・「苦難が続くミャンマーの教会のために、祈りと援助を続けよう」-菊地・東京大司教、東京教区の「ミャンマーデー」に

2025年11月16日 (日) 東京教区ミャンマーデー@関口教会

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 11月の第三日曜日は、東京教区にとってパートナー教会であるミャンマーの教会のために祈り献金を捧げる「ミャンマーデー」です。これまでの歴史や現在の支援活動については、こちらのリンクの東京教区ホームページをご覧ください。(写真は、2020年2月、マンダレーのマルコ大司教様と)

 ご存じのようにミャンマーでは、コロナ禍の最中に発生したクーデター後、政情不安定が続き、平和を訴えるカトリック教会は攻撃の対象となっています。今年のミャンマーデーにあわせて、ミャンマーからは南部のモーラミャイン教区からモリス司教様が来日され、現在東京でもメンバーが増えているミャンマー共同体と、本日午後に築地教会でミサを捧げて祈りを共にされています。

 ミャンマーには全人口の多数を占めるビルマ族と、それ以外の数多くの少数民族が、一緒になって国を作っています。

 しかしながら、多数派の占める軍が力を持ち、加えて隣国との国境地帯を中心に少数民族による独立運動が続いてきたこともあり、過去の歴史を顧みれば、現在のような状況の中で、対話ではなく武力を持って国家の安定を回復することは至難の業であり、多くの命が危機にさらされ、また暴力で奪われてしまうことは避けられません。

 政府はまもなく選挙を行うことにしていると報道されていますが、果たしてこの選挙が民主的に行われるのか、注目していきたいと思います。

 教会はクーデター後から、幾度も軍部や政府に対して、対話による平和構築を呼びかけてきましたが、それに対しては、武力による破壊がもたらされてきました。司教館やカテドラルを空襲で失った司教様もおられます。

 長年のパートナーであるミャンマーの教会のために祈りたいと思います。

 なお年間第33主日にあたる今日は、貧しい人のための世界祈願日でもあります。教皇様のメッセージはこちらにあります。

 教皇フランシスコの意向を引き継いで貧しい人への司牧を教会の中心に据える教皇レオ14世も、メッセージの中で様々な呼びかけを行っています。私自身もそうですが、その呼びかけをどのように具体的な行動に移していくのかが、大きな課題であると思います。いつも申し上げていることですが、皆が同じことをする必要はないと共に、皆が同じことをできるわけではないので、必ずこれをしなくてはならないということではありません。

 しかしながら、貧しい人々へのかかわりが単なる慈善活動ではなくて教会の司牧の中心にあるという教皇様の指摘を考慮するとき、格差を生じさせる社会全体の構造的な課題に目をつぶっていては結果として何も変わらないという状況が何十年も続いているのですから、具体的に教会がどう行動するのかを、今の次代の立ち位置から考えてみる必要を痛感しています。

以下、本日午前10時、東京カテドラル聖マリア大聖堂での主日ミサの説教原稿です。

【年間第33主日C・ミャンマーデー・ミサ 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2025年11月16日】

 教会は年間第33主日を、貧しい人々のための世界祈願日と定めています。2016年、いつくしみの特別聖年が終わるにともない、教皇フランシスコは、「世界中のキリスト教共同体を、もっとも小さくされた人々ともっとも困窮している人々に向けられたキリストの愛のより具体的で大きなしるしとするために」この祈願日を設けることを提案され、2017年から教会の世界祈願日として行われています。

 教皇フランシスコによれば、その第一の目的は、「使い捨てと浪費の文化を否定し、出会いの文化を受け入れるようキリスト者を励ますこと」であり、同時に「兄弟愛の具体的な表れであるあらゆる連帯活動を通して、貧しい人と分かち合うよう、宗教の別に関わりなく、すべての人を」招くことも目的としています。分断と排除が推し進められている世界の風潮に対して警鐘を鳴らし続けた教皇フランシスコは、経済的困窮のために人間の尊厳を否定され、社会から忘れ去られ、いのちの危機に直面する方々とともに歩むことの重要性を指摘し、こう言われました。

 「もしキリストに会いたいと真に望むなら、聖体のうちに与えられる秘跡的な交わりへの応答として、わたしたちは貧しい人の傷ついたからだの中におられるキリストのからだに触れなければなりません」

 困難に直面する人たちへの愛の奉仕は、わたしたちの自己満足のためではなく、その人たちとの出会いと分かち合いを通じて、キリストと出会うことであると、教皇は述べておられました。すべての人に与えられたいのちの賜物を、例外なくすべて護ることは、私たちの大切な使命です。

9回目となる今年の教皇メッセージは、詩編71篇からとられた「主よ、あなたは私の希望」をテーマとしています。

 この一年、私たちが過ごしている聖年のテーマは「希望の巡礼者」ですが、教皇レオ14世はメッセージの中で、「人生の試練のただ中で、聖霊によって心に注がれる神の愛に対する堅固で力強い確信によって、希望は力づけられます。だから、希望は欺くことがありません」と、聖年の柱となるメッセージを繰り返しておられます。

 その上で、「貧しい人々は、貧困、脆弱さ、疎外による不安定な生活条件の中で希望を告白するからこそ、力強く信頼できる希望の証人となることができます。彼らは権力や富の安定を当てにしません。・・・彼らは別のところに希望を置くしかありません。私たちも、神が第一の、また唯一の希望であることを認めることによって、儚い希望から、永遠の希望へと移ります」と呼びかけておられます。

 教皇レオ14世は、教皇フランシスコが最初のメッセージで強調した点を繰り返し、貧しい人たちとの関わりは単なる慈善事業ではなく、教会の司牧活動の中心に貧しい人たちがいることを指摘されます。その上で、「神は貧しい人々の貧しさを引き受けました。それは、彼らの声と物語と顔を通して、私たちを豊かにするためです。あらゆる形の貧困は、例外なしに、福音を具体的に生き、希望の力強いしるしを示すようにとの呼びかけです」と記し、教会共同体が社会の現実の中で、福音を具体的に明かしする存在であるように呼びかけています。

 私たちは、今、この社会の中で、何を証しする存在であるでしょうか。教会は何を証しているでしょうか。

 本日は東京教区にとってはミャンマーデーであり、私たちの兄弟姉妹であるミャンマー共同体の皆さんと心を合わせ、ミャンマーのために祈りを捧げています。コロナ禍の最中に起こったクーデター後、未だに政情は安定せず、平和を唱え行動するカトリック教会に対しては、武力による攻撃も起こっています。いくつもの教会が破壊され、カテドラルと司教館を失った司教様もおられます。ミャンマーの平和のために特に祈りたいと思います。

 ミャンマーの教会とのパートナーシップの原点は、東京教区が第二次世界大戦後、ドイツのケルン教区によって支援を受けたことに遡ります。1979年、両教区の友好25周年にあたり、当時の白柳誠一東京大司教は「ケルン精神」、すなわち自己犠牲の精神を学び、ケルン教区の召命のために祈るよう教区の信者に呼びかけ、来日した当時のケルン教区長ヘフナー枢機卿との話し合いで、両教区は力をあわせてミャンマーの教会を支援することに合意しました。東京大司教区では、毎年11月の第3日曜日を「ミャンマーデー」と定め、ミャンマーの教会のための献金を呼びかけ、パートナー教会のために祈りを捧げてきました。

 シノダル(共働的)な教会は、「共に支え、共に耳を傾け、共に祈りあいながら、聖霊に導かれて道を歩んでいく教会」ですが、そう考えてみると、すでに1954年にケルンが東京を支援し始めたとき、そして1979年に両教区が協力しながらミャンマー支援を始めた時に、ケルンと東京とミャンマーの教会共同体は、”シノドスの道”を歩んでいたということができます。このシノダルな教会のあり方を、さらに継続し、深めていきたいと思います。

 教皇レオ14世は、先ほどの祈願日のメッセージの終わりにこう書かれています。

 「この聖年が、古くからの形態と新たな形態の両方の貧困と戦い、また、もっとも貧しい人を支え、助ける新たな取り組みを行うための政策の発展を促しますように。労働、教育、住居、健康は、安全の土台です。武力によって安全を保障することはできません」

 貧しさへの取り組みは、経済的問題だけではなく、人間の尊厳の問題であり、神の平和の確立こそがその解決になります。パートナー教会であるミャンマーの平和のために祈り行動することも、この世界祈願日にふさわしいことであると思います。

 典礼の暦は待降節から新しく始まりますので、暦の終わりのこの時期には、世の終わりについて語られるイエスの言葉に耳を傾けます。

 世の終わりは一体いつ訪れるのか。世の終わりにおける主イエスの再臨を待ち望んでいるわたしたちにとって、関心のあることであろうと思います。しかしイエスは、社会の中で次々と起こる不安を深める状況に振り回されることなく、感情的に振り回されないようにと忠告します。その上で、イエスは、「忍耐によって、あなた方はいのちを勝ち取りなさい」と諭します。

 簡単に情報にアクセスできる昨今、不確実な情報に振り回されることも多くなりました。情報の流れを操作することで、一定の世論を生み出すこともできるようになりました。そのような時代だからこそ、振り回されることなく、時のしるしを読み取りながら、忍耐のうちにイエスの言葉に従い続け、真の命に到達できるように努めたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2025年11月16日

・「教会共同体の取り組みの中心に誰がいるのか、見つめ直そう」-「貧しい人々のための世界祈願日」に菊地・東京大司教

 2025年11月15日 (土) 週刊大司教第232回:年間第33主日C

 典礼の暦も終わりに近づいてきました。16日は年間第33主日です。

 年間第33主日は、「貧しい人々のための世界祈願日」です。2016年、慈しみの特別聖年が終わるに伴い、教皇フランシスコは「世界中のキリスト教共同体を、最も小さくされた人々と最も困窮している人々に向けられたキリストの愛のより具体的で大きなしるしとするために」、この祈願日を設けることを提案され、2017年から教会の世界祈願日として行われています。

 「分断と排除」が推し進められている世界の風潮に対して警鐘を鳴らし続けた教皇フランシスコは、経済的困窮のために人間の尊厳を否定され、社会から忘れ去られ、命の危機に直面する方々と共に歩むことの重要性を指摘して、こう言われました。

 「もしキリストに会いたいと真に望むなら、聖体のうちに与えられる秘跡的な交わりへの応答として、私たちは貧しい人の傷ついた体の中におられるキリストの体に触れなければなりません」。

 困難に直面する人たちへの愛の奉仕は、「私たちの自己満足のためではなく、その人たちとの出会いと分かち合いを通じて、キリストと出会うことだ」と教皇は述べておられました。すべての人に与えられたいのちの賜物を、例外なくすべて護ることは、わたしたちの大切な使命です。

 今年の教皇レオ14世のメッセージは、こちらのリンクからご覧いただけます。「貧しい人々のための世界祈願日」が始まって9回目となる今年の教皇メッセージは、詩編71篇からとられた「主よ、あなたは私の希望」をテーマとしています。

