いです。それは聖体に凝縮されたイエスの御心であり、まさしく聖体のうちに現存する主は、聖体を通じて私たちをその絆で結び、一致へと招いています。主と共に歩み続けましょう。私たちはご聖体の秘跡によって一致している神の民なのです。

(編集「カトリック・あい」)

2025年6月21日