♰「キリスト教徒の生活は、”見かけ”ではなく、具体的な行動で成り立つ」26主日正午の祈りで

(2020.9.27 Vatican News )

 教皇フランシスコは27日、年間第26主日の正午の祈りの説教で、キリスト教徒の生活は「夢や美しいあこがれではなく、具体的な行動-神のご意思に心を開き、兄弟姉妹を限りなく愛することで成り立つ」と説かれた。

 教皇はこの日の説教の題材として、ミサで読まれたマタイ福音書の「二人の息子のたとえ」(21章28~32節)を取り上げられた。この箇所では、ぶどう園の所有者が二人の息子に園に行って働くように言う。2人のうちの兄は「いやです」と答えたが、考え直して園に出かけた。弟は、「はい」と答えたものの、出かけなかった。

 「『従順』は『はい』とか『いいえ』で成立するものではなく、実際に”ぶどう園”に出かけ、”ぶどうの木の手入れをする”こと-神の国をもたらすことです」と教皇は言われた。

 

*キリスト教は「見かけ」ではない

  教皇は、このたとえ話は「主が私たちに『人々の生活や態度に影響を与えない外見的で習性的な慣行から成り立つ宗教を超えて行くように』と求めておられることを教えています」とされた。

 さらに、イエスが不可とする「信心深さの『見かけ』の信奉者」は「祭司長たちや民の長老」であり、イエスは、神の王国では「徴税人と売春婦」が、彼らよりも上位に就く、としておられるが、それはイエスが、徴税人ー罪人ーと売春婦を人生の模範だ、と言いたのではなく、「神に心を開き、回心するなら、誰にでも『恵みの特権』が与えられるのだ、と教えている」と説かれ、「徴税人や売春婦たちは実際に、イエスの説教を聞いて、回心し、人生を変えたのです」とされた。

 

*神は忍耐強い

 また教皇は、神は私たちが回心するのを、忍耐強く待っておられることを強調され、「神は疲れず、私たちが『いいえ』と答えた後も、あきらめません。私たちが自分の意思で、ご自身から離れ、間違いを犯す間も、私たちが『はい』と答えるのをじっと待ておられ、その時には父としてご自分の腕の中で私たちを喜んで迎え、限りない慈しみで満たしてくれます」と語られた。

 そして、神への信仰は、悪よりも善の選択、嘘ではなく真実の選択、利己主義よりも隣人への愛の選択を、日々新たにすること」を私たちに求めており、それに倣う人は、天国で場所を見つける最初の人となるだろう、とし、ルカ福音書の14章7節ー「一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にある」を引用された。

 

*回心の恵み

 教皇は、回心は「道徳の”かさぶた”」を(注:取り去り)清くする、痛みを伴う、放棄と犠牲が求められる道を選ぶことであり、今日のミサで読まれたマタイ福音書の二人の息子のたとえ話は、キリスト教徒としての生き方-具体的な行動と責務、そして他の人々への愛による生き方-をしているか、と私たちに問いかけている、と説かれた。

 最後に、「私たちの硬い心を溶かし、回心に向けさせ、イエスが約束された命と救いを得られるようにしてくださる聖霊の働き」に、私たちが素直に従うことができるように、聖母マリアに助けを願われた。

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

このエントリーをはてなブックマークに追加
2020年9月27日