 以下、15日午後6時配信、週刊大司教第232回、年間第33主日のメッセージです。

【年間第33主日C(ビデオ配信メッセージ)2025年11月16日】

 典礼の暦は待降節から新しく始まります。暦の終わりのこの時期には、世の終わりについて語るイエスの言葉に耳を傾けます。

 世の終わりは、いったい、いつ訪れるのか。世の終わりにおける主イエスの再臨を待ち望んでいる私たちにとって関心のあることだろう、と思います。しかしイエスは、社会の中で次々と起こる不安を深める状況に振り回されることなく、そういった諸々の不安を醸し出す出来事に振り回されないように、と忠告されます。その上で、イエスは、「忍耐によって、あなた方は命を勝ち取りなさい」と諭されます。

 情報に容易にアクセスできる昨今、不確実な情報に振り回されることも多くなりました。情報の流れを操作することで、一定の世論を生み出すことができてしまうようになりました。そのような時代だからこそ、振り回されることなく、時のしるしを読み取りながら、忍耐のうちにイエスの言葉に従い続け、真の命に到達できるように努めたいと思います。

 第二バチカン公会議は、「時のしるし」を読み解き行動することを柱の一つに据えました。公会議を締めくくる「現代世界憲章」は、「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、特に貧しい人々とすべて苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある」と指摘した後に、教会は「常に時のしるしについて吟味し、福音の光のもとにそれを解明する義務を課されている(4)」と記しています。「時のしるし」を福音の光に照らされて読み解くのは、私たちの務めです。

 教会は年間第33主日を「貧しい人々のための世界祈願日」と定めています。今年の教皇メッセージのテーマは、詩編71篇からとられた「主よ、あなたは私の希望」とされています。

 この一年、私たちが過ごしている聖年のテーマは「希望の巡礼者」ですが、教皇様はメッセージの中で、「人生の試練のただ中で、聖霊によって心に注がれる神の愛に対する堅固で力強い確信によって、希望は力づけられます。だから、希望は欺くことがありません」と、聖年の柱となるメッセージを繰り返しておられます。

 その上で、「貧しい人々は、貧困、脆弱さ、疎外による不安定な生活条件の中で希望を告白するからこそ、力強く信頼できる希望の証人となることができます。彼らは権力や富の安定を当てにしません… 彼らは別のところに希望を置くしかありません。私たちも、神が第一の、また唯一の希望であることを認めることで、儚い希望から、永遠の希望へと移ります」と呼びかけておられます。

 教皇様は、貧しい人たちとの関わりは慈善事業ではなく、司牧活動の中心に貧しい人たちはおられ、「神は貧しい人々の貧しさを引き受けました。それは、彼らの声と物語と顔を通して私たちを豊かにするためです。あらゆる形の貧困は、例外なしに、福音を具体的に生き、希望の力強いしるしを示すように、との呼びかけです」と記されています。

 教会共同体の取り組みの中心に誰がいるのか、見つめ直してみたいと思います。時のしるしを正しく読み取り、忍耐強いものでありたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2025年11月15日

・「私たちは教皇と共に歩み、共に主の身体を作り上げる神の民」-菊地・東京大司教の「ラテラノ教会献堂の祝日」説教

2025年11月 8日 (土)週刊大司教第231回:ラテラノ教会の献堂

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 9日の年間第32主日は、ラテラノ教会の献堂の記念日と重なります。ラテラノ教会とは、ローマ司教の司教座聖堂、すなわち教皇様のカテドラルの献堂の記念日ですので、主日に優先してお祝いされます。今日は特に教皇レオ14世のためにお祈りいたしましょう。

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 11月6日夜から7日午後にかけて、上石神井にある日本カトリック神学院で神学院司教会議を行い、全国のほぼ全員の司教が神学院に集まり、神学院に一泊して神学生と交流し、共に祈り、そして神学院の運営について話し合いました。神学生のために、また司祭修道者の召命のためにお祈りください。

 以下、8日午後6時配信、週刊大司教第231回、ラテラノ教会献堂の主日のメッセージです。

【ラテラノ教会の献堂C 2025年11月9日】

 11月9日はラテラノ教会の献堂の祝日です。今年は日曜日と重なりましたので、主日に、この献堂記念を祝うことになります。なぜならば、ラテラノ聖堂とは、教皇様のローマ司教としての司教座聖堂・カテドラルとして重要な意味を持っているからです。

 普遍教会の牧者であるローマ教皇のカテドラル献堂を祝うことは、私たちの教会は、あたかも「本店があって支店がある」というような、”本店”であるローマの教会の”支店”が日本にある、ということなのではなく、一人の牧者の下に、どこにいても皆で一つの神の民を形成しており、それぞれの教会は一つの身体の部分なのだ、ということを思い起こさせます。その意味で、ラテラノ教会の献堂の祝日は、私たちに、「教会とはいったい何であるのか」を改めて考えさせる祝日です。

 ”シノドスの道”は、まさしくこの「教会とは何であるのか」を改めて振り返ることを、私たちに求めていました。教会は各地にある建物のことではなく、「時の流れの中を、共に旅する神の民」であることを改めて自覚し、神の民として共に歩み、支え合い、耳を傾け合い、共に祈ることを通じて、聖霊の導きを識別することを目指しているのが、今、進められている”シノドスの道”の歩みです。

 それぞれの地方の教会が勝手に歩んでいるのではなく、皆が一つになって構成する神の民の一部分であることを自覚するためにも、その中心にある教皇様のカテドラルの存在を意識することは大切です。

 この地上における目に見える組織としての教会は、同時に霊的な交わりとしての教会でもあり、さらには天上の教会とも繋がれています。教会憲章の8項には、次のように書かれています。

 「位階制度によって組織された社会とキリストの神秘体、目に見える集団と霊的共同体、地上の教会と天上の善に飾られた教会は、二つのものとして考えられるべきではなく、人間的要素と神的要素を併せ持つ複雑な一つの実在を形成している」

 ですから、教会共同体のありかたを、普遍教会のレベルでも、地方教会のレベルでも、社会一般の価値観で判断していくことは、必ずしもふさわしいことではありません。私たちは、様々な考え方や思想を持った人間ですが、同じ信仰において結ばれていることを心にとめて、自分の考えではなく、神によって集められたものとして、互いの違いを乗り越えてキリストの神秘体を形作る努力をしなくてはなりません。

 私たち一人ひとりが教会です。一人ひとりが教会を構成するのです。日曜日に教会という建物に来たときだけ。私たちは教会の一員になるのでなく、信仰者として生きている限り、常にどこにあっても、私たちは大きな神の民の一部として、教会に生きていくのです。

 ヨハネ福音でイエスは、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」とユダヤ人たちに語ります。建物ではなく、ご自身そのものが神殿であることを、明確にします。ですから教会は、復活されたイエスの体であります。

 その意味で、神の民を牧者として導く役割を主ご自身から託されたペトロの後継者である教皇様のために、この祝日には祈りを捧げましょう。私たちは教皇様と共に歩み、共に主の身体を作り上げる神の民なのです。

(用語編集「カトリック・あい」)

2025年11月8日

・「諸聖人の祝日と死者の日は二つで一つの記念、教会が地上と天上の交わりのうちに存在していること思い起こさせてくれる」-菊地・東京大司教

2025年11月 1日 (土)週刊大司教第230回:死者の日

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  11月1日は諸聖人の祝日、2日は死者の日とされています。

 この時期の全免償についてメッセージでも触れています。今年は聖年ですので、次の文書も参照ください。「教皇フランシスコにより発表された2025年の通常聖年の間に与えられる免償に関する教令」で、リンク先は中央協議会のホームページです。次のように記されています。

「2025年の通常聖年の期間中、すでに与えられた他の免償は有効であり続けます。心から痛悔し、罪の傾きから離れ(『免償の手引き』[Enchiridion Indulgentiarum, IV ed., norm. 20, § 1]参照)、愛の精神に動かされ、聖年の間、ゆるしの秘跡によって清められ、聖体に力づけられ、教皇の意向に従って祈る信者は、教会の宝から全免償が与えられ、その罪の赦免とゆるしが与えられます。これは代願のかたちで、煉獄の霊魂に対して与えられることも可能です」

 東京教区では11月2日の午後、合同追悼ミサが三カ所で捧げられます。関口のカテドラル、府中墓地、そして五日市霊園で、すべて午後2時から始まります。カテドラルは私、府中墓地はアンドレア司教様、五日市霊園は小田武直神父様の司式となります。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第230回、死者の日のメッセージ原稿です。

【死者の日主日C 2025年11月2日】

 11月1日は諸聖人の祝日であり、翌2日は死者の日とされています。教会の伝統は、11月1日から8日までの間、全免償を得ることで、それを煉獄の霊魂に譲ることができる、とも定めています。この期間、赦しの秘跡を受け、どこであっても聖堂を敬虔に訪問し、聖体をいただき、墓所で祈り、主の祈りと信仰宣言を唱えて全免償をいただき、それを煉獄の死者に譲ることができます。

 もちろん今年は聖年ですから、教皇庁内赦院の定めによって、「赦しの秘跡によって清められ、聖体に力づけられ、教皇の意向に従って祈る信者は、教会の宝から全免償が与えられ」、それを煉獄の霊魂のために与えることは年間を通じて可能とされています。

 『カトリック教会のカテキズム』には、聖人たちとの交わりについて、次のように記されています。

 「私たちが天の住人の記念を尊敬するのは、単に彼らの模範のためばかりではなく、それ以上に、全教会の一致が兄弟的愛の実践をとおして霊において固められるからです… 諸聖人との交わりは、私たちをキリストに結び合わせるのであって、全ての恩恵と神の民自身の生命は泉、あるいは頭からのように、キリストから流れ出ます」(957項)

 また死者への祈りついて、カテキズムは、こう記します。

 「…死者のための私たちの祈りは、死者を助けるだけでなく、死者が私たちのために執り成すのを有効にすることができるのです(958項)」

 11月1日と2日の記念は、二つでひとつの記念であり、教会は地上と天上の交わりのうちに存在していることを、私たちに思い起こさせてくれます。

 イエスをキリストと信じる私たちは、イエスに結ばれることで、「イエスを信じ、その御体を食べ、御血を飲む人々を世の終わりに復活させてくださる」のだと確信し、永遠の命に生きる大きな希望を持ちながら、この人生を歩んでいます。私たちの人生の歩みは、この世の命だけで終わるものではなく、永遠の中で私たちは生かされています。

 私たちは、信仰宣言で「聖徒の交わり」を信じると宣言します。そもそも教会共同体は「聖徒の交わり」であります。教会共同体は孤立のうちに閉じ籠る”排他的集団”ではなく、命を生かすために互いに支え合う”連帯の共同体”です。シノドス(共働)的教会です。共に歩む教会、互いに耳を傾け合う教会、互いに支え合う教会、それこそが「交わりの教会」そのものであります。

 私たちは、地上の教会において、御聖体を通じて一致し、一つの体を形作っており、互いに与えられた賜物を生きることによって、主ご自身の体である教会共同体全体を生かす分かち合いにおける交わりに生きています。同時に教会は、「地上で旅する者、自分の清めを受けている死者、また天国の至福に与っている者たちが、皆ともに一つの教会を構成している」とカテキズムに記しています。

 シノドス的な教会は、天上の教会との交わりの中で、霊的に支え合う共同体です。ですから、例えば祈りの側面がかけていて、この世における助け合いの集団となってしまっては、本来の意味とは異なるものとなってしまいます。シノドス的教会は聖徒の交わりの教会です。地上と天上の交わりにある教会です。

