(2021.3.26 Vatican News Robin Gomes )
教皇フランシスコの説教師であるラニエロ・カンタラメッサ枢機卿が26日、教皇はじめバチカン幹部に対する四回目の四旬節説教を行ない、「イエスと現実の愛の関係にあるということは、あらゆる神学的、教理的な議論を超えている。なぜなら、神は愛だからです」と語った。
人間の心にとって最も大きく、最も近づきがたい謎は、「神が一つで三位一体である、ということ」ではなく、「神が愛であり、悲惨で恩知らずな生き物である私を愛し、私のためにご自身を捧げられること」、と枢機卿は指摘し、「『私』から『あなた』へ、イエスと個人的な関係を結ばない限り、イエスは人として認知されることはできないーこれが今回の四旬節説教の中心となることです」と強調。
そして、「こでまでの2000年を通して、神学者たち、教会会議、そして教父たちは、『”真の人””真の神”であるイエスは、一人の人間だ』ということを確証してきました。これには、イエス・キリストがアイデアでも、歴史的な問題でも、単なる”性格”でもなく、一人の人間であり、生きておられる方、であることを発見し、宣言することを必要とします」と述べ、「これは、キリスト教がイデオロギーや単なる神学に矮小化されるのを避けるために、いちばん必要なことなのです」と語った。
また、このことは自分にも当てはまること、としたうえで、イエスに関する本、イエスに関する教義と異端の考え方、イエスについての概念を知ってはいたが、「今ここにいる生きておらてる人間としてのイエスを知らなかった。歴史と神学の勉強を通して彼に近づいたとき、私はそのような彼を知らなかった。私が持っていたのは、キリストについての非人格的な知識だった。ダマスカスへの道でのイエスの人との聖パウロの出会いの経験、が私には欠けていたのです」と述懐した。
三位一体の中での「人」の概念について、枢機卿は、「神において、それは”関係”を意味します。人間であることは”関係にある”ことです。これは、”純粋な関係”である三位一体の3人の神である人々に大いに当てはまります。 イエスと、”私”から”あなた”への個人的な関係を結ばない限り、イエスを人として知ることはできません」と語り、 「残念ながら、キリスト教徒の大多数にとって、イエスは人ではなく”性格”です。イエスは、一連の独善的な言明、教義、異端の”主題”です。私たちが典礼でその記憶を祝い、信じるイエスは、聖体の中に現存されている。だが、イエスと実存的な関係を強めることなしには、イエスは私たちの”外”におられたまま、私たちの心を温めることなく、私たちの観念に触れるだけです」と指摘した。
そして、「これが、教皇フランシスコが使徒的勧告『(家庭における)福音の喜び』で、すべてのキリスト教徒を『刷新されたイエス・キリストとの個人的な出会い』に招かれた理由です。そして、このキリストとの個人的な出会いの後に人生を一変させる体験は、聖霊の働きによるもの」と強調。
また、三位一体に関する教会の教義は、「聖ヨハネの『神は愛である』という言葉に基づいています。神は、数百億年前においてさえも、宇宙と人間の創造の前も、永遠を愛されてきました… 神の外で愛されるものが存在する前に、神はご自身の内に御言葉ー無限の愛をもって愛された御子ーをお持ちでした。つまり、『聖霊の内に』です」と語り、 「神において、 『神は愛』なので、多様であることは一致と矛盾しません」と付け加えた。
さらに「人間への尊敬と人間の尊厳の現代的な概念は、その人が神について持っているイメージに由来します。しかし、このような概念の源は、愛である三位一体の本質において理解することができます。私たちは、他者のために自分自身を犠牲にすることを厭わない愛を通し、他者と交わりを持つことによって、人間としての存在証明を獲得します。それはまさに、十字架に見られるキリストの存在のあり方であり、そこにおいて、神の愛が、私たち自身の人間の存在の中で、完全に明らかになります」と言明。
枢機卿はまた、「キリスト、神は、悲惨な恩知らずの生き物である私を愛しておられ、私のために彼自身を特別に犠牲にされました。私たちのキリストとの『個人的な関係』は、基本的に愛情の関係です。それは、『キリストに愛されること』と『キリストを愛すること』の両方から成り立っています」。そして、「この関係がしかるべき位置にあるとき、聖パウロが語っているように、苦悩、極度の不安、迫害、飢饉、衣類の欠乏、危険、あるいは戦争などの苦難が、私たちをキリストの愛から切り離すことはありません」と語り、次のように締めくくった。
「愛に基づく内なる癒しの方法として、この異邦人の使徒は、私たちを招いていますー現在の新型コロナウイルス大感染を含めたあらゆる危険と苦難を、『神が私を愛しておられる』という確信をもって、見つめるようにと。神が味方してくださるなら、誰が私たちに歯向かうことができるでしょう?」
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)