・「神の言葉に耳を傾け、心に刻み込んで証しする者に」菊地大司教、年間第3主日

2024年1月20日 (土) 週刊大司教第152回:年間第三主日

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 今日のメッセージでも触れていますが、年間第三主日は「神のことば」の主日です。

 中央協議会のホームページには、次のように解説が掲載されています。なお、こちらのリンク先の解説のページの下部にあるリンクから、教皇様の文書「アペルイット・イリス」をダウンロードして読むこともできます。

「教皇フランシスコは、自発教令の形式による使徒的書簡『アペルイット・イリス(Aperuit illis)』を、2019年9月30 日(聖ヒエロニモ司祭の記念日)に公布して、年間第三主日を『神のことばの主日』と名付け、『神のことばを祝い、学び、広めることにささげる』ことを宣言されました。また、『神のことばの主日』は、キリスト教一致祈禱週間(毎年1月18日~25日)とも重なり、『私たちがユダヤ教を信じる人々との絆を深め、キリスト者の一致のために祈るように励まされる』よう、エキュメニカルな意味を深めるものでもあります」

 またこの解説にも触れられているとおり、1月18日から25日は、キリスト教一致祈祷週間です。今年のテーマは、ルカ福音10章27節から「あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」とされ、日本キリスト教協議会とカトリック中央協議会が共に準備した文書では、今年は特に、アフリカ西部のブルキナファソ(ガーナのすぐ北です)の教会に思いをはせて祈りを捧げることが勧められています。

 今年は久しぶりに、東京での合同の一致祈祷会がカテドラルで開催されます。参加は自由ですので、多くの皆さんの参加をお待ちしております。東京カテドラル聖マリア大聖堂の地下聖堂で、21日の午後2時からです。

 以下、20日午後6時配信の週刊大司教第152回、年間第三主日のメッセージ原稿です。

【年間第三主日B 2024年1月21日】

 「私に付いて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マルコ福音書1章17節)

 マルコ福音の冒頭には、馬小屋でのイエスの誕生の物語は記されていません。マルコはイエスの物語を、洗礼者ヨハネの出現を預言したイザヤの言葉、「荒れ野で叫ぶ者の声がする」をもって始めています。さらにその直後にイエスの洗礼について記し、「あなたは私の愛する子、私の心に適うもの」という神の言葉を記します。その直後にマルコ福音は、「イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」と記しています。

 すなわち、マルコ福音はその冒頭から、この世界に響き渡る声こそが神の意志を告げる声であり、イエスこそはその神の言葉の受肉であって、その本性からして福音そのものであり、福音を宣べ伝えることこそがイエスの人生そのものであることを明確にします。

 ですから、イエスと弟子たちとの歩みは、議論や対話のうちに始まったのではなく、神ご自身からの一方的な宣言によって始まります。信仰は私たちの選択なのではなく、神からの一方的な呼びかけによって成り立っています。人間の都合から言えば、その場ですべてを捨てて従うことなど、とんでもないことです。この世の常識に従うなら、よく話し合って納得してから従うのかどうかを決めたいところです。

 しかしイエスは、なんとも身勝手に、神の意志を言葉として発してこられます。一方的に呼びかけてこられます。同じ呼びかけは、日々、私たちに対しても聖書のみ言葉の朗読を通じて行われています。その呼びかけに、私たちは応えているでしょうか。

 教皇フランシスコは2019年9月に、使徒的書簡「アペルイット・イリス(Aperuit illis)」を発表され、年間第三主日を「神のことばの主日」と定められました。今年は1月21日が、「神のことばの主日」であります。教会は、聖書と共に、使徒たちから伝えられた「信仰の遺産」である生きている聖伝も大切にしています。カテキズムは、「どちらも、『世の終わりまで、いつも』弟子たちと共にとどまることを約束されたキリストの神秘を、教会の中に現存させ、実らせるもの」だと指摘しておられます(80項)。

 教皇は「聖書のただ一部だけではなく、その全体がキリストについて語っているのです。聖書から離れてしまうと、キリストの死と復活を正しく理解することができません」と指摘されます。

 第二バチカン公会議の啓示憲章も、「教会は、主の御体そのものと同じように聖書をつねにあがめ敬ってき〔まし〕た。なぜなら、教会は何よりもまず聖なる典礼において、たえずキリストの体と同時に神の言葉の食卓から命のパンを受け取り、信者たちに差し出してきたからで〔す〕」(『啓示憲章』 21項)と記して、神の言葉に親しむことは、聖体の秘跡に与ることに匹敵するのだ、と指摘しています。

 それぞれの生きる場で、神の言葉を証しして生きるように、招かれている私たちは、日頃から、また典礼祭儀において、神の言葉に耳を傾け、慣れ親しみ、自らの心にそれを刻み込んで証しする者でありたいと思います。

(編集「カトリック・あい」=聖書の引用箇所は「聖書協会・共同訳」に、また本来の日本語の意味がよく伝わるように、ひらがな表記の乱用を避け、表記を原則として当用漢字表記に改めてあります。原文に一か所、誤字がありましたので修正しました)

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2024年1月20日