 ですから私たちは死んでいなくなってしまった人たちを嘆き悲しむ祈りを捧げるのではなく、今、一緒になって一つの教会を作り上げているすべての人たちと共に捧げる、今、生きている祈りをささげるのです。

(表記を当用漢字表記に統一しました=「カトリック・あい」)

2025年11月1日

・「私たちが求められている謙遜さは『神に全てを委ねているかどうか』だ」-菊地・東京大司教の年間第30主日メッセージ

2025年10月25日 (土)週刊大司教第229回:年間第30主日C

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 時は瞬く間に過ぎ去り、10月も最後の日曜日となりました。今月の最初の頃は枢機卿名義教会着座式のためにローマにいたことが、遙か昔のようです。左の写真は10月8日の一般謁見です。

 先週19日は、世界宣教の日でありました。中央協議会のホームページに以下の説明が掲載されています。

「世界宣教の日」は、すべての人に宣教の心を呼び起こさせること、世界の福音化のために、霊的物的援助をはじめ宣教者たちの交流を各国の教会間で推進することを目的としています。この日の献金は、各国からローマ教皇庁に集められ、世界中の宣教地に援助金として送られます。日本の教会は、いまだに海外から多くの援助を受けていますが、経済的に恵まれない国々の宣教活動をさらに支援できるように成長していきたいものです。

 教皇庁宣教事業に関しては、日本における対応部署のホームページが設けられており、そこに詳細が記されていますので、一度お訪ねください。現在の日本全体の教皇庁宣教事業担当者は、東京教区の門間直輝神父様です。

 25日の週刊大司教でも触れた今年の世界宣教の日の教皇メッセージは、そのサイトに掲載されています。こちらからご覧ください

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 以下、25日午後6時配信、週刊大司教第229回、年間第三十主日のメッセージです。

 【年間第30主日C(ビデオ配信メッセージ)2025年10月26日】

 私たちの目は”節穴”です。肝心な本質が見えていません。往々にして、思い込みと勘違いを引き起こしています。ルカ福音は、本質を知るためにどこに目を向けるのか、を記しています。

 福音は、「神様、罪人の私を憐れんでください」と、目を上げることもなく胸を打った徴税人の方が、自らの正しい行いを誇るファリサイ派の人よりも、神の目には正しい人とされた話を記します。

 当時の徴税人は様々な不正に手を染めていたとも言われ、多くの人の目には正しい人とは映らなかったことでしょうし、ファリサイ派の人は掟を忠実に守っていることから、多くの人からは正しい人と見なされていたことでしょう。神の目には本質が見え、私たちの目は”節穴”です。

 ファリサイ派の人が自分を見つめています。自分しか見えていません。自分はどういう人間なのか。彼が語るのは、自分のことばかりであり、自分の世界に閉じこもっているので、その世界では自分が一番に決まっています。ですから臆面もなく、報いを求めます。

 それに対して徴税人は、その目を神に向けています。自分がどういう人間であるのか、という判断をするのではなく、それをすべて神の判断に委ねています。つまり二人の違いは、自らの存在を神に委ねているか、委ねていないか、にあります。

 私たちには、単にマナーとして謙遜になることが求められているのではありません。求められている謙遜さは、神にすべてを委ねているかどうか、であります。御旨に従うことは、格好良く見栄え良く生きることではありません。

 自分の名誉のためではなく、神が「救いたい」と望んでおられる全ての命に福音が届けられるように、神の計画に身を委ね、全てを尽くして福音を証しするものとなりたいと思います。

 先週、10月19日は「世界宣教の日」でありました。教皇レオ14世はこの日のためのメッセージのテーマを「諸民族の中で生きる希望の宣教者」とされ、「キリストの足跡に従って希望の使者となり、それを築く者となるという根本的な召命」がキリスト者一人ひとりと教会共同体にはあるのだ、と強調されています。

 その上で教皇は、第二バチカン公会議の現代世界憲章に記されている、「「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、とくに貧しい人々とすべての苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある。真に人間的な事柄で、キリストの弟子たちの心に響かないものは何もない」(『現代世界憲章』1項)を引用して、「キリストの弟子たちはまず、自らが希望の『職人』となり、混乱し不幸に陥りがちな人類を回復させる者となる修練を積むよう求められています」と、全てのキリスト者がそれぞれの立場に応じて福音宣教をする者となるように、求めておられます。

 私たちも自らの宣教者としての使命を思い起こし、福音を、よりふさわしく証しする道を探り続けたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2025年10月25日

・「執拗に祈り続け、語り続け、証し人となり続けよう」-菊地・東京大司教の年間第29日メッセージ

週刊大司教第228回:年間第29主日C

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 先週は、10月9日木曜日夕方6時からローマで行われた枢機卿名義教会着座式のため、週刊大司教は一度お休みさせていただきました。

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 着座した名義教会サン・ジョバンニ・レオナルディ教会は、ローマ市郊外の比較的新しい住宅地にある生き生きとした小教区です。聖ジョバンニ・レオナルディが創立した修道会の会員が司牧にあたり、現在はインド出身の司祭が担当されています。

 日本ではあまり知られていない聖ジョバンニ・レオナルディについては、以下のメッセージで触れている教皇ベネディクト16世の、2009年10月7日の一般謁見での講話で詳しく紹介されています。こちらのリンクから是非お読みください

 同小教区聖堂は、サイズ的に300人程度の規模ですが、戦後に発展した住宅地にあり、信徒の方々が自分たちの努力で建設した教会だと伺いました。日曜日には4回のミサが捧げられているそうです。敷地内にはいわゆる学童保育的施設やカリタスのセンター、そしてサッカー教室などもあり、子どもたちも多く見られました。

 この日のミサには日本からの巡礼団だけで100名を超えていたため、聖堂に入りきれない恐れがあり、まず名義教会着座式を聖堂で行い、その後に隣にある運動場に移動して、そこでのミサとなりました。信徒の方々にとってはこの日、10月9日は、保護の聖人である聖ジョバンニ・レオナルディの祝日であり、木曜の着座式に始まって日曜の堅信式までの小教区フィエスタの初日となりました。

 運動場にはステージが設けられ、その上でミサを捧げましたが、その後は深夜まで、コンサートが行われ、地域の大勢の方が参加されていました。

 日本からは前田枢機卿様、中村大司教様、中野司教様、アンドレア司教様、その他複数の巡礼団の皆さんが参加してくださり、東京教区を代表して事務局長の泉神父様と赤井職員1760084876463、枢機卿秘書役として小西神父様、前田枢機卿秘書としてスック神父様、巡礼団に同行して山口道孝神父様が参加されました。また日本政府を代表して駐バチカンの千葉大使ご夫妻や、国際カリタス事務局長始めシニアスタッフ、ローマのカトリック日本人会、留学中の司祭や修道者・信徒の皆さん、さらにはローマ市の代表も参加されました。皆さんありがとうございます。心から感謝申し上げます。

 右の写真の祭服は、小教区に伝わる祭服だそうです。カズラの下にはダルマチカも着用しています。侍者は福音宣教省管轄下のウルバノ大学で学ぶ神学生たちが来てくださり、全体の儀式は教皇儀典室のモンセニョール(教皇フランシスコ訪日の際にも来られたモンセニョール)がおいでになり、しっかりと仕切ってくださいました。わたしは彼のささやきの通りに動きました。なおミサはイタリア語です。練習しました。説教は日本語で行い、アンドレア司教様が翻訳してくださいました。説教原稿は別途掲載します。

 以下、18日午後6時配信の年間第29主日のメッセージです。

《年間第29主日C(ビデオ配信メッセージ)2025年10月19日》

 10月9日の夕刻、ローマ郊外にあるサン・ジョバンニ・レオナルディ教会において、枢機卿の名義教会の着座式を行いました。

 枢機卿になることによって、名義上はローマの司祭団の一員に加えられますので、慣例によって枢機卿にはローマ教区内のいずれかの小教区が名義教会として割り当てられます。ローマ教区の教区司教である教皇様のもとには、300を超える小教区があり、枢機卿の数を超えていますから、中には伝統によって長年名義教会であるところもありますが、私の名義教会は今回が初めてとなります。

 そのためもあって、着座式には多くの信徒の方が参加され、活気のある小教区共同体の一面を体験することができましたし、日本からも巡礼団を始め100名を超える方が一緒に参加くださいましたので、日本とローマの教会共同体の絆も生まれたのではと期待しています。私がこの小教区の運営に直接関わるわけではありませんが、今後も信仰上の交わりを深めたいと思います。

 10月9日は聖ジョバンニ・レオナルディの祝日でもありました。教皇ベネディクト16世は、2009年10月7日、聖人の没後400周年を記念したメッセージで次のように聖人を紹介されています。「聖ジョヴァンニ・レオナルディは神の母律修参事会の創立者で・・・強い宣教への熱意においても記憶にとどめられています。レオナルディはフアン・バウティスタ・ビベスとイエズス会士のマルティン・デ・フネスとともに宣教者のための聖座の特別な省、すなわち布教聖省と将来の布教聖省直属のウルバノ大学の設立を計画し、そのために貢献しました」

 その上で教皇は、「ジョヴァンニ・レオナルディは、イエス・キリストと個人的に出会うことを自らの根本的な存在理由にしようと努めました。彼が繰り返していったとおり、「キリストから再出発しなければなりません」。すべてにおいてキリストを第一とすることが、彼の判断と行動の具体的な基準であり、司祭としての活動を生み出す原理でした」と述べておられます。福音宣教を第一に掲げて活動された聖人の教会を、名義教会としていただいたことに、心から感謝しています。

 本日のルカ福音は、「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために」、イエスが裁判官相手に正義の行使を求め続ける一人のやもめの話を記しています。その執拗な要求に、裁判官が降参してしまった様を記したあとに、「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、いつまでも放っておかれることがあろうか」というイエスの言葉が記されています。

 そうであるならば、私たちは困難にめげることなく、神の福音をのべ伝え続けましょう。諦めることはありません。執拗に祈り続けましょう。執拗に語り続けましょう。執拗に証し人となり続けましょう。

  10月はロザリオの月です。教皇レオ13世によって、10月は聖母マリアに捧げられた「ロザリオの月」と定められました。福音宣教における困難な状況に立ち向かうためにも、神の母であり、教会の母であり、そして私たちの母である聖母マリアの取り次ぎによって、多くの人に救いのメッセージがもたらされるように、共にいてくださる主イエスと歩みを共にしながら、祈り続け、証しを続けていきましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2025年10月18日

・「私どもは取るに足りない僕」と心から告白できる者であり続けたい—菊地・東京大司教の年間第27主日メッセージ

2025年10菊地・東京大司教の「週間大司教」第227回:年間第27主日 「10月はロザリオの月」

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 時間が過ぎるのは本当に速いものです。数日前まで真夏のように暑い毎日でしたが、少しづつ秋が近づいている気配もあります。その秋らしい季節の10月は、ロザリオの月でもあります。

 10月7日にはロザリオの聖母の祝日があり、伝統的に10月にロザリオを祈ることが勧められてきたこともあり、教皇レオ十三世によって10月が「ロザリオの月」と定められました。

 ロザリオの起源には諸説ありますが、十二世紀後半の聖人である聖ドミニコが、当時の異端と闘うときに、聖母からの啓示を受けて始まったと言われています。ある意味、ロザリオは信仰における戦いのために道具であるのは事実です。

