・「悪の束縛を解き放ち、喜びと希望を生み出すために出向く教会でありたい」菊地大司教、年間第五主日

2024年2月 3日 (土) 週刊大司教第154回:年間第五主日B

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 年の初めは普段以上に時間が早く過ぎ去る気がいたします。年度末ということもあるのでしょうが、あっという間に三か月が終わって、呆然とすることがしばしばです。今年はご復活が三月の末日となっていますから、すでにあと数日で四旬節となります。いつにも増して、典礼の暦が早く進む年になりそうですが、ここは心を落ち着けて、霊的には、じっくりと歩む時としたいと思います。

 千葉県の白子にある十字架のイエス・ベネディクト修道院で、シスター・マリア・ファウスティナ小林清美さんが、2月2日、主の奉献の祝日に終生誓願を宣立されました。訪日中のアンゴラのゼフェリーノ大司教様他、チャプレンの野口神父様、西千葉・千葉寺・茂原の福島神父様、小田神父様が参加しました。おめでとうございます。

 こちらのリンク記事は2年前に、茂原教会訪問後に修道院を初めて訪問させていただいたときの日記です。九十九里浜のすぐそばです。この修道会の特筆ずるべき特徴については、このリンク先の2022年の日記の後半をご一読ください。下の写真、私とゼッフェリーノ大司教のあいだがシスター・マリア・ファウスティナ小林、写真の右端が院長様。

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 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第154回、年間第5主日のメッセージ原稿です。

【年間第五主日B 2024年2月04日】

 マルコ福音は、カファルナウムで福音を告げるイエスの姿を描いています。

「悪霊にものを言うことをお許しにならなかった」

 イエスは、権威のある言葉を語り、人々が驚くような業を行います。弟子となったシモンの姑の熱を去らせたことを皮切りに、多くの病人や悪霊に取りつかれた人が、癒やしを求めてイエスのもとに集まってきた様子が描かれています。

 もちろん「病いの癒やし」という出来事自体は奇跡であり、驚くべき出来事ですが、それ以上に、人生の中で困難を抱え、絶望に打ちひしがれている人たちが、イエスのもとで安らぎを得、生きる希望を見い出したことにこそ、重要な意味があると思います。権威あるイエスの姿は、同時に愛と慈しみに満ちあふれた姿でもありました。

 押し寄せてくる人生の困難を抱えた人たちを目の当たりにした時、イエスはそれを放置することはできなかった。命をより良く生きることを阻んでいる悪によって囚われの身にある人たちを解放されました。

 パウロはコリントの教会への手紙に、「弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです」と記し、「福音のためなら、私はどんなことでもします」と宣言しています。

 パウロの宣教への姿勢は、イエスと全く同じように、「教え導いてやろう」という上からの目線の態度ではなく、困難を抱え希望を失っている人たちと同じ地平に立ち、全力を尽くして神の救いの希望に与ることができるように、束縛から解放しようとする、手を差し伸べる姿勢です。

 だからこそ、イエスもパウロも、一つのところに留まって褒め称えられるのではなく、一人でも多くの人に「生きる希望」を生み出すために、全力を尽くして出向いて行かれます。教皇フランシスコが、教会は「出向いていく教会であれ」と呼びかけるゆえんです。そのイエスの姿に倣って、私たちも神の愛と慈しみを伝え、希望を生み出し続けるものでありたい、と思います。

 2月5日月曜日は、「日本26聖人殉教者の記念日」に当たります。「自分の十字架を背負って、私に付いて来なさい」と呼びかけられたイエスに忠実に生きることによって、主ご自身の受難と死という贖いの業に与り、それを通じて命の福音を身をもって証しされた聖人たちです。

 聖パウロ三木をはじめ26人のキリスト者は、1597年2月5日、長崎の西坂で主イエスの死と復活を証ししながら殉教して行かれました。イエスの福音にこそ、すべてを賭して生き抜く価値があることを、大勢の眼前で証しされた方々です。すべてを投げ打ってさえも守らなくてはならない価値が、命の福音にあることを証しされた方々です。

 私たちは、「そのすべてを賭してさえも守り抜かなくてはいけない福音に生きるように」と、聖なる殉教者たちに招かれています。全力を尽くして、絶望のうちにある人たちの元に駆け寄り、困難を生み出す悪の束縛から解き放ち、喜びと希望を生み出すために、出向いていく教会でありたいと思います。

(編集「カトリック・あい」=表記は原則として当用漢字表記に統一、また脱字は修正してあります)

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2024年2月3日