年間第26主日:世界難民移住移動者の日(配信ミサ)
週刊大司教でも触れていますが、9月最後の主日は、世界難民移住移動者の日と定められています。本来であれば、教会の大切な活動である難民や移住者への支えの活動のために、全世界の教会は献金をする日となっているのですが、残念ながら今年はミサの非公開の時期と重なってしまいました。様々な事由から困難な旅路につき、今、その途上にある人たちのために、お祈りくださいますようにお願いします。
教会は従前から、旅路にある人への配慮の必要性を強調してきましたし、特にその命を危機にさらすようなことのないように、特段の配慮をするように教えてきました。また教会のそういった配慮を具体的に表現するため、国際カリタスを通じた全世界での難民支援活動を行い、また教皇庁の人間開発促進の部署に難民セクションを設けて、教皇様が直接関与する形で、支援活動を強めてきました。
移動の途上にあって命を落とされる事案は、増えることはあっても減少してはいません。教皇様が就任直後にアピールをされた、アフリカから地中海へ乗り出して命を落とされる多くの人の存在を始め、アフリカや中東、そしてアジアでも、紛争地域にあっていのちの危機に直面する多くの人たちは後を絶ちません。さらには経済的困難から移住することを選択し、新たな居住地で命の危機に直面する方もおられます。
日本でもそういった残念な例がありますが、公的な保護が十分ではなく逆にその尊厳を奪われて、中には命を落とす方もおられるような事案があることも事実です。人間のいのちの尊厳を奪い去る暴言や暴行は、誰であっても、とりわけ保護する立場にある公的機関である場合にはなおさら、それを正当化することは、命が神からの賜物であると主張する限り、できることではありません。互いに支え合い助け合うという、賜物である命に与えられた私たちの存在の意味を、今一度、心に刻みたいと思います。
以下、26日午前10時から、カトリック関口教会のYoutubeアカウントから配信された主日ミサの、説教原稿です。
【年間第26主日B(配信ミサ)東京カテドラル聖マリア大聖堂 2021年9月26日】
9月最後の主日は、世界難民移住移動者の日と定められています。
旧約聖書のレビ記19章34節にはこう記されています。「あなたがたのもとにとどまっている寄留者は、あなたがたにとってはイスラエル人と同じである。彼を自分のように愛しなさい。あなたがたもエジプトの地では寄留者であった。私は主、あなたがたの神である」。
教会にとって、移住者への司牧的配慮は、その形態や理由の如何を問わず、長年にわたって優先課題とされています。それは旧約時代から続く、寄留者への配慮の定めに基づいています。
現在は人間開発促進の部署として統合されましたが、かつて浜尾枢機卿様が議長を務めておられた教皇庁の移住移動者評議会が2004年に発表した文書、「移住者へのキリストの愛」には、御父によるこの命令を前提としながら、次のように記されています。
「移住者を思うとき、教会は『私が旅をしていたときに宿を貸してくれた』と、語られたキリストをいつも観想します。したがって、移住の問題は、信じる者の愛と信仰へのチャレンジでもあります」(12)
その上で同文書は、「今日の移住現象は重要な『時のしるし』であり、また、人類を刷新し、平和の福音を宣言する私たちの働きのうちに見いだされ、役立てられる者とするためのチャレンジです」(14)と記し、難民、移住、移動者への関わりは、単に教会の慈善事業なのではなく、信仰を生きる上で欠かすことのできない回心への呼びかけであることを明確にします。
教皇フランシスコは、今年の世界難民移住移動者の日にあたってメッセージを発表され、テーマを「さらに広がる“私たち”へと向かって」とされました。
教皇様は、「私たち」という言葉を、「あの人たち」という言葉への対比として使っておられます。つまり、難民や移住者の抱える困難は、自分とは関係のない他人である「あの人たち」の問題なのではなく、「私たち」の問題であることに思いを馳せ、「私たち」と言う言葉の包摂する範囲を、自分の知り合いの者たちに限定するのではなく、さらに広げて、困難に直面するすべての人へと広げていくように、と呼びかけておられます。