 10月7日のロザリオの聖母の記念日が1571年のレパントの海戦でのオスマン・トルコ軍への勝利がロザリオの祈りによってもたらされたことを記念していますが、そういった時代からは社会のあり方が変わった現代社会にあっても、信仰を守るために重要な存在であると思います。

 社会全体の高齢化が進む中で、実際に教会共同体に足を運ぶことが適わない人にとっても、ロザリオの祈りで、霊的共同体の絆を深めることは意味があることだと思います。

 来週は枢機卿名義教会への着座式(10月9日)のため、巡礼団と共にローマへ出かけていますので、週刊大司教はお休みします。次回の週刊大司教第228回は、10月18日夜6時の配信になります。

 以下、4日午後6時配信の週間大司教第227回、年間第27主日のメッセージです。

【年間第27主日C(ビデオ配信メッセージ)2025年10月5日】

 ルカ福音は、使徒たちがイエスに対して「私どもの信仰を増してください」と願ったことをまず記しています。確かに神を信じて生きるとき、「信仰」という目に見えない事柄を誰かが強めてくれたら、そんなに楽なことはありませんから、そのように願う弟子たちの気持ちも分からないではありません。しかし、イエスの答えは有名な「からし種一粒ほどの親交があれば」という言葉でした。

 もちろん、イエスは「本物の信仰があれば何でもできる」と言いたかったわけではありません。イエスがここで指摘するのは、「信仰というのは、誰かによって強めてもらうような類いのものではなく、人生における自分の選択と、それに基づく行動によっているのだ」ということです。

 6月に行われた聖年の神学生の祝祭のおりに、教皇レオ14世は集まった神学生たちに対して、「信仰は、積極的に行動することで深まる」として、次のように話されました。

 「キリストのみ心は、計り知れない憐れみによって動かされていました。キリストは人類の善きサマリア人であり、私たちにこう語りかけます。『行って、あなたも同じようにしなさい』。この憐れみは、群衆のために御言葉と分かち合いのパンを裂くように、と、キリストを突き動かしました。それは、そのときご自身を食べ物として与えた、二階の広間と十字架でのキリストの振る舞いを垣間見させました。そしてキリストは、こう言われました。『あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい』。それは、あなたがたのいのちを愛のたまものとしなさいという意味です」。

 信仰は、まさしく「あなた方の命を愛の賜物としなさい」というイエスの招きに応えることによって、強められます。

 さらに福音は、務めに対して忠実で謙遜な僕について語るイエスの言葉を記しています。すべき務めをすべて果たした時に、「私どもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と言う謙遜な姿勢こそが、忠実な僕のあるべき姿だ、とイエスは語ります。

 私たちが信仰を生きる姿勢は、まさしくそのように、それぞれの与えられた召し出しに忠実に、そして謙遜に生きるところに意味があることを、イエスは強調されます。神に対する忠実さと謙遜さが、私たちにはあるでしょうか。

 昨日10月4日で、今年の「すべての命を守る月間」は終わりました。しかしエコロジカルな回心への招きには、終わりはありません。

 教皇フランシスコは環境回勅「ラウダート・シ」において、「神との関わり、隣人との関わり、大地との関わりによって、人間の生が成り立っている」と記しておられます(66項)。その上で、「私たちはずうずうしくも神に取って代わり、造られたものとしての限界を認めることを拒むことで、創造主と人類と全被造界の間の調和を乱しました」と指摘されました。創造主に対する忠実さと謙遜さの喪失こそが、神に背を向ける姿勢をもたらし、ひいては被造物を、そして共に住む家を破壊する行動に繋がっている、と指摘された教皇フランシスコは、神の前で忠実さと謙遜さを取り戻す回心の必要性を説き続けられました。

 「私どもは取るに足りない僕です」と心から告白できる者であり続けたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2025年10月4日

・私たちは「心の扉を開いて、出向いていく教会」になっているか―菊地・東京大司教、「世界難民移住移動者」の日に

2025年9月27日 (土)週刊大司教226回:年間第26主日C

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 九月最後の日曜日となりました。年間第26主日にあたるこの日、9月最後の主日を、教会は世界難民移住移動者の日と定めています。

 この日にあたっての教皇レオ14世のメッセージは、「移住者—希望の宣教者」をテーマとし、次のように指摘されています。

「多くの移住者、難民、避難民は、彼らが神に身をゆだね、未来のために逆境に耐えることを通して、日々の生活の中で生きる希望の特別な証人となっています。彼らはこの未来の中に、幸福と総合的な人間的発展が近づくのを垣間見るからです。彼らにおいてイスラエルの民の旅の経験が繰り返されます」

 教皇様は、教会は神の民として旅を続ける存在であることを、難民や移住者の存在によって思い起こさせられ、教会が歩みを止め、ある一点に留まるときに、神ではなく世に属する者となる、として、次のように語られます。

「移住者と難民は教会に、自らの巡礼者としての側面を思い起こさせてくれます。教会は、対神徳である希望に支えられながら、最終的な祖国に到達することを目指してたえず歩み続けるからです。教会は、『定住』の誘惑に屈し、『旅する国(civitas peregrina)』―天の祖国を目指して旅する神の民(アウグスティヌス『神の国』[De civitate Dei, Libro XIV-XVI]参照)―であることをやめるとき、『世にある者』であることをやめ、『世に属する者』となるのです」

 このようにお述べになった後で、教皇様は、信徒として移住する人たちや難民の方々の存在に焦点を当て、彼らが福音を告げる宣教者であるとして、次のように語られます。

「特にカトリック信者の移住者と難民は、彼らを受け入れる国において、現代の希望の宣教者となることができます。彼らは、イエス・キリストのメッセージがまだ届いていないところに、新たな信仰の歩みをもたらし、日常生活と共通の価値の探求による諸宗教対話を始めることができるからです」

 国連難民高等弁務官事務所によれば、現在四千万人を超える人が国境を越えて難民となり、さらには七千万人の人が自国内での避難民となっています。国連によれば、この数は10年前と比較しても倍増していると言います。

 現時点で国際カリタスは、それぞれの国のカリタスを通じて、カトリック教会として難民の方々の支援や救援を行っています。もちろん現時点ではウクライナやガザの状況は困難を極め、とりわけガザでは虐殺とも言うべき状況が続いています。神から賜物として与えられた命の尊厳が損なわれる状況を、教会は見過ごすことはできません。国際カリタスは聖座と共に、あらゆるチャンネルを通じて、停戦の実現と人道支援の強化を求め続けています。

 以下、27日午後6時配信、週刊大司教第226回、年間第26主日のメッセージです。

【年間第26主日C 2025年9月28日】

 10年前にエコロジカルな回心を問う回勅「ラーダート・シ」を発表された教皇フランシスコは、その中で、「現在の世界情勢は、不安定や危機感を与え、それが集団的利己主義の温床となります(205項)」と指摘されました。10年が経過しても、その状況は全く改善していません。

 教会は9月最後の主日を、世界難民移住移動者の日と定めています。この日にあたり教皇レオ14世は、「移住者―希望の宣教者」と題したメッセージを発表されています。

 その中で教皇は、「現代の世界情勢は、残念ながら、戦争と暴力と不正と異常気象によって特徴づけられています。そのため何百万もの人々が故郷を離れ別の土地に避難することを余儀なくされています」と現状を指摘し、世にはびこる利己主義的価値観を踏まえて、「限られた共同体の利潤のみを求める一般的な傾向は、責任の共有、多国間の協力、共通善の実現、人類家族全体のための国際的な連帯に対して深刻な脅威となっています」と指摘しています。

 ルカ福音が記す金持ちとラザロの話には、まさしく世界が自分を中心にして回っているかのように考え振る舞う金持ちの姿が描かれています。利己主義に捕らえられた心には、助けを求めている人は存在する場所すらありません。自分の利益しか眼中に無い生き方の姿勢を捨てることができないからです。死後の苦しみの中で神の裁きに直面した時でさえも、金持ちの心は自分のことしか考えず、それを象徴するように、この期に及んでも、ラザロを自分の目的のために利用しようとします。

 教皇フランシスコは、私たちが心の扉を開いて、出向いていく教会であることが、「集団的利己主義から脱却する道だ」と繰り返し指摘され、そのためにこそ、教会はシノドスの道を歩みながら、互いに支え合い、隣人の叫びに耳を傾け、祈り合いながら、神に向かって歩み続けることこそが不可欠だ、と強調されました。

 希望の巡礼者として聖年の歩みを続けている私たちに、教皇レオ14世は、先ほどのメッセージの中で次のような指摘をされ、移住者と難民こそがそのような社会のただ中で、希望の宣教者となるのだ、と指摘しています。

 「カトリック信者の移住者と難民は、彼らを受け入れる国において、現代の希望の宣教者となることができます。彼らは、イエス・キリストのメッセージがまだ届いていないところに新たな信仰の歩みをもたらし、日常生活と共通の価値の探求による諸宗教対話を始めることができるからです。実際、彼らは、その霊的な熱意と活力によって、硬直化し、不活発になった教会共同体を活性化することに貢献できます」。

 私たちはこの現代社会の中で、希望を掲げながら旅を続ける宣教者です。アジア司教協議会連盟(FABC)50周年の文書には、「宣教は、教皇フランシスコが『自己中心の姿勢』と呼ぶものに向かう私たちの傾向の対極にあるものです。自己中心的になるのは、『私たちが自分自身のために存在するのではなく、世界のために存在するのだ』ということを忘れてしまう時です」という指摘があります。

 私たちが「心の扉を開いて、出向いていく教会」であり続けることができるように、イエスの呼びかけに耳を傾けて歩み続けましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2025年9月27日

・「”シノドスの道”の歩みを深めることは、教会で交わりを持つ私たちの生き方そのものを見直すこと」菊地・東京大司教の年間第25主日

2025年9月20日 (土) 週刊大司教第225回:年間第25主日C

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 9月も半ばを過ぎ、暑さの続いた東京も少し秋の気配を感じるようになってきました。9月21日は、年間第25主日です。

 2004年9月20日、今から21年前に、新潟において司教叙階を受け、新潟教区司教となりました。その日は、岡田大司教様が主式の司教叙階式でした。この21年の間、2004年から2017年までは新潟で、またその間、2009年から2013年までは札幌を兼任し、そして2017年末からは岡田大司教様から引き継いで、東京教区の大司教を務めさせていただいております。この間、多くの方々のお祈りと励ましをいただき、務めをなんとか果たすことができてきました。

 教区司教としての務め、またカリタスやアジア司教協議会などの務め、日本の司教協議会での務めなどなど、様々な務めを果たしていく中で、多くの方の助けと協力をいただいてきたことに感謝いたします。皆さん、本当にありがとうございます。

 まだこれから数年はこの務めを続けていくことになるだろうと想定しています。もっとも、すべては神様の計画ですからどうなるのかは分かりませんけれど、これからも与えられた場で求められる務めをふさわしく果たしていくことができるように、皆さまの助けと協力とお祈りをお願い申し上げます。これからも、どうぞよろしくお願い致します。

