♰「救いの道は皆に開かれている、だが、過酷であり、歩む努力が要る」

 VATICAN-POPE-ANGELUSPope Francis smiles and waves to the faithful during his weekly Angelus address 

 

(2019.8.25 VaticanNews  Christopher Wells)

 教皇フランシスコは25日の日曜正午の祈り前の説教で、この日のミサで読まれたルカ福音書の箇所を観想された。

 この中で、イエスはエルサレムに向かう途中で、ある人に「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」(13章23節)という問いかけを受ける。だが、イエスはこの問いかけに直接答えることはせず、救われる人の数の多い少ないではなく、主は「(注:一人一人が果たした)責任の度合いに応じて(注:救われるか否かの)答えをお出しになり、与えられた今を上手に使うように促されます」と教皇は語られた。

 そして、イエスは皆に「狭い戸口から入るように」(同24節)と促され、問題は人数ではなく、「皆に対して開かれている正しい道を通るかどうか」だということを示されたのであり、「イエスは、広い戸口につながる素晴らしい大通りを約束して、私たちを騙すようなことをお望みではありません… ですから、救いを得るための道は狭い、と言われるのです」とされた。その道を歩むには、神を愛し、隣人を愛さねばならず、「快適なものではない」。過酷であり、私たちに努力を要求する-それは、福音に従って生きるという覚悟と忍耐を意味します」と述べられた。

 さらに教皇は、13章25節から始まるたとえ話を取り上げられた。この箇所で、家の主人は戸を閉め、鍵をかけてしまう。「主は、私たちが持っている”肩書”で判断するようなことはなさらず、『実際の行いによってもたらされた謙虚な、良い人生、信仰にあふれた人生を送ったかどうか』だけで判断されるのです」と強調された。

 続けて教皇は「キリスト教徒にとって、それは『イエスとの真の交わりを回復するように、祈り、教会に行き、秘跡に与り、主の御言葉で自らを養うように、求められている』ことを意味します。信仰のうちに希望を育て、慈しみを蘇るさせることです」。そのようにして、「神の恩寵を受けて、私たちはあらゆる形の悪と不正と戦い、兄弟姉妹のために私たちの人生を過ごすことが可能であり、そうせねばなりません」と訴えられた。

 そして、最後に教皇はイエスである狭い戸口を既にくぐられた聖母マリアを示され、「天国の門として、聖母マリアを思い起こしましょう… その門はまさにイエスの御姿に倣うもの、神の御心の門、困難だが、全ての人に開かれている門なのです」と締めくくられた。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

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2019年8月25日