☩「驚きのクリスマスーマリア、ヨセフ、イエス、そして羊飼いに倣おう」

(2018.12.20 「カトリック・あい」)

 教皇フランシスコは19日の一般謁見の際のカテキズムで目前のキリスト降誕を取り上げられ、「数々の驚き」にテーマを絞って次のように語られた。

 (以下・翻訳は「カトリック・あい」Sr.岡立子)

 愛する兄弟姉妹たち あと六日で、「主の降誕」です。クリスマスツリー、飾りつけ、電飾は、あらゆるところで、この年もまたお祝いであることを思い起こしています。宣伝マシンは、互いに驚き合うために、つねに新しいプレゼントを交換するよう招いています。

 でも、私は自問します:これが、神が好む祝いなのだろうか?神は、どのような「降誕祭」を、どのようなプレゼントを、どのようなサプライズ(驚き)を望んでおられるのだろうか?

 歴史の最初の「主の降誕 を見つめてみましょう-神の「好み」を発見するために-。歴史の最初の「主の降誕 は「さまざまなサプライズ(驚き)に満
ちて」いました。それはマリア―彼女はヨセフの婚約者でした―から始まります。天使が来て、彼女の人生を変えます。マリアは、おとめ(処女)のままで、母となるでしょう。

 そのような[神のサプライズ]は、ヨセフへと続きます。彼は、子の父となるよう招かれますーその子を、彼自身が生む(作る)ことなくー。その子は まったくふさわしくないとき、つまり、マリアとヨセフが婚約者であり、律法に従って、まだ一緒に住むことが出来ない時に来ます。

 スキャンダル(不祥事)を前に、その時代の常識は、ヨセフに、マリアとの縁を切り、彼の名(名誉)を守るよう促していました。けれどヨセフは、その権利をもっていたにも関わらず、驚かせます。マリアを傷つけないために、ひそかに彼女と離縁することを考えますーヨセフ自身の名声(評判)を失うことを犠牲にしてー。

 それから、もう一つの驚き。神は夢の中で、ヨセフの計画を変え、マリアを妻として迎え入れるよう求めます。イエスが生まれ、ヨセフが家族のための計画を持っていた時、再び夢の中で、起きて、エジプトに逃れるように言われます。

 要するに、「主の降誕祭」は、予期しない人生の変化をもたらします。そしてもし、私たちが「主の降誕」を生きたいなら(経験したいなら)、私たちの心を、サプライズ(驚き)に-つまり、予期しない人生の変化にー開く準備が出来ていなければなりません。

 けれど、最も大きなサプライズが来たのは、「主の降誕」の夜です。「いと高き方」が小さな赤ちゃんとなります。神の「みことば」が乳飲み子ーそ
れは、文字通り、「話すことが出来ない」という意味ですーとなります。神のみことばが「話すことが出来ない者」となります。

 「救い主」を迎え入れるのに、その時代の権力者も、その土地の偉い人も、使節たちもいない。そこにいたのは単純な(素朴な)羊飼いたちでした。彼らは、夜働いている間に、天使たちによってサプライズを受け、急いで駆け付けました。

 誰がそれを期待したでしょうか?「主の降誕」は、「神の独創性(前代未聞のこと)l’inedito di Dio」を祝うこと、いやむしろ、私たちの理論(ロジッ
ク)や私たちの期待をひっくり返す「前代未聞の神un Dioinedito」を祝うことです。

 「主の降誕を祝うこと」は、ですから、地上で、天のサプライズを迎え入れることです。「天」がその新しさを世界にもたらした時に、「凡慮に(地上のことだけに)」生きることは出来ません。「主の降誕」は新しい時代を始めます-そこでは、人生は計画されるではなく、与えるものとなり、もはや、自分の好みを土台として、自分自身のために生きるのではなく、神のために生きるようになり、また、神とともに生きるようになります。

 なぜなら、「主の降誕」の時から、神は「私たちと共におられる神」、私たちと共に生きる神、私たちと共に歩む神となるからです―。「主の降誕」を生きるとは、主の驚くべき新しさによって、揺り動かされる(動揺される)に任せることです。