 これまでも繰り返し説教などの機会に触れてきましたが、聖地の状況はますます混迷を深めています。歴史的な背景から生み出される課題の政治的な解決は一朝一夕では得られないのは、聖地をはじめとする中東地域の複雑な現実ですが、教会の立場からは政治的意図の違いを超えて、まず第一に神から与えられた賜物である命を、すべからく守ることを基本として、声を上げ続けます。命は、例外なくすべて、その始まりから終わりまで護られ、神から与えられた人間の尊厳が尊重されなくてはなりません。

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 私が現在責任者と務める国際カリタスは、世界で活動する他の44の国際NGOなどと共に、9月12日に短い声明を発表しました。原文はこちらの国際カリタスのサイトで英語でご覧ください。以下、仮の機械翻訳を掲載します。

 イスラエル軍によるガザ市への攻撃が激化し、全市民に対する強制移動命令が出されている中、家族は避けがたいジレンマに直面しています。逃げれば道中や人であふれかえっている避難所での死の危険があり、留まれば隠れているシェルターへの容赦ない爆撃に直面します。どちらにしても、飢餓と包囲が待ち受けています。

  「私たちの唯一の要求は命です。私たちはあなたと同じ人間です。私たちは尊厳と安全の中で生きたいのです。飢えや爆弾で死にたくはありません」(アイマン=仮名、ガザ市で家族と避難している父親)

 100万人近くのパレスチナ人が、飢え、悲しみ、そして何度も移動を強いられながらガザ市に残っています。イスラエルの作戦が続けば、病院は孤立し攻撃され、避難所や学校は爆撃され、逃げることができないほど弱い、年老いた、または病気の人々には、死しか残されていません。

  「私たちは一つの場所から別の場所へ逃げることに疲れました」(アビール=仮名)、人道支援活動家)

 同時に、イスラエルは人道的な活動を故意に妨害しています。援助トラックは引き続き拒否され、国際NGOは不透明な登録制度によって宙ぶらりんの状態に置かれ、飢饉が深刻化しています。

 国際司法裁判所は、ガザのパレスチナ人がジェノサイドから保護される権利を持っていることを認めています。各強制移動の行為や飢餓の高まりは、その危険性をより確実なものにしています。そして、世界はこれが起こるのを見て見ぬふりをすることはできません。

 私たちの物資を通過させてください。私たちに働かせてください。この攻撃を止めてください。

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 以下、20日午後6時配信の、週刊大司教第225回、年間第25主日のメッセージで原稿です。なお文中に登場するFABCは、アジアの各国地域にある司教協議会の連名組織で、事務局を現在はバンコクに置いています(以前は香港にありました)。現在の会長はインドのゴアのフィリッポ・ネリ・フェラオ枢機卿、副会長がフィリピンのパブロ・ダビド枢機卿、事務局長をわたしが務めています。英語ですがホームページがありますので、ご参照ください

【年間第25主日C(ビデオ配信メッセージ) 2025年9月21日】

ルカ福音は、「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である」というイエスの言葉を記します。

 私たちはどうしても、すべてに対して全身全霊を傾けるよりは、そこから自分の得られる利益を勘案して物事の価値を計り、ある意味選択をしながら行動してしまいがちです。どのような選択をするのかに、私たちひとり一人の価値観が反映されます。その時々の事情に応じて、いわば、「神と富」のどちらか必要な方を選択することを繰り返しています。それに対してイエスは、「どちらかをはっきりと選択し、選択したのであれば小さなことにも大きなことにも、全身全霊をかけて忠実であれ」と命じています。

 私たちが選択する道は、神の愛といつくしみから、誰一人忘れ去られることなく、また誰一人排除されることのない世界を実現する道です。神の愛はすべての人に向けられているにもかかわらず、その愛の実現を妨害しようとするのは、私たちの不忠実さであります。わたしたちは神の愛といつくしみの実現の前に立ちはだかる様々な障壁を取り除くという大きな目的を達成するために、目の前の小さな事への取り組みを忠実に果たしていかなくてはなりません。

 アジア司教協議会連盟(FABC)は、2022年10月に開催された創立50周年の総会で最終文書「アジアの諸民族としてともに旅する」を採択しました。その冒頭で、これからの歩みの中心にあるのはシノドス的な教会の道であることを明確に記し、「シノドス的な教会には、交わり、参加、宣教という、不可欠な3要素が」あることを指摘します。

 その上で、「交わり」の重要性について、「排他性の傾きに対するアンチテーゼです。洗礼を受けた人は皆、尊厳において平等です。・・・教会には、一流の人も二流の人もありません。霊はさらに、私たちが同じカトリック信者とだけでなく、すべてのキリスト者、人類すべて、造られたものすべてとの交わりを結ぶよう、力を与えてくれます。・・・霊との交わりのうちにおいてのみ、私たちは弟子の共同体へと成長し、パン生地の塊の中のパン種のように働く、キリスト教基礎共同体、人間基礎共同体の建設者となることができるのです」と指摘しています。

 さらにFABCは2025年3月15日に司牧書簡を発表し、「交わり」を具体的に生きるために、特にエコロジーの側面に取り組むことの重要性を指摘しました。その上で同書簡は、9月1日から10月4日まで、ちょうどいま祝われている「被造物の季節」にあって、エコロジカルな回心を交わりのうちに具体化するよう、次のような取り組みを呼びかけています。

 第一に、「エコロジカルな責任について、私たちの共同体の学びを導く」こと。次に、「より簡素で、より持続可能なライフスタイルを奨励する」こと。そして、「神・人類・宇宙との私たちのかかわりを深める、創造の霊性を培う」ことであります。

 ”シノドスの道”の歩みはエコロジカルな回心の道と密接に関わり、それは別々の事柄ではありません。”シノドスの道”の歩みを深めることは、教会で交わりを持つ私たちの生き方そのものを見直すことにも繋がります。そのためにも、この数年の間に発表されてきたシノドス関係の文書などをしっかりと学ぶ時を持ち続けたいと思います。”シノドスの道”は過去のことではなく、今、私たちが歩む道であり、そのためにも小さなことにも忠実であるものでありたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2025年9月20日

・「生きる姿そのものでイエスの愛と慈しみを証しし、十字架と共に歩む者でありたい」—菊地・東京大司教、「十字架称賛の祝日」に

2025年9月13日 (土)週刊大司教第224回:十字架称賛の主日

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 9月14日は十字架称賛の祝日にあたり、今年はちょうど日曜日ですから、明日9月14日は十字架称賛の主日となります。

 また日本の教会では本日を「祖父母と高齢者のための世界祈願日」としています。本来は7月最後の主日と定められていますが、日本では9月半ばの月曜日に敬老の日があるため、その前日の主日をこの世界祈願日とすることを申請し、聖座(バチカン)の許可をいただいています。

 今年の祖父母と高齢者の世界祈願日のテーマは、旧約のシラ書からとられた、「希望を失うことのない人は、幸いだ」とされています。教皇様のメッセージが発表されていますので、こちらのリンクからご覧ください

 十字架称賛の翌日9月15日は、その十字架の元にたたずまれた聖母マリアに思いを馳せる悲しみの聖母の祝日です。 聖母マリアの人生は、主イエスとともに歩む人生です。主イエスと苦しみをともにする人生です。神の救いが実現するために、救い主とともに歩む人生です。奇跡を行い困難を乗り越えるようにとイエスを促す、取り次ぎの人生です。

 十字架の苦しみの時、主イエス御自身から託された、教会の母として歩む人生です。弟子たちの共同体が教会共同体としての歩みを始めた聖霊降臨の日に、ともに聖霊を受け、ともに福音を告げた、教会の福音宣教の母としての人生です。

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 その人生は、不確実な要素で満ちあふれていました。天使のお告げを受けたときから、一体この先に何が起こるのか、確実なことはわかりません。わかっているのは、確実に苦しみの道を歩むことになるということだけであり、聖母マリアはそれを、神のみ旨の実現のためにと受け入れ、神に身を委ねて人生を歩み続けました。

 聖母マリアは神への信頼のうちに、神の計画を受け入れ、身を委ねました。その力の源は、ともに歩まれる様々な人たちとの連帯の絆です。ともに歩む人たちのその先頭には、主イエス御自身がおられました。聖母マリアはシノドスの道をともに歩む神の民の模範でもあります。

 9月15日午後に某所で、グレゴリオ聖歌によるラテン語のミサで悲しみの聖母の日を祝いますが、それについては後日また報告します。

 以下、13日午後6時配信、週刊大司教第224回、十字架称賛の主日のメッセージです。

十字架称賛 2025年9月14日

 日本の教会では、本日は祖父母と高齢者のための世界祈願日です。ローマでは7月最後の主日に行われますが、日本の教会は敬老の日の近くに移動することで聖座からの許可を得ています。

 今年のこの祈願日のメッセージで教皇レオ14世は、シラ書から「希望を失うことのない人は、幸いだ」という言葉を引用してメッセージを発表されています。

 メッセージの中で教皇は、アブラハム、サラ、ザカリア、エリサベトやモーセについて取り上げ、神からの働きかけがこの人たちが高齢の時にあったことを記して、「これらの選択によって、神は次のことをわたしたちに教えます。神の目にとって、老年は祝福と恵みの時であり、神にとって〈高齢者は希望の最初の証人です〉」と宣言されます。

 その上で教皇は、「わたしたちの祖父母は、わたしたちにとって、どれほどしばしば、信仰と献身、市民的美徳と社会貢献の模範となってきたことでしょうか。希望と愛をもって彼らがわたしたちに託してくれたこのすばらしい遺産は、わたしたちにとって、どれほど感謝し、守っても不十分なものです」と、人生の先達への感謝を忘れないようにと呼びかけ、社会が「高齢者への敬意と愛情を回復する」必要性を説いておられます。

 また教皇は「わたしたちは、どんな困難も奪うことのできない自由をもっています。すなわち、愛し、祈る自由です。すべての人は、つねに、愛し、祈ることができます」と述べて、高齢になって自由を失っても、愛し、祈ることで、希望をもたらすことができると強調されています。

 9月14日は十字架称賛の祝日です。いまでこそ、ファッションで十字架を身につける一般の方もおられるようになっていますが、もちろん十字架の起源は、処刑の道具であります。決して「かっこいい」ものではありません。しかしその十字架に、特別な意味を与えたのは、主イエスであります。主イエスこそが、「恐るべき処刑の道具」を「輝かしい栄光のあかし」に変えてくださいました。だからわたしたちは、誇りを持って十字架を示します。感謝を持って十字架を仰ぎ見ます。信頼を持って十字架により頼みます。勇気を持って自らの十字架を背負います。

 十字架は、神の愛のわざの目に見えるあかしです。自らいのちを与えられて人間を愛するがあまり、神はその滅びを許されなかった。滅びへの道を歩む人類の罪をあがなうため、自らを十字架の上でいけにえとしてささげられた。これ以上の愛のわざはあり得ません。わたしたちにとって十字架は、悲しい死刑の象徴ではなく、敗北の印ではなく、弱さの象徴でもありません。わたしたちのとって十字架は、希望の印であり、勝利の印であり、強さの象徴であります。そしてなによりも、神の愛のわざの目に見えるあかしのわざであります。

 十字架は、キリスト者の生きる姿の象徴であります。他者の喜びのために、自らのいのちを投げ出す。いのちを賭してまでも、他者のために尽くそうとする生き方。キリストご自身の生き方そのものです。わたしたちキリスト者は、優しい人間だから、善人だから、困っている人を助けたり、愛のわざを行うのではありません。そんな、個人の性格に頼った、生やさしい信仰ではありません。

