♰「すべてのキリスト教徒はイエスに倣い、神と隣人に奉仕するように呼ばれている」教皇、第22主日正午の祈りで

Pope Francis speaks during Angelus from the window at St Peter’s Square, at the Vatican  (Vatican Media)

(2020.830 Vatican News)

   教皇フランシスコは30日、年間第22主日の正午の祈りでの説教で、この日のミサで読まれた福音(マタイ16章21~27節)を取り上げられ、「十字架を負う」(24節参照)という言葉は、「私たちの命を神と隣人への奉仕に費やすことでイエスに倣う」ことを意味する、と説かれた。

Pope Francis speaks during Angelus from the window at St Peter's Square, at the Vatican

 この福音書の箇所では、イエスはご自身の受難、死、そして復活の神秘について、弟子たちに教えておられる。だが、「弟子たちはまだ、それを理解できません。なぜなら、彼らの信仰は未熟で、この世の理解の仕方にとらわれ過ぎているからです」とされた。

 そして、「ペトロと他の弟子たちにとって、そして私たちにとって、十字架は”つまずきの石”と見なされるのに対して、イエスは、その”つまずきの石”は十字架を免れようとするもの、つまり、父のご意思に沿おうとしないことを意味する、と考えておられるのです。それで、イエスは、ペトロを『サタン、引き下がれ』と強く叱責されたのです」と語られた。

 *イエスの真の弟子になる

 続いて、イエスは、「私に付いて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」(24節)と弟子たちに言われるが、教皇は、この場面でイエスは「真の弟子のとるべき道ー二つの対応-を示されます。まず、自分自身を捨てることーこれは実際に回心することを意味します。そして、自分の十字架を負うことー日々の苦しみを辛抱強く耐えるだけでなく、信仰と責任を持って、悪との戦いを伴う労苦と痛みを担うことを意味するのです」と説かれた。

*この世の救いに参加する

 そして、この二つの対応のうち、後者について教皇は「『十字架を負う』という骨の折れる仕事によって、この世の救いに、イエスと共に参加するようになる… 十字架は、『兄弟姉妹、特に最も小さな人々、最も弱い人々への愛の奉仕を通して、キリストと結びつきたい』という私たちの熱望のしるしです」と言われ、さらに、「十字架は、神の愛とイエスの犠牲の聖なるしるし。迷信のお守りや飾りのネックレスにするべきものではありません」と指摘された。

 また、「私たちが十字架を見る時、このような事実を思い起こす必要があります。それは、イエスが、命を捧げ、罪の赦しのために血を流されることで、ご自分の使命を果たされたのだ、ということ。イエスの弟子になるために、私たちは、イエスに倣い、神と隣人への愛のために、自分の命を惜しみなく費やさねばなりません」と強調された。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=引用された聖書の日本語訳は、「聖書協会 共同訳」による)

 

 

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2020年8月30日