・「困難な時だからこそ、弱さを自覚しよう」菊地大司教の受難の主日ミサ説教

聖週間:受難の主日ミサ 166102180_473028670805915_64825660247839

 聖週間が始まりました。本日は受難の主日または枝の主日と呼ばれます。これまでは、教皇ヨハネパウロ二世の定めにより、この日は「世界青年の日」とされていましたが、今年から、「王であるキリストの主日」が世界青年の日となります。

 東京カテドラル聖マリア大聖堂で、関口教会の午前10時のミサを司式いたしました。今年は、感染予防策として、聖座の典礼秘跡省からも指針が出ていますが、東京教区でも典礼委員会が指針を策定しました。

 最終的な指針の適用は、それぞれの地域・小教区で事情が異なりますので、主任司祭の判断です。皆様には、制約がさまざまあろうかと思いますが、主任司祭の指示に従ってくださるようお願いします。

 関口教会も、そんなわけで、今朝は外からの行列は中止。本当はルルドから行列するのですが、仕方がありません。皆さんには会衆席に着いていただいたままで、司祭と侍者が聖堂入り口で枝の祝福をし、会衆席を聖水を撒いて祝福して回り、福音を朗読してから、入祭となりました。

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 聖週間の主な典礼は、関口教会のyoutubeチャンネルから、配信されています。

以下、本日のミサの説教原稿です。

 【受難の主日 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2021年3月28日】

一年前の聖週間、教会の扉は閉じられたままでありました。一年前、新型コロナウイルスによる感染症が拡大する中で、私たちは先行きの見えない不安に苛まれながら、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という受難朗読にあるイエスの言葉を、自分の言葉としていました。

残念ながら状況は劇的に改善してはいないものの、今年はそれでも、さまざまな制約を設けながらではありますが、聖週間の典礼を行うことが可能となりました。今しばらくは、状況を見極めながら、慎重な行動を選択し続けたいと思います。

この一年、世界各地で、また日本において、今回の感染症のために亡くなられた方々の永遠の安息を、そして、今、病床にある方々の回復と、医療関係者の健康のために、祈ります。

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歓声を上げてイエスをエルサレムに迎え入れた群衆は、その数日後に、「十字架につけろ」とイエスをののしり、十字架の死へと追いやります。

しかしパウロは、イエスが「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」であったからこそ、「神はキリストを高く上げ、あらゆる名に勝る名をお与えに」なったのだと記します。

イザヤは、そういったイエスの生きる姿を、苦難のしもべの姿として預言書に書き記しています。

主なる神が「弟子としての舌」を与え、「朝ごとに私の耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにして」くださったがために、「私は逆らわず、退かなかった」。苦しみに直面したイエスの従順と不退転の決意を、イザヤは、そう記します。

神が与えられた「弟子としての舌」は、「疲れた人を励ますように」語るための舌であると、イザヤは記します。その舌から語られる言葉は、命を生かす言葉であり、生きる希望を生み出す言葉であり、励まし支える言葉であります。

加えて、その舌が語る言葉は、自分の知識に基づく言葉ではなく、「朝ごとに」呼び覚まされる主の言葉に耳を傾け、それを心に刻んで従おうと決意する、神ご自身のことばであります。

人間の知識や感情や思いに左右される言葉は、イエスを十字架の死へと追いやった群衆の熱狂の内にある言葉のように、命を危機に追いやり、命を奪う言葉となります。

神の言葉に耳を傾け、それを心に刻み、不退転の思いをもってそれに従い、それを語る主イエスの言葉は、互いを支え、傷を癒やし、希望の光をともす、命を生かす言葉であります。

今のこの時代、私たちは、熱狂の言葉ではなく、希望に満ちた命の言葉を語る者でありたいと思います。弟子の舌をもって語る者でありたいと思います。

この一年を「聖ヨセフの年」と定められた教皇フランシスコは、使徒的書簡「父の心で」において、イエスの物語の背景であまり目立つことのない聖ヨセフの生き方について、さまざまな視点を提供しています。

その書簡の中で、自らの弱さのうちに神の力が働くことを知った聖ヨセフの「慈しむ心の父」としての側面に触れ、こう記しています。

「救いの歴史は、私たちの弱さを通して、『希望するすべもなかったときに、……信じ』ることで成就します。あまりにしばしば私したちは、神は私たちの長所、優れているところだけを当てにしている、と考えてしまいますが、実際には、神の計画のほとんどは、私たちの弱さを通して、また弱さがあるからこそ、実現されるのです」

その上で教皇は、次のように指摘します。

「ヨセフは、神への信仰をもつということは、私たちの恐れ、もろさ、弱さを通しても神は働かれると信じることをも含むのだ、と教えてくれます。また、人生の嵐の中にあっても、私たちの舟の舵を神に委ねることを恐れてはならない、と教えます。時に私たちは、すべてをコントロールしようとします。ですが、主はつねに、より広い視野をもっておられるのです」

この一年、感染症によってもたらされた混乱と不安の中で、私たちはさまざまな視点から語りかける言葉を耳にしてきました。特に近年は、インターネットの普及で、さまざまな情報が、私たちを取り囲むようにして飛び交っています。かつては人の口伝えによって広まった噂も、今やインターネットを通じて瞬時に、考えられないような数の人に伝わっていきます。

飛び交う言葉には、命を生かす言葉もあるでしょう。希望の光をともす言葉もあるでしょう。支え合ういたわりの言葉もあるでしょう。

しかし、しばしば私たちが耳にしたのは、根拠の薄いうわさ話であったり、見知らぬ他者をののしる言葉であったり、弱い立場にある人や保護を必要とする人をさげすむ言葉であったり、排除する言葉であったり、そういった負の力を持つ言葉が心を傷つけ、希望を奪い、時には命をも奪い去るような出来事でありました。

あの日イエスを王のように歓呼をもって迎え入れた群衆のように、あの晩、イエスを十字架につけよ、と叫び続けた群衆のように、高揚した自分の心の動きに支配されて叫ぶ言葉は、真理からはほど遠いところにあり、だからこそ負の力に満ちあふれており、究極的には命を奪います。

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私たちは、今のような困難な時に生きているからこそ、自分たちの弱さをしっかりと自覚しなければなりません。私たちは自分の力だけで生きているのではなく、互いに支えられて生きていることを自覚し、神から生かされていることを心に刻んで、弱さの内にあることを認めなくてはなりません。

神は弱さにうちひしがれる私たちを通じて、その力を発揮され、救いの計画を成就させようとされるでしょう。今のこの状況を通じて、神がいったい何を成し遂げようとしているのかを知ることはできませんが、その計らいに信頼こそすれ、私たちの思い上がりで、神の計画を妨げてはなりません。

私たちは弱さの内にあると自覚するからこそ、命の与え主である神の言葉に耳を傾け、朝毎にその言葉によって生かされて、弟子の舌をもって語り続けることができます。

私たちは、疲れた人を励ます命の希望の言葉を語る者でありたいと思います。自分の激した心の赴くままに放言するものではなく、自分たちの力に過信して語るのではなく、まず弟子として神に聞き従う耳を持ちながら、主イエスご自身の生きる姿に倣い、不退転の決意をもって、命の言葉を語ってまいりましょう。

(編集「カトリック・あい」)

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2021年3月28日