 私たちも、私たちの生きる姿そのものによって、イエスの教えを、福音を、その愛と慈しみを証ししていく、十字架と共に歩む者でありたいと思います。

2025年9月13日

・「歩むべき十字架の道を、聖霊の導きのうちに識別したい」-菊地・東京大司教の年間第23主日メッセージ

2025年9月 6日 (土)週刊大司教第223回:年間第23主日C

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 あっという間に9月になりました。7日は年間第23主日。日本の教会ではこの日、9月の最初の主日が「被造物を大切にする世界祈願日」です。教皇様のメッセージはこちらのリンクです。

 先週の週刊大司教第222回の記事でも触れましたが、9月1日に始まって、アシジの聖フランシスコの祝日である10月4日まで、日本の教会は「すべてのいのちを守る月間」と定めています。

 これは2019年に、「すべてのいのちを守るため」をテーマと掲げて教皇フランシスコが日本を訪問されたことを記念し記憶するために日本の教会が定めました。また世界の教会は、エキュメニカルなコンテキストの中で、この同じ期間を「被造物の季節」と定めています。今年は特に、2015年に教皇フランシスコが「ラウダート・シ」を発表されてから10年ですので、節目を祝うイベントが多く予定されています。

 司教協議会は、先般、「ラウダート・シ」をテーマとして様々な啓発活動を行う担当を、「デスク」から「部門」へ変更しました。これはこれまで別の委員会に分かれて活動していた諸課題を、「福音宣教司教委員会」と「社会司教委員会」に大きく分け、その中でテーマに分かれて委員会や部門を設置して行くことになった組織変更に伴っています。

 この二つの司教委員会の他の大きな分類は、「常任司教委員会」と「広報宣教司教委員会」で、さらに「カリタスジャパン」が事業体として委員会組織から離れました。現在の司教協議会の委員会の構成は、こちらのリンク先をご覧ください。なおこれらの委員会組織は司教協議会の枠組みの中にあり、司教を中心として動きます。その具体的な事業活動の事務局がカトリック中央協議会で、こちらは事務局長をトップに、具体的な作業を行う組織です。なお中央協議会で働く司祭は、全国の三つの教会管区からそれぞれひとりずつ派遣されている司祭の合計3名だけです。

 「ラウダート・シ」をテーマとする部門もデスクから福音宣教司教委員会内の部門になったことで、さらに宣教司牧的側面から啓発活動を強めていくことが期待されていますし、その意味で、現在行われている「すべてのいのちを守る月間」の方向性を明確にしてくださるものと期待しています。

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 なお9月4日に、日本のシノドス特別チームは玉造の大阪教区本部を会場に、全国の司教様方と、各教区のシノドス担当者、合計47名を集め、今回のシノダリティ(共働性)をテーマとした世界代表司教会議(シノドス)通常総会に初めから深く関わられ、教皇フランシスコと緊密にやり取りをされておられたオロリッシュ枢機卿様を講師に迎え、一日の研修を行いました。

 他の国でもバチカンのシノドス事務局のグレック枢機卿様やシスターナタリーを迎えて研修会をしていますが、どうしても言葉の壁があるため、今回、オロリッシュ枢機卿様に日本語でお話しいただけたのは良かったと思います。

 今後は、それぞれの教区で、シノドス最終文書の学びを深め、多くの人に霊における会話を体験していただき、その上で、ともに歩みなが聖霊の導きを識別する共同体に育っていきたいと思います。これからもシノドス特別チームでは必要に応じて講師を派遣しますし、様々な資料の提供を続けていきます。今後の各教区での取り組みに期待しています。

以下、6日午後6時配信、週刊大司教第223回、年間第23主日のメッセージです。

【年間第23主日C(ビデオ配信メッセージ)2025年9月7日】

 9月最初の主日は、「被造物を大切にする世界祈願日」であります。世界のキリスト教諸教派は共に、9月1日からアシジの聖フランシスコの祝日である10月4日までを「被造物の季節」と定め、この地球、すなわち私たちが共に暮らす家のために祈り、またそれを守る行動をとるように呼びかけています。

 カトリック教会もこのエキュメニカルな活動に参加しており、日本の教会はこの期間を「すべての命を守るための月間」として様々な取り組みが行われています。また今年は、教皇フランシスコの回勅「ラウダート・シ」が発表されてから10年となる節目の年でもあり、環境保全活動にとどまらずそれを土台とした信仰的な回心の必要性を、教会はさらに強調しています。

 教皇レオ14世もこの世界祈願日にあたってのメッセージを発表されており、今年のテーマを、教皇フランシスコがすでに選ばれていた「平和と希望の種」とされています。

 メッセージの中で教皇は、「イエスは、説いて教える際、しばしば「種のたとえ」を用いて神のみ国について語られました」の述べ、「時間がかかる試みかもしれないが、私たちは神がのぞまれた世界のあり方を、すなわち「平和と希望」を実現するために、大地にまかれた種のように、忍耐を持って、具体的な取り組みと呼びかけを続けるように」と励まされています。

 その上で教皇は、「『自然破壊による打撃は、すべての人に同じように作用しているわけではない』という認識は、いまだに十分には共有されていないようです。正義と平和を踏みにじることは、いちばん貧しい人、最も隅に追いやられた人、排除された人が、最も皺寄せを被るのです。この点で、先住民族のコミュニティの苦しみは象徴的です」と指摘され、その存在すら忘れ去られた人たちに心を向けるようにと呼びかけます。

 ルカ福音は、弟子となる条件として、「自分の十字架を背負ってついてくる者」であれ、と述べたイエスの言葉を記します。同時に、「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎む」ことを不可欠であると述べ、この世の常識を遙かに超える行為を、愛に基づいて選択することが不可欠であることを名確認します。

 パウロは第一コリントの1章17節で十字架の意味を、神ご自身によるすべてを賭した愛のあかしの目に見える行いそのものであると記します。この世の知恵に頼って愛をあかしするのではなく、すべてをうち捨て全身全霊を賭して神の愛をあかししたイエス。それこそが十字架の持つ意味であることをパウロは強調します。

 ですから、イエスの十字架は、単に「苦労をせよ」と命じているのではありません。「人間の知恵が作り上げた常識の枠にとらわれず、自らの全身全霊を賭して、神の愛を証しするための行動をせよ」と求めておられるのです。

 神の愛を証しするために、私たちが今、捨てなくてはならない常識の枠は何でしょうか。そして今、歩むべき十字架の道は、どの道でしょうか。聖霊の導きのうちに識別したいと思います。

2025年9月6日

・「常に愛に満たされる社会を生み出していく努力を」菊地・東京大司教の年間第22主日メッセージ

2025年8月30日 (土)週刊大司教第222回:年間第22主日C

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 今年は八月の最後の日が日曜日となりました。年間第22主日です。

 9月1日にの月曜日に始まって、アシジの聖フランシスコの祝日である10月4日まで、日本の教会は「すべての命を守る月間」と定めています。これは2019年に、「すべての命を守るため」をテーマと掲げて教皇フランシスコが日本を訪問されたことを記念し、記憶するために、日本の教会が定めました。

 また世界の教会は、エキュメニカルなコンテキストの中で、この同じ期間を「被造物の季節」と定めています。今年は特に、2015年に教皇フランシスコが環境回勅「ラウダート・シ」を発表されてから10年ですので、節目を祝うイベントが多く予定されています。

 日本の司教協議会では、「ラウダート・シ部門」を設けており、担当者である成井司教様から、メッセージが出ています。こちらのリンク先をご覧ください。また教皇レオ14世の被造物を大切にする世界祈願日にあたってのメッセージ、「平和と希望の種」は、こちらのリンクです

 またラウダート・シ部門では、10月4日にシンポジウムを福岡で開くことになっており、こちらのリンクに詳細がありますが、オンラインでも参加いただけることになっています。

 先日米国はミネソタ州ミネアポリスのカトリック教会で、学校の子どもたちが集まりミサを下げている場で銃による襲撃が起こり、二人の子どもが殺害されるという事件がありました。銃撃犯もその場で自死したと伝えられています。犯行の背景や具体的な動機など詳細には分からないことも多いので、予断を持って語ることは避けたいとは思います。しかし、命に対するこのような暴力的攻撃は赦されてはなりません。

 亡くなられた子どもたちの永遠の安息と、怪我をされた子どもたちの身体と心の癒やしを祈るとともに、改めて、神からの賜物である命に対する暴力は、どのような理由であれ、許されないことを心に留めたいと思います。

 とりわけ、「すべての命を守る月間」に入ろうとしている今、それは単に環境保全活動を推奨しているのではなく、回心を求めていることを心に留め、神が愛を込めて創造されたすべての被造物の中でも特にご自分の似姿として創造され与えられた私たちの命を、徹底的に守り抜く決意を固めたいと思います。

 9月3日には聖座とイタリアのルッカ大司教区の主催する大阪万博でのシンポジウムがあり、日本の司教団も招待されています。その機会を捉えて、シノドス特別チームでは、翌日に大阪で、司教団と教区のシノドス担当者を集め、”シノドスの道”のこれからの歩みについて学ぶ研修会を開きます。

 先の世界代表司教会議第16回通常総会(シノドス)の総書記であったオロリッシュ枢機卿様もこのシンポジウムのために来日されることから、今回の研修会ではオロリッシュ枢機卿様に日本語で講演をしていただきます。シノドスの中心におられた方で、日本語で話ができるのはオロリッシュ枢機卿様だけですから、この機会を逃さず、いろいろと学び実践し、それを各教区での”シノドスの道”のこれからの歩みにつなげていきたいと思います。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第222回、年間第22主日のメッセージです。

【年間第22主日C(ビデオ配信メッセージ)2022年8月31日】

 ルカ福音は、イエスがファリサイ派のある議員の家で食事に招かれたときの話を記しています。集まってきた人たちが、多分は、「われ先に」と名誉ある良い席に着こうとする姿を見て、イエスが「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない」と語ったことを福音は記します。

 人間関係においては謙遜さが重要だとするこの話は、それだけで終わっていたら、単にマナーを教える話にとどまってしまいます。しかしこのあとにルカ福音は、「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」と記し、ここでいう謙遜さはマナーではなく、人としての生き方の選択の話であることを明確にします。

 すなわち、「神の国に招かれる」というのは、「何かを成し遂げたことに対するご褒美」なのではなく、「どのような生き方を選択したかに基づく、神からの恵み」であります。謙遜に生きることを選択した時、初めて神からの恵みとして、「さあ、もっと上席に進んでください」という招きがあるのです。何を成し遂げたかではなく、どう生きることを選択したのか。それが神の目には重要です。
 その選択にあっては、賜物として与えられたすべての命を神が愛おしく思われているからこそ、「誰一人として忘れ去られることはない」という道を最優先にしなければならないことが、その続きの話によって示唆されます。

 天の国で豊かに報いを受けるためには、この社会の現実の中で、余すことなく自分自身を与え、互いのきずな、交わり、兄弟愛を深め、報いを期待せずに困難にある隣人に目を向けることが不可欠である、と指摘されます。