同時に教皇様は、この手を差し伸べる業を、単なる慈善の業とは見なしておられません。教皇庁の人間開発促進の部署には難民セクションがあり、その難民セクションの関係者は直接、教皇様に報告をするように、と定められております。その関係者によると、難民や移住者の課題への取り組みについて報告をするとき、教皇様は会話の中でしばしば、「私の家は、あなたの家だ」というフレーズを口にされると言います。
「私の家は、あなたの家」という言葉は、「困難を抱える人を私のところへ迎え入れる優しさ」に満ちあふれた言葉として響きます。しかしそれは単に、自らの家に困窮する人を迎え入れなさい、という慈善行為の勧めに留まってはいません。
教皇様は、「私の家」という言葉で、「自分自身が、その家における責任をもった居住者であること」を表明するとともに、迎え入れた「あなた」も、「私」と同じように「この家」の責任ある居住者となることを意味しておられます。つまり、援助の手を差し伸べ、迎え入れた人は、単なる「私の家のゲストで」はない、ということであります。迎え入れた人は、その時から、私と同じ責任ある居住者、であることを意味します。もちろん教皇様は「私の家」という言葉で、「国家」を意味しておられます。
教皇様はメッセージで、「神が望まれたその“私たち”は、崩壊してばらばらになり、傷つき損なわれています」と指摘されます。その上で教皇様は、「内向きで攻撃的なナショナリズムや過激な個人主義は、世の中でも教会内でも、その“私たち”をばらばらにしたり分裂させたりします。そして最も大きな犠牲を払わされるのは、すぐに“あの人たち”となりうる人たち、すなわち、『外国人、移住者、疎外された人、つまり実存的な周縁部に住まう人たち』です」と記され、共に「共通の家」に住まう兄弟姉妹とともに、「家族」を修復するように、と呼びかけておられます。
民数記は、モーセ以外の70人の長老にも、聖霊の導きがある場合に限って、預言を語る力が授けられたことを記します。「モーセにだけ与えられていた特権」を奪われた、という思いが、モーセに長年仕えるヨシュアにはあったのでしょう。「やめさせるべきです」と進言するヨシュアに対して、モーセは、「主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になれば良いと切望しているのだ」と述べて、「大切なのは、神の民すべてが与えられた役割を忠実に果たして、互いに支え合いながら共に共同体を育てていくことだ」と指摘します。
使徒ヤコブは、「この世の富は、永遠の命を保証するものではないこと」を明確に指摘し、さらには「その富を蓄えるために犠牲となった多くの人の苦しみが、終わりの日には裁きとなって自分に返ってくること」を指摘します。
さらに使徒ヤコブは、「畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています」と記し、弱い立場に置かれた人たちへの正義にそむく行いをとがめています。まさしく多くの移住者が、とりわけ法的に弱い立場にある人たちが、人間の尊厳をないがしろにされ、排除される事例は、現代社会でもしばしば聞かれます。
マルコ福音は、「神の国に入る者となるためには、中途半端ではなく、徹底的に福音に生きる必要があること」を、イエスが厳しい口調で語っている様を記します。同時にイエスは、その厳しさは「自分自身に向かう厳しさであって、他人を裁く厳しさではないこと」を明確にします。弟子たちは、自分たちの仲間でないものを裁こうとしますが、イエスは「私に逆らわない者は、私の味方」と述べ、「弱い立場にいる人への慈しみに、徹底的に生きることこそが、救いにとって第一に必要であること」を示します。
賜物である命をいただいた私たちは、国籍や文化の違いを乗り越えて、神から愛される兄弟姉妹として生かされています。私たちがするべき事は、その命がすべて一つの体につながれ、永遠の命を受けるように、慈しみの手を差し伸べて助け合うことであります。異なる存在を排除して、命を危機に直面させることではありません。
福音に徹底的に従おうとする私たちは、社会にあって弱い立場にいる多くの人たちへの慈しみに徹底的に生きる者でありたいと思います。助けを求める人たちに対して、「あの人たち」と見なして背を向けるのではなく、同じ命を賜物として与えられている「私たち」として、創造主である神の懐にともに抱かれ、互いに支え合い助け合いながら、それぞれの役割を果たしていく者となりましょう。