・カンタラメッサ枢機卿の小さな黙想・最終回

(2024.3.22バチカン放送)
教皇付き説教師カンタラメッサ枢機卿の、四旬節を機会とした小さな黙想の最終回をおおくりする。
教皇付き説教師ラニエーロ・カンタラメッサ枢機卿の、四旬節を機会とする小さな黙想(全6回)を紹介しているが、今回はその最終回にあたる第6回目の黙想をお届けする。

この最終回、カンタラメッサ枢機卿は、「あなたがたはわたしの友である」(ヨハネ 15,14)というイエスの言葉を観想。この言葉がそれを聞いた人々の中で長く響き続けることを願った。

イエスは最後の晩餐で、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15,12-13)と言われた。

そして、これに続けて、こう言われた。「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」(同15,14-15)。

カンタラメッサ枢機卿の小さな黙想・第6回目(最終回)の内容は次のとおり。

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今日、皆さんに味わっていただきたい御言葉は、蜜のように甘い言葉です。この言葉をもって黙想を終えることをうれしく思います。なぜなら、この御言葉が皆さんの心の中に長く響くことを願うからです。

イエスは弟子たちに別れを告げる時にこの言葉を言われました。しかし、キリストのすべての言葉がそうであるように、この言葉はすべての時代のすべての弟子に向けられています。「…あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。…わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」(ヨハネ15,14-15)。

「あなたがたはわたしの友である」。この御言葉について、皆さんに少し打ち明けたいことがあります。何年も前の祈りの集いでのことです。一人の女性が聖書を開き、ヨハネ福音書の一節を朗読しました。そこにこの言葉がありました。わたしはこの言葉をいったい何度聞いたことでしょうか。しかし、その時、「友」という言葉がわたしの中で「爆発」したのです。それ以外に表現のしようがありません。

これは聖書の御言葉だけで起きることです。導線に火をつけるのはいつも同じ、それは聖霊です。

わたしは心の中で繰り返し始めました。「友」だって!? ナザレのイエス、万能の神、わたしのために死なれた方、その方がわたしを「友」と呼ばれるなんて。しかも、イエスは決して虚しい言葉は言われない…。ならば、わたしは本当にイエスの友、大切な存在なのだ!

集いから修道院に帰る途中、その確信と共に、わたしは町並みの屋根の上にも舞い上がれる気持ちでした。まるでシャガールの絵で見るみたいに。

この「友」という言葉が、これをお聞きの皆さんの中でも弾けますように! そして、それが皆さんの人生をずっと照らしますように! よい四旬節を! そして、よい復活祭をお迎えください!

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2024年3月23日