 高慢さの中にあって、困難に直面する隣人への視点を失ったところには命がないと、イエスは指摘されています。

 現代社会の現実は、排除と排斥に軸足を置き、持てる者と持たない者との格差が広がり続け、持たない者はその存在さえ忘れ去られたと、教皇フランシスコは、たびたび指摘してこられました。

 教皇レオ14世は、先日の聖年の行事の一つ、青年の祝祭での晩の祈りで、青年たちにこう語りかけました。

 「選択は、人間の根本的な行為です。・・・私たちが選択を行うとき、私たちはどのような者になりたいかを決断します。実際、優れた意味での選択とは、自分の人生に対する決断です。私はどのような人間になりたいのか。親愛なる若者の皆様。私たちは人生の試練を通して、そして、何よりもまず自分が選ばれたことを思い起こすことによって、選択することを学びます… 私たちは命を、自分で選ぶことなく、無償で与えられました。私たちの存在の起源にあるのは、自分の決断ではなく、私たちを望んだ愛です。私たちが行うように招かれた選択において、この恵みを認め、新たにすることを、私たちの存在を通して助けてくれる人こそが、真の友です」

 私たちの謙遜さは、社会の人間関係にあってのマナーではなく、「神からまず愛されたのだ」という事実を認めることによる、神の前での謙遜さです。そのとき、同じく愛されたものとして、特に困難に直面する隣人への目が開かれます。危機に直面する命に対して、目が開かれます。私たちは同じ命を与えられました。そのいのちが、神が求めた人生を豊かに充実して歩み、常に愛に満たされる社会を生み出していく努力を続けたいと思います。

 

(編集「カトリック・あい」=「命」は、「天を仰ぎ、ありがたくいただくもの」と言う意味の象形文字で、立派な日本語です。新聞など一般社会でも「命」が広く使われていますが、”教会用語”の、ひらがなの「いのち」では、この意味は伝わりません。「カトリック・あい」では、この表記に統一させていただいています。)

2025年8月31日

・「24日の主日に、教皇に倣い、世界の平和のために共に祈りを捧げよう」菊地・東京大司教メッセージ

2025年8月23日 (土)週刊大司教第221回:年間第21主日C

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 8月も後半に入り、年間第21主日となりました。暑い毎日が続いています。体調はいかがですか。東京では、朝晩やっと涼しさを感じるようになりましたが、それでも日中は熱帯のようです。

 私は昔、若い頃に、アフリカのガーナで働いていましたが、日本の気候も熱帯のようになったと感じます。

 ガーナは赤道の少し北ですから、今の時期は夏、つまり雨期であります。雨期といっても朝から晩まで雨が降っているのではなく、いわゆるスコールというのか、一日の後半に、やにわに雲が湧き出してバケツをひっくり返したような雨が一時間くらい降り注いで、あとは晴れているような毎日でした。その雨が降っている間に、台風のような風が吹き荒れて、この時期には屋根を飛ばされる家も相次ぎました。何か、日本の夏も、そのような気候に変化しているように感じます。しかし、気温的には、ガーナの雨期の方が、遙かに涼しく感じます。

 教皇様は世界の平和を祈るために、先日、天の元后聖母マリアの祝日である8月22日(金)に、平和のために断食と祈りを捧げるように呼びかけられました。「聖地、ウクライナ、また世界の他の多くの地域で、戦争によって傷つけられ続けて」いる現実を取り上げ、祈りを求められました。わたしたち日本の教会は、ちょうど平和旬間を終わったところですが、この日曜日、24日の主日には、是非とも世界の平和のために共に祈りを捧げてくださるようにお願いします。

 以下、23日午後6時配信、週刊大司教第221回、年間第21主日のメッセージです。

【年間第21主日C(ビデオ配信メッセージ)2025年8月24日】

 救いはどのようにして得られるのか。この問いかけは、時代や文化、また宗教の違いを超えて、人類に共通の課題の一つであります。

 命の創造主であり、私たちに賜物としてこの命を与えてくださった神は、すべての人が救われることを望まれているのは確実です。ご自分が賜物として与えられたすべてのいのちを愛おしく思われる神は、その救いがすべての人に及ぶことを望まれています。

 「キリストの苦しみと死は、いかにキリストの人性が、すべての人の救いを望まれる神の愛の自由で完全な道具であるかを示して」いると、「カトリック教会のカテキズム」の要約に記されています(119)。

 ですからキリストが語り行ったこと、すなわちイエス・キリストの福音が一人でも多くの人に伝わることは、神の望まれる救いの計画の実現のために不可欠であります。その意味でも、私たちの第一の使命は、福音をありとあらゆる手段を通じて、一人でも多くの人に告げ知らせることであります。救いは私だけのものではありません。

 その救いの計画の中で私たちが何もしないで、ただひたすらに「自分の救い」だけを待ち望んで、自分勝手に生きていたのであれば、果たしてそこに救いはあるのだろうかと、今日のルカ福音は問いかけています。

 イエスは、「救われる者は少ないのでしょうか」という問いに、直接には答えていません。なぜなら、「救われるはずの者は、すべての人」だからです。しかしせっかくのその「すべて」を、「少ない人」としてしまうのは、人間の怠惰と努力のなさであることをイエスは指摘します。「狭い戸口から入るように努めなさい」というイエスの言葉は、ともすれば苦難の道を避けて安楽な道を選んだり、準備を怠り無為無策に過ごしている私たちこそが、「神からの救いへの招きに応えようとしていないのだ」という事実を指摘しています。

 現代社会の象徴でもあるインターネット上での”インフルエンサー”と呼ばれる人たちをローマに招いて、7月末に行われた聖年の行事で、教皇レオ14世は、デジタルコミュニケーションを通じて福音宣教することの重要性を説きながら、こう言われました。

 「教会は、歴史を通じて文化的な挑戦を受けても、決して受け身な姿勢にとどまることはありませんでした。教会は、善と悪を識別することによって、すなわち、変化し、変容し、清めることを必要とするものから善を識別することによって、すべての時代をキリストの光と希望によって照らそうと常に努めてきました」。

 そのうえで、教皇レオ14世は、「単にコンテンツを生成することではなく、心の出会いを生み出すことです。そのために、苦しむ人、主を知ることを必要とする人を探し求めなければなりません。彼らが傷を癒し、自分の足で立ち上がり、人生に意味を見い出せるようになるためです。何よりもまず、このプロセスは、自分の貧しさを受け入れ、あらゆる偽りを捨て、自分自身が福音を本質的に必要としていることを認識することから始めなければなりません」と指摘されました。自分の利益や名誉のためではなく、他者の必要に目を向け、常に救いの福音をもたらすために行動することの重要性を強調されました。

 私たちも、狭い門を避けるものではなく、困難への挑戦から目を背けず、隣人の必要に常に心の目を見開き、積極的に行動する者でありましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2025年8月24日

・「現実から目を逸らさず、イエスに倣って、学び、働き、愛する者に」菊地東京大司教の年間第20主日メッセージ

2025年8月16日 (土) 週刊大司教第220回:年間第20主日C

 8月も半ばを過ぎました。8月17日は年間第20主日です。(写真は、先日8月9日に行われた、東京教区としての平和旬間行事から)

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 今年の東京教区平和旬間2025は、「平和を実現する人は幸い 戦後80年不戦の誓いをあらたに」をテーマに、8月9日の午後に教区としての行事を行いました。それ以外にも、小教区や宣教協力体で独自の行事を行っている共同体もあります。

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 教区行事はまず、午後1時からの講演会で、講師は、信徒の浜矩子さん(同志社大学名誉教授、エコノミスト)。演題は「戦後80年 キリスト者としての平和への新たな決意」。

 その後、私が司式し、多くの信徒、修道者、司祭の参加を得て平和祈願ミサ。その後、関口から目白駅まで平和行進が行われました。ご参加くださった皆さん、配信ミサに与りともに平和のために祈ってくださった皆さん、ありがとうございました。

 以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第220回、年間第20主日のメッセージ原稿です。

【年間第20主日C(ビデオ配信メッセージ)2025年8月17日】

 争い事のない世界があれば、それは確かに良いことではあります。しかし争い事のない状況、つまり私たちが「平和だ」という状況が、本当の意味での「平和」の実現であるのかどうかは、定かではありません。

 なぜなら、「真の平和の確立」とは、神の秩序の実現を意味しているからです。例えば武力の脅威の均衡によって成り立っている平和は、単なる平穏な状況であって、神の平和の確立からはほど遠いことであると、教会は繰り返し指摘してきました。

 神の目において人間が不完全である限り、時としてその「平和」は、誰かの人間の尊厳が不当に虐げられ、忘れ去られることで成り立っている平穏さかもしれません。神の秩序を確立する行動は、居心地の悪さを生み出します。長年の人間関係の中で確立してきた既得権益を奪い取ろうとすることもあるためです。

 神からの賜物であるすべての命がその尊厳を守られる世界を実現するためには、現実から目を背けることなく、世界を支配する価値観に挑戦することが不可欠です。

 ルカ福音は、「私が来たのは、地上に火を投ずるためである」というイエスの言葉を記しています。「平和をもたらすために来た、と思うのか。そうではない… 分裂だ」ともイエスは言われます。

 イエスのこの言葉が、愛と赦しを語るイエスの姿とは、かけ離れているように見えます。しかし、そこにこそ、福音の真髄が示されているのです。福音においてイエスが語っておられる「愛と赦し」は、単なる人の優しさの話ではありません。

 神の平和を確立するための、命を懸けたコミットメントであり、既存の世界の価値観を根底から覆す、まさしく地上にもたらされる火こそが、神の平和の確立のためには不可欠であることを明確にしています。あの聖霊降臨の出来事は、騒々しく落ち着かない出来事でありました。聖霊の燃えさかる炎が広がっていくのであれば、それはこの世を支配する既成の価値観と対立するからにほかなりません。

 教皇レオ14世は、7月末に行われた聖年の行事の一環である青年の祝祭において、世界中から集まった100万人を超える青年たちに、「信仰に生きようとするなら、具体的な行動をするように」と促されました。

 トール・ヴェルガータでの青年の祝祭ミサ説教で教皇は「私たちは、すべてのものが予定され、固定された人生としてではなく、絶えず賜物と愛において新たに生まれる存在として造られています」と指摘され、「私たちは、この世のいかなるものも満たすことのできないものへの深い、燃えるような渇きを覚えています」と指摘されます。

 そのうえで教皇は、「このような渇きを前に、効果のない代替物でこの渇きを鎮めようとして、自分の心をごまかしてはなりません。むしろ、この渇きに耳を傾けてください。つま先立ちする幼子のように、この渇きを、神と出会う窓に顔を出すためにの足台としてください」と若者たちに求められました。

 さらに、その前晩の夕べの祈りで、「生き方を反省し、より人間らしい世界を築くために正義を追求してください。貧しい人に奉仕し、そこから、常に隣人にしてほしい、と望む善を証ししてください。聖体のうちにイエス・キリストと一致してください。永遠の命の源である至聖なる秘跡のうちにキリストを礼拝してください。イエスの模範に従って学び、働き、愛してください」と呼びかけられました。

 私たちも現実から目をそらすことなく、イエスの模範に倣って、「学び、働き、愛」するものでありたい、と思います。平穏な世界に満足せず、福音の実現のために、そして神の平和の確立のために行動し続けるものでありたい、と思います。

(編集「カトリック・あい」)