 「イエスの降誕」は、暖炉のそばの心地よいぬくもりではなく、歴史を揺する神の身震いを差し出します。「主の降誕」は、へりくだりが高慢に、質素が豊富さに、沈黙が騒ぎに、祈りが「私の時間」に、神が私に勝つ(名誉を挽回する )ことです。

 「主の降誕を祝うこと」は、助けを必要としている私たちのために来たイエスのように、私たちの助けを必要としている人に向かって「降ること」です。それは、マリアのようにすること-神に従順に「信頼すること」-たとえ、神が何をするのか分からなくても。

 「主の降誕を祝うこと」は、ヨセフのようにすること-神が望むことを実現するために立ち上がること。たとえ、それが私たちの計画通りではなくても
。ヨセフは、驚くべき人です-福音の中で、彼はひと言も話しません、福音の中に、ヨセフの言葉は一つもありません、主はヨセフに沈黙の中で語られます。まさに夢の中で語ります。

 「主の降誕」は、神の沈黙の声を好むことです。消費主義にまみれた「騒音」よりも。もしも私たちが、馬小屋(プレゼピオ)の前で静かに留まることを知るなら、「主の降誕」は、私たちにとっても、サプライズ、見たことのないものになるでしょう。

 馬小屋の前で静かに留まること。これが「主の降誕」のための招きです。ちょっとの時間を取ってください、そして馬小屋の前に行き、沈黙の中で留まってください。そうすれば、感じるでしょう、見るでしょう、サプライズを。

 ただし、残念ながら、降誕祭を間違って祝うこと、「天」の新しいことより、地上のいつものことを好むこともあり得ます。もし「主の降誕」が、単
に「単なる伝統的な素晴らしい祝い」に留まるなら、その中心に「主」ではなく「私たち」がいることになります。それは「失われた機会」となるでしょう。

 お願いです、「主の降誕」を「この世的に」しないようにしましょう!

 「祝われる方」を片隅に置かないようにしました。当時のように、「言(ことば)は自分のところに来たが、民は言を受け入れなかった」(ヨハネ福音書1章 11節=聖書協会共同訳)時のように。

 待降節の最初の福音から、主は私たちに、警戒させます。私たちが、「浪費」や「世の煩い」(ルカ福音書21章 34節)に塞ぎ込まないように、と求めながら。

 この期間、人は走ります。もしかしたら一年のうちで最も激しく。けれど、このようにして、イエスが望むことの反対となります。私たちは、一日が満載している沢山のことに、目まぐるしい世の中に、責任を転換します。しかし、イエスは、世に罪を着せませんでした。イエスは私たちに、物事に引きずられないようにと祈りながら、いつも目を覚ましているように求めました(36節参照)。

 これがまさに、「主の降誕」です。もし私たちが、ヨセフのように沈黙に空間を与えるなら、マリアのように神に「私はここにいます」と言うなら、イエスのように孤独な人のそばにいるなら、羊飼いたちのようにイエスと共にいるために、自分の囲いから出るなら…。それが「主の降誕」です。

 もしも、ベツレヘムの貧しい洞窟の中に光を見出すなら、私たちがこの世のぴかぴか光る輝きを探し求めるなら、私たちが贈り物、昼食、夕食で一杯になりながら少なくとも人の貧しい人(その人は、神に似ています。「降誕」で、神は貧しくなったからです)を助けないなら、それは「降誕祭ではない」のです。

 愛する兄弟姉妹たち、よい降誕祭を迎えてください!イエスのサプライズで満ちた降誕祭!それは、快適ではないサプライズに見えるかもしれません、でもそれが神の好みなのです。もし私たちが、そのサプライズを私たちのものとするなら、私たち自身が素晴らしいサプライズになるでしょう。私たちの誰もが、心の中で、驚く能力を隠し持っています。この降誕祭、イエスから驚かされるにまかせましょう。
***

(最後に)
主イエスの降誕が近づいています。わたしたちが今年も、主の降誕の聖なる夜に祝うこの祭日が、私たちの中に、神の、全人類へのやさしさを呼び起
こしますように。神は、イエスの中に、何の条件(制限)も無しに、私たちの人性をまとうことを厭われませんでした。マリアとヨセフに、私たちを委ねましょう。彼らが私たちに、このように大きな賜物を受け入れることを教えてくださいますように。インマヌエル、私たちと共におられる神。

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2018年12月20日