(菊地大司教の日記 2023年4月 7日 )

主の受難を黙想する聖金曜日です。この日は、通常のミサは行われません。各教会では、それぞれの慣習に従って、十字架の道行きをされたところも多かったのではと思いますが、今年の東京は、猛烈に風の吹く聖金曜日となりましたので、参加が難しい方もおられたかと思います。このブログの一番下に、東京教区で作成した十字架の道行きのビデオを貼り付けておきます。
また、本来、主の受難の典礼は、午後3時頃に行われ、夜には悲しみの聖母の崇敬式(スタバート・マーテルが歌われます)が行われたりしましたが、現在では、週日の金曜ということもあり、夕方に主の受難の典礼が行われることになっています。東京カテドラルの主の受難の典礼も、午後7時から行われました。
(なお、東京カテドラル聖マリア大聖堂の正面に向かって右手側には、聖ペトロ大聖堂に置かれているミケランジェロのピエタ像のレプリカが安置されています。サンピエトロにあるものと全く同じものです。また東京カテドラルの聖櫃は、他の大聖堂などと同じく、正面祭壇ではなく、脇祭壇や小聖堂に置かれることになっているため、むかって左側のマリア祭壇に置かれています。)
以下、本日午後7時の主の受難の典礼における、説教原稿です。
【聖金曜日・主の受難 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2023年4月7日】
私たちの信仰は、「道を歩み続ける信仰」です。時の流れの中で、どこかに立ち止まってしまうのではなく、常に歩みを続ける旅路です。時にはその歩みは遅くなったり、速くなったり、横にそれてみたり、後ろを振り返ってみたり、それでも、なんとか前進を続ける旅路です。
その信仰生活の歩みの中でも、四旬節には特別な意味があります。今年は2月22日の灰の水曜日から、私たちは四旬節の旅路を共に歩んで来ました。
四旬節は私たちの信仰の原点を見つめ直すときです。私たちの信仰の原点には、主の十字架があります。その十字架を背負い、苦難のうちに死に向かって歩まれる主の受難の姿があります。主イエスの苦難の旅路こそは、私たちの信仰の旅路の原点であります。
すべての創造主である神は、ご自分がたまものとして創造し与えられたすべての命を、一人たりとも見捨てることなく、永遠の命における救いへと招くために、私たちの罪を背負い、自ら進んで苦しみの道を歩まれました。その苦しみは、嘆き悲しむ絶望に至る苦しみではなく、死から復活へと至る希望と栄光の旅路でもあります。
私たちは、主の苦しみの旅路に心を合わせ、共に歩むように、と招かれています。主ご自身が悪との戦いの中で苦しみを受けられたように、私たちもこの世界の現実の中で、神の正義の実現を阻む悪との戦いで苦しみ、主ご自身がその苦難と死を通じて新しい復活の命の栄光を示されたように、私たちも苦しみの後に主の復活の神秘にあずかって、永遠の命にあずかる者とされます。十字架と共に歩む旅路は、私たちの信仰の原点です。
「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」(マタイ福音書25章40節参照)という主イエスの言葉を心に留める時、私たちは人生の歩みの中で、数多くの機会に、主御自身と出会って来たことに気がつきます。またこれからの旅路の中で繰り返し主と出会い続けることでしょう。主とともに歩む十字架の道は、また様々な現実の出会いを通じて、主ご自身と出会う旅路でもあります。ともに歩まれる主は、人生の様々な十字架を背負い、苦しい挑戦の中で、命を生きている多くの方を通じて、私たちをご自身との出会いへと招いておられます。
私たちは、悲しみの中で希望を求める人に、慰めを与える者だったでしょうか。苦しみの中で絶望にうちひしがれる人に手を差し伸べる者だったでしょうか。あえぎながら歩む人と共に歩む者だったでしょうか。神の前で罪を悔いる人に寄り添い、赦しへと招く者だったでしょうか。自分自身の常識とは異なる存在の人たちを裁くことなく、共に歩もうとする者だったでしょうか。
黙して語らず、ただただすべての人の罪を十字架として背負われ、あえぎながら歩みを進める主イエスのその傍らに立ちながら、他者の罪を裁こうとする自分の姿を想像するとき、自らの傲慢さに恥ずかしくなります。
主の背負う十字架に、さらなる重さを加えているのは、傍らで傲慢な生き方をする私たち自身です。私たちにできるのは、苦しみを受け、耐え忍び、黙しながら歩みを続けた神の旅路に心を合わせ、すべてを包み込むその愛と赦しと慈しみに感謝し、苦しみの先にある復活の栄光を信じながら、主イエスと共に、ひたすら歩み続けることです。同じ思いを持つ信仰の仲間と共に、歩み続けることです。
十字架を背負った苦難の道は、ゴルゴタで終わります。この世での旅路が終わり、復活を通じて新しい命の旅路が始まる転換点は、ゴルゴタです。そこには、私たちの母である聖母マリアがおられました。
受難の朗読は、十字架の傍らに聖母マリアがたたずまれ、御子の苦しみに心を合わせておられたことを、私たちに伝えています。人類の罪を背負い、その購い贖いのために苦しまれる主イエスの傍らに立つ聖母マリアは、キリストと一致した生き方を貫き、十字架を背負いながら他者のために身をささげて黙して歩み続ける模範を、教会に示されています。
教皇パウロ六世は「私は主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」という言葉を生涯にわたって生き抜いた聖母マリアは、「すべてのキリスト者にとって、父である神の御旨に対して従順であるように、との教訓であり、模範」であると指摘しています。(「マリアーリス・クルトゥス」21)
主イエスは十字架上で、「女よ、見なさい。あなたの子です」「見なさい。あなたの母です」(ヨハネ福音書19章26‐27節参照)と聖母マリアと愛する弟子に語りかけることによって、聖母マリアを教会の母と定められました。
聖母マリアは天使ガブリエルのお告げを通して神から選ばれた人生を、謙遜のうちに歩みましたが、このゴルゴタでの転換点を通じて、命を生きる模範を示すために、永遠にその母であるようにと、新しい歩みを始めるように主ご自身から招かれました。聖母マリアは、私たちイエスに従おうとする者の先頭に立つ、命を生きる道の模範です。教会は聖母マリアと共に主の十字架の傍らに立ち、その十字架を受け継ぎ、復活の栄光を目指して歩み続けます。
聖母マリアは、私たち一人ひとりの信仰者にとっての模範でもあります。「お言葉通りにこの身になりますように」と天使に応えた聖母は、すべてを神に委ねる謙遜さの模範を示されました。黙して語らず、他者の罪を背負って十字架の道を歩まれた主の謙遜さを、その苦しみに心を合わせ生き抜いた聖母マリアの謙遜さに倣い、私たちも、神の計画に勇気を持って、そして謙遜に身を委ねる恵みを願いたいと思います。
聖母マリアは、私たち一人ひとりの霊的な母でもあります。真の希望を生み出すために苦しみを耐え忍ばれたイエスに、身も心も合わせて歩みを共にされた聖母に倣い、私たちも、主イエスの苦しみにあずかり、真の栄光と希望への道を切り開いて行きたいと思います。
主の十字架に心を合わせ、主の旅路を共に歩む私たちは、絶望と恐れではなく、希望と喜びを生み出す者であり続けたいと思います。
(菊地功=きくち・いさお=東京大司教、日本カトリック司教協議会会長)
(編集「カトリック・あい」=表記は原則として当用漢字表記に統一させていただきました)