2025年8月16日

・「私たちには、命の尊厳を守り抜く責務がある」-平和祈願ミサで菊地・東京大司教

2025年8月 9日 (土)2025年平和旬間:広島、そして東京教区平和祈願ミサ

2025hiroshima01 日本の教会は毎年、8月6日から15日までを平和旬間と定めています。今年は特に戦後80年の節目の年であり、それは同時に、広島と長崎での原爆投下の80年でもあります。

 今年の平和旬間を前に、先日、6月23日の沖縄慰霊の日の直前に開催された司教総会で、日本のカトリック司教団はまず、80年の平和メッセージを採択しました。そのタイトルを「平和を紡ぐ旅、平和を携えて」といたしました。全文はこちらのリンク先の中央協議会ホームページにあります。是非ご一読ください。

 さらに司教団は、核兵器廃絶宣言も採択いたしました。全文はこちらのリンク先です

2025hiroshima04 今年の平和旬間には、米国の司教団からお二人の枢機卿様とお二人の大司教様、そして大勢の巡礼団がおいでになり、広島と長崎での平和行事に参加されています。

 シカゴのスーピッチ枢機卿、首都ワシントンのマッケロイ枢機卿、サンタフェのウェスター大司教、シアトルのエティエンヌ大司教の四名が来日され、8月5日の昼から、エリザベト音楽大学のホールを会場に、被団協のノーベル平和賞受賞の祝賀式、引き続いて、核兵器廃絶を呼びかける日本、米国、韓国の司教有志が集まって、シンポジウムを開催し、終わりに平和宣言を発表しました。今年の広島教区の平和行事のテーマは、「原爆投下80年 平和への希望を新たに ~核廃絶をわたしたちはあきらめない~」です。

 この後に、世界平和記念聖堂(広島教区カテドラル)に移動し、平和祈願ミサを捧げました。わたしはこのミサの司式と説教を担当させていただきました。また教皇レオ14世から送られた平和メッセージが、教皇大使によって朗読されました。メッセージ全文はこちらです

2025hiroshima06 翌朝、広島に原爆が投下されて80年目の朝、8時から世界平和記念聖堂に多くの方々、修道者、司祭と共に、あらためて日米韓の司教有志が集まり、投下時間に黙祷を捧げた後、白浜司教の司式でミサが行われました。なおこのミサの説教は、シカゴのスーピッチ枢機卿です。

 どちらのミサも映像を、カトリック広島教区「平和の使徒推進本部」のYoutubeチャネルでご覧いただけます。

 今回お祝いを申し上げ、また協働していくことを誓った被団協のノーベル平和賞受賞ですが、司教団の80周年平和メッセージでは、次のように指摘いたしました。

 「日本被団協のノーベル平和賞受賞は、世界が核兵器使用の脅威の中で「核抑止」から抜け出し、核兵器廃絶に向かうための大きな一歩です。・・・今回の受賞が、核兵器のない世界に向けた希望の灯となるように祈るとともに、世界と日本政府がこの「時のしるし」を深く心に留め、一刻も早く核兵器禁止条約の署名・批准に向けて行動することを強く求めます」

 教皇フランシスコが指摘されたように、核兵器を使用することだけでなく保持することにさえ倫理的な問題があることを同じように指摘し、平和のためにという口実でいのちに対する暴力を行使することを認めず、神からの賜物であるいのちの尊厳が、その始めから終わりまで護られ尊重される世界の確立を目指したいと思います。

 東京教区の平和旬間行事は、基本的にはそれぞれの小教区や宣教協力体で行われますが、教区全体の行事としては、本日8月9日午後1時から、同志社大学名誉教授でエコノミストの浜矩子さんを迎え、『戦後80年キリスト者としての平和への新たな決意』と言うテーマで講演をいただきました。浜矩子さんは東京教区の信徒です。その後、質疑応答を経て、午後3時半から、大勢の方が参加する中で、私が司式して平和祈願ミサを捧げました。ミサ終了後、有志の方々が、カテドラルから目白駅まで、平和ウォークをされました。参加された多くの皆さん、ありがとうございます。

 以下、本日8月9日、長崎の原爆忌の日に東京教区で行われた、その平和祈願ミサの、説教原稿を掲載します。

【平和祈願ミサ 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2025年8月9日】

 心に深く刻み込まれた戦争の記憶は、多くの人がそれを共有してきた時代に、「同じ過ちを繰り返してはならない」という誓いを、常に新たにする原動力となってきました。ところが戦争が終結してから80年という時の流れのなかで、実際に戦争を体験したことのない世代が増え、伝えられなくてはならないその記憶を少しでも薄めよう、忘れようとする力が働いています。いまでは、国家間の対立を解決するためには、まず武力の行使も仕方がない、いや外交努力は武力の行使によってこそ強められるという考えまでが、現実的な選択だと言われるようになりました。

 現代を生きている私たちは、あたかも過去の歴史に対して敬意を払うことなく、それを無かったこととして忘れ去ろうとし続けているかのようであります。

 人間の命を暴力を持って奪い取ることが、どれほどの悲劇を生み出してきたのか。利己的な欲望を満たすために他者を犠牲にし、自己正当化を繰り返しながら歩み続けることが、どれほど多くの人の希望を奪い取り絶望を生み出してきたのか。私たちは何度も何度も同じ間違いを繰り返してきました。何度も繰り返すのですから、間違いなのではなくて、それがわたしたちの本当の姿なのかもしれません。

 今もまた、私たち人類は、様々な正当化の理由の元、例えばガザで多くの命に暴力的に襲いかかり、すさまじい命の危機が続いているにもかかわらず、それを止めるすべを持ちません。コロナ禍で始まったウクライナでの戦争で、どれほど多くの命が奪われても、それを止める術を持ちません。同じくコロナ禍で起きたミャンマーでのクーデターでは、その後の混乱が、平和を求める教会の叫びにまで襲いかかり、絶望を生み出し続けています。それどころか、近隣のタイとカンボジアで、武力による衝突まで起きています。

 どんなに時間が経過したとしても、起こった事実は変わりません。その事実を目の当たりにしたからこそ、心に誓った願いは、どんなに時間が経過したとしても、変わることはありません。だからこそ、80年前の悲劇を記憶し平和を祈るこの10日間、特に今日は長崎の原爆忌です。私たちは改めて、起こった出来事の記憶を新たにし、その直後の誓いを新たにし続けなければなりません。過去に起きた出来事とその教訓を忘れ去ることは、時の流れを支配する神に対する不遜な行動です。

 私たちの信仰の中心には、あの最後の晩餐の席で主イエスご自身が「私の記念としてこれを行いなさい」と命じられたように、連綿と伝え続けられている記憶があります。時間の流れの中で薄められ忘れられてはならない記憶です。私たちの信仰は、最初にあった出来事を記憶し、それを次の世代へと連綿と伝え続ける信仰です。記憶を伝え続けることの大切さを十分に知っているキリスト者だからこそ、教会は、平和の確立のために戦争の記憶を伝え続けることを放棄することはできません。

 日本のカトリック司教団は戦後80年にあたり、6月23日の沖縄慰霊の日の直前に開催された司教総会で「平和を紡ぐ旅 -希望を携えて-」と題する平和メッセージを採択しました。

 その冒頭で私たち司教団は、教皇フランシスコの広島での言葉、「思い出し、共に歩み、守る。この三つは倫理的命令です。これらは、まさにここ広島において、よりいっそう強く、より普遍的な意味をもちます。この三つには、平和となる道を切り開く力があります。ですから、現在と将来の世代に、ここで起きた出来事の記憶を失わせてはなりません」を引用いたしました。

 私たちは歴史的事実に誠実に向き合い、謙虚に学び、深く心と記憶にとどめ、さらに次の世代に確実にそれを伝え、その上で、この世界において神の平和を確立するための努力を続けていかなくてはなりません。

 80年以上前に広島、長崎で、また日本各地、さらに世界各地で起こった戦争と核爆弾によるいのちの悲劇。それを実際に体験した多くの方にとっては、どんなに時間がたっても、その出来事は命に対して襲いかかった暴力という負の力として、心に深く刻み込まれ、忘れ去られることはないものと思います。

 私たちは記憶が薄れることをいいことに、さらには時間の経過とともに実体験として暴力の記憶を心に刻み込んだ人が少なくなることをいいことに、様々な理由を見つけてきては命に対する暴力を肯定する誘惑に駆られます。そのような弱い私たちに対して、教皇フランシスコは力強く挑戦状を突きつけました。

 2019年、広島で「確信をもって、改めて申し上げます。戦争のために原子力を使用することは、現代においては、これまで以上に犯罪とされます。人類とその尊厳に反するだけでなく、私たちの共通の家の未来におけるあらゆる可能性に反する犯罪です。原子力の戦争目的の使用は、倫理に反します。核兵器の所有は、それ自体が倫理に反しています」と言われました。「使う」だけではなく、「使いたいという誘惑」に私たちを駆り立てる核兵器の所有でさえ、倫理に反している、と断言されました。

 この呼びかけの実現は、夢物語なのでしょうか。非現実的なのでしょうか。「平和を確立しよう」と声を上げるたびに、冷ややかな批判の声が聞こえてきます。「夢物語を語るな」「現実を直視せよ」と。

 果たして、核兵器の無い世界の実現を、そして平和に対する呼びかけを、「夢物語であり、非現実的だ」と言うのであれば、福音に記されたイエスの言葉は、まさしく夢物語です。

 「心の貧しい人々。悲しむ人々。柔和な人々。義に飢え乾く人々。憐み深い人々。心の清い人々。平和を実現する人々。義のために迫害される人々」を「幸いだ」と言われる主の言葉を、夢物語に終わらせるのか、現実のものとするのか。それは、私たちの決断にかかっています。主イエスの言葉を現実のものとするために、罵られ、迫害され、悪口を浴びせられるのか、それを避けようとするのか。主は、前者こそが幸いであると言われます。私たちはどちらを選択するのでしょうか。

 教皇ヨハネ23世の回勅「地上の平和」は、冒頭で、「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」と記しています。

 果たして、私たちが生きている今の世界の現実は、神の秩序が全面的に尊重された世界でしょうか。神が望まれている世界は実現しているでしょうか。ありとあらゆる方法で、そして口実で、神からの賜物であるいのちが暴力的に奪われている状況を、神が望んでいるとは到底思えません。賜物である命は、その始まりから終わりまで、例外なく守らねばなりません。

 神がご自分の似姿として創造されたいのちには、神の愛が注ぎ込まれています。神は命を賜物として私たちに与えられました。ですから私たちには、命の尊厳を守り抜く責務があります。賜物である命を守るのは、私たちの信仰における決断です。平和を確立するための道です。

 平和旬間にあたり、改めて私たちの信仰に生きる姿勢を見直しましょう。伝えるべき記憶をしっかりと伝え続ける者でありましょう。神の支配が確立するように、働く者でありましょう。

(編集「カトリック・あい」=原文ではこれまでも、ひらがな表記が多用されていますが、新聞などで一般に使われていて、読みやすい当用漢字表記に改めました。また「命」のように、象形から「ひざまずいて神意を聞く人」を表し、そこから神からいただいたもの」を意味する漢字となった、とされるなど、言葉自体に深い意味があり、ひらがな表記では当然、読み取ることができません。)

2025年8月9日