・「それぞれろうそくを掲げ共に歩み、世界を支配する暗闇を打ち払おう」菊地大司教、復活徹夜祭メッセージ

聖土曜日復活徹夜祭 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2024年3月30日

 皆さん、御復活、おめでとうございます。

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 暗闇は光によってのみ打ち払われます。復活讃歌の冒頭には「まばゆい光を浴びた大地よ、喜び踊れ。永遠の王の輝きは地を照らし、世界を覆う闇は消え失せた」と、闇を打ち払う光の輝きが記されています。

 それほどの力強い光は、いったいどれほどの大きな光なのでしょうか。復活讃歌の終わりには「このろうそくが絶えず輝き、夜の暗闇が打ち払われますように」と歌われています。「このろうそく」とはどのろうそくでしょう。ここに輝いている復活のろうそくです。大きな光でしょうか。いや少しでも風が吹けば消えてしまいそうな小さな炎です。弱々しい炎です。

 復活讃歌は、「その光は星空に届き、沈むことを知らぬ明の星、キリストと一つに結ばれますように」と続いています。

 天地創造を物語る創世記の冒頭で、神はまず「光あれ」と宣言し、混沌とした闇に秩序をもたらします。すなわち神こそは、世界を覆う闇を打ち払う希望の光であり、この世界に正しい秩序を与える世界の王であります。復活讃歌は、この小さな復活のろうそくの光が、世界を照らす希望の光である救い主、キリストと一つに結ばれる、神の存在の象徴であることを明確にします。

 私たちは今宵、暗闇の中に集まって、復活のろうそくに火がともされるのを目撃しました。闇が深ければ深いほど、小さな光でも力を持って輝きます。すなわち私たちは、復活のろうそくの小さな光をこの闇の中で体験することで、その光が一つになって結ばれる全能の神の光の輝きを体験しました。復活された主は、人類を覆う最も深い闇である死を打ち破り、新しいいのちへの希望を与え、混沌とした世界に新たな秩序を打ち立てられました。復活のろうそくにともされた炎は、死の闇を打ち破り、新しいいのちへと復活された主イエス・キリストの希望の光です。

 暗闇の中で復活のろうそくの光を囲み、復活された主がここにおられることを心に留め、主によって新しい命に招かれ、主によって生きる希望を与えられ、主によって生かされていることを私たちは改めて思い起こします。

 復活のろうそくに灯された小さな光は、「キリストの光」という呼びかけの声と共に、この聖堂の暗闇の中に集まっているすべての人に、分け与えられました。皆さんお一人お一人が手にする小さなろうそくに、小さな炎が共にされていきました。

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 「キリストの光」という呼びかけの声に、なんと応えたでしょうか。「神に感謝」です。何を私たちは感謝したのでしょう。それは、神から新しい命への希望を与えられたことを改めて実感しながら、神に感謝しました。ひとり一人のろうそくの炎は小さくとも、ここに集う多くの人のろうそくにそれが分け与えられ、全体として、聖堂を照らすに十分な光となりました。

 私たちが成し遂げたいのは、それなのです。一人ひとりが出来ることには限界があり、一人で掲げることのできる命の希望の光は小さなものです。私たちの周りの闇は、その小さな炎で打ち払うには深すぎる。だからこそ、皆の小さな炎を一緒になって掲げたいのです。教会が共に歩むことを強調する理由はそこにあります。

 今、教会が歩んでいるシノドスの道の本質は、そこにあります。それぞれ掲げるろうそくは異なっているでしょう。炎の大きさも異なっているでしょう。皆が同じことをするのではありません。しかしそれぞれが勝手に小さな炎を掲げていては打ち払うことができないほど闇は深い。だから連帯のうちに、支え合い助け合いながら、共に光を掲げて歩むのです。教会は、命を生きる希望の光を掲げる存在です。絶望や悲しみを掲げる存在ではありません。希望と喜びの光を掲げることができなければ、教会ではありません。

 主が復活されたその地、すなわち聖地で、今、多くの命が暴力的に奪われ続けています。すでにガザでは三万人を超える命が、暴力的に奪われたと報道されています。イスラエル側にも多くの死者が出ています。命の希望がもたらされた聖地で、いったいどうしたら、命の希望を取り戻すことができるのか、その道を世界は見い出せずにいます。今この瞬間も、命の危機に直面し、恐れと不安の中で絶望している多くの命があることを考えると、暗澹たる思いがいたします。

 ウクライナへのロシアによる侵攻によって始まった戦争も、まだ終わりが見通せません。東京教区の姉妹教会であるミャンマーでも、平和を求めて声を上げる教会に、軍事政権側の武力を持った攻撃が続いているとミャンマーの教会関係者から状況が伝わってきます。

 世界各地に広がる紛争の現場や、災害の現場や、避難民キャンプなどなどで、多くの人が「私たちを忘れないで」と叫んでいます。教会は命を生きる希望を掲げる存在であることを、改めて私たちの心に刻みましょう。

 戦地や紛争の地だけでなく、私たちの生きている現実の中ではどうでしょう。障害のある人たちや幼い子どもに暴力を加え、命を奪ってしまう。様々なハラスメントを通じて、人間の尊厳を奪い去る。多数とは異なる異質な存在だからと、その存在を否定する。暴力を受けているのは、神が賜物としてわたしたちに託された命です。社会に蔓延する命への価値観が、そういった行動に反映されています。この社会の中で、教会は小さいけれども、希望の光を掲げる存在であり続けたい、と思います。

 今夜、このミサの中で、洗礼と初聖体と堅信の秘跡を受けられる方々がおられます。キリスト教の入信の秘跡は、洗礼と聖体と堅信の秘跡を受けることによって完結します。ですから、その三つの秘跡を受ける方々は、いわば完成した信仰者、成熟した信仰者となるはずです。どうでしょうか。大人の信仰者として教会に迎え入れられるのですから、成熟した大人としてのそれなりの果たすべき責任があります。それは一体なんでしょうか。

 先ほど朗読されたローマ人への手紙においてパウロは、洗礼を受けた者がキリストと共に新しい命に生きるために、その死に与るのだ、と強調されています。そしてパウロは、「キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるため」に洗礼を受けるのだと指摘しています。洗礼を受けた私たちには、キリストと共に、新しい命の道を歩む、という務めがあります。キリストと共に、そして皆と共に、支え合って歩みます。

 主の死と復活に与る私たちに求められているのは、行動することです。前進することです。何もせずに安住の地に留まるのではなく、新たな挑戦へと旅立つことです。そして苦難の中にあって闇雲に進むのではなく、先頭に立つ主への揺らぐことのない信頼を持ち、主が約束された聖霊の導きを共に識別しながら、御父に向かってまっすぐに進む道を見いだし、勇気を持って歩み続けることであります。そこには、共に歩む仲間がいます。それぞれが自分の小さなろうそくの炎を掲げ、共に歩むことで、世界を支配する暗闇を打ち払いましょう。

 「宣教する共同体」、「交わりの共同体」、「すべての命を大切にする共同体」の実現のために、福音を告げ知らせ、証しする道をともに歩み、暗闇の中に希望の光を燦然と輝かせる教会を実現していきましょう。

(編集「カトリック・あい」)

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2024年3月31日