☩教皇の降誕祭深夜ミサ「イエスは、小ささが偉大さとなる道を教えておられる」

(2021.12.24  Vatican News staff writer)

 教皇フランシスコは現地時間24日夜(日本時間25日未明)から、バチカンの聖パウロ大聖堂で主のキリスト降誕を記念する深夜ミサを奉げられた。

 新型コロナウイルスの感染が欧州で再び拡大している中で、参加者を限定するなど安全対策が講じられたミサとなったが、教皇はミサ中の説教で、「神が、私たちの心に触れるために、私たちの側に来られるために、幼子として、小さな姿で、世界においでになった」ことを振り返られた。

(2021.12.24 バチカン放送)

 教皇フランシスコの2021年度降誕祭深夜ミサでの説教は次のとおり。

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 親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 夜に一つの光が輝き出ます。天使が現れ、主の栄光が羊飼いたちを包み、世紀にわたり期待されていた知らせがついに届きます。「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」 (ルカ福音書2章11節)。

*産着にくるまった乳飲み子

  しかし、そこで天使は驚くべき言葉を続けます。天使は羊飼いたちに、地上に降り立った神をどのように見分けるかを教えました。「あなたがたは、産着にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つける。これがあなたがたへのしるしである」(同12)節)。

 一人の幼子ーこれがしるしです。これがすべてです。何もない貧しい飼い葉桶に横たわる幼子。そこにはもう輝かしい光も天使の合唱もありません。ただ幼子がいるだけです。イザヤが預言した「私たちのために生まれた一人のみどりご」(イザヤ書9章5節参照)以外には、何もありません。

 福音書はこの対比を強調します。福音書は、イエスの降誕を、ローマ皇帝アウグストゥスが命じた住民登録の話から始めています。そこでは最初に皇帝の偉大さが示されます。そして、そのすぐ後に、偉大さからはほど遠い、ベトレヘムの地へと、私たちを導くのです。そこには産着にくるまって横たわる一人の幼子と、まわりに羊飼いたちがいるだけです。その小ささの中に神がおられます。

*神の偉大さは、小ささの中に現れる

 神は偉大さの中ではなく、小ささの中に降りて来られましたーそれがメッセージです。小ささーこれこそ、神が私たちのもとにおいでになるため、私たちの心に触れ、私たちを救うために、価値あることをもたらすために、選ばれた道でした。

 兄弟姉妹の皆さん、馬小屋の飼い葉桶の前に留まり、その中心にある方に目を向けましょう。きれいな装飾や電飾の先にある、幼子を見つめましょう。その幼子の小ささの中に、神のすべてがあります。そこに神を認めましょう。「幼子よ、あなたは神です。幼子となられた神です」。

 これは驚嘆すべき出来事です。全世界を支配する方が、抱擁を必要としています。太陽を創造された方が、今、温められることを必要としています。優しさそのものである方が、今、優しさを必要としています。無限の愛である方が、小さな心臓でかすかな鼓動を伝えています。永遠の御言葉そのものである方が、物言えぬ赤子となっています。生命のパンである方が、養われなければなりません。世界の創造主には、住まいがありません。

 今日、すべては逆になります。神はこの世に小さき者としておいでになり、その偉大さを小ささの中に表されます。

*神は優しさに満ちた愛と内面の小ささを求められる

 ここで自分に問いかけましょう。

 私たちは、神が選ばれたこの道を受け入れているでしょうか?これはクリスマスが提起する一つの問いかけです。

 神はご自分を現されますが、人はそれを認めません。神はこの世で、小さき者となられますが、私たちは常に、世俗的な偉大さを追求します。神は身をかがめてくださいますが、私たちはいつも高いところを目指します。いと高き方は、謙遜を教えてくださいますが、私たちはいつも人の前に出ることを求めます。神は羊飼いたちや目立たない人々を探しますが、私たちはいつも目立つものを探しています。イエスは、人に仕えるためにお生まれになりますが、私たちはいつも成功を夢見ています。

 神は権力や強さを求めません。ただ優しさと内的な小ささを願っておられるのです。

 クリスマスを迎えるにあたって、私たちは、イエスに、何を願ったらよいでしょうかーそれは、「小ささ」という恵みです。「主よ、小ささを愛することを教えてください。真の偉大さに達する道を理解させてください」。

 「小ささ」を受け入れるとは、具体的に何を意味するのでしょうか?

 まず、「神は、私たちの生活の小さなことの中においでになる」と信じることです。神は日頃の生活の中に住まわれ、私たちの家庭や学校、仕事の場での日々の出来事の中に、おいでになることを望まれます。神は、私たちの日々の暮らしの中で、偉大なことを実現することを望まれますーこれこそ、大きな希望のメッセージです。

 イエスは、私たちの日常生活の小さなことの中に価値を見つけ、大切にするよう、勧めます。イエスが毎日の小さなことの中に、共にいてくださるなら、これ以上、何が欠けている、と言うのでしょう。私たちの生活で得られようもない”偉大なこと”に対する羨望や不平不満を、捨てましょう。イエスは私たちの生活の小さなことの中にだけではなく、私たち自身の小ささや弱さ、欠点や失敗の中にも、おいでになることを望んでおられます。

*神を信頼し、心を開こう

 兄弟姉妹の皆さん、もし、あのベトレへムのような夜の闇の中にあなたがいるなら、冷たい無関心にとり囲まれているなら、心に傷を負い「自分には何の価値もない。誰も愛してくれない」と叫ぶなら、今晩、神はあなたに、このように答えてくださるでしょう。

 「私はあるがままのあなたを、愛している。あなたの小ささに、私は驚かない。あなたの弱さに、驚きはしない。私はあなたのために、小さくなった。あなたの神となるために、あなたの兄弟となった。愛する兄弟よ、愛する姉妹よ、恐れないように。私を通してあなたの偉大さを取り戻しなさい。私は、いつもあなたのすぐそばにいる。私があなたに願うのはこれだけだ-私に信頼し、心を開きなさい」。

 小ささを受け入れるとは、別のことをも意味します。今日の小さき人々の中にイエスを抱擁することです。「貧しい人々の中にイエスを愛する」とは、すなわちこれらの人々に奉仕することを意味します。まさに、彼らこそがイエスの誉れなのです。

 この愛に満ちた夜、私たちのただ一つの心配は、神の愛を傷つけることです。無関心によって貧しい人々を軽んじ、神を悲しませることです。貧しい人々はイエスが特に心にかける人たちです。私たちはそれを天国で知ることになるでしょう。

 ある詩人はこう書いています。「天国をこの世で見つけなかった人は、あの世でも見つけることはない」(エミリー・ディキンソンPoems, P96-17=米国の詩人。19世紀の世界文学史上の天才詩人と言われる)。天国を見失わないようにしましょう。貧しい人々の中で、イエスをお世話しましょう。なぜならイエスは彼らの中におられるからです。

*すべては、イエスを中心に結束する

 では、もう一度、馬小屋の飼い葉桶を見つめましょう。そこには、お生まれになったばかりのイエスが、小さき人々、貧しい人々に囲まれています。彼らは誰でしょうか。羊飼いたちです。最も素朴で、最も主の近くにいる人たちです。

 彼らが幼子を見つけたのは、「野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた」(ルカ福音書2章8節)からでした。羊飼いたちは、そこで仕事をしていました。彼らは貧しく、規則的ではない、羊に合わせた生活をしていました。望む場所で望むように生きるのではなく、世話をする羊の必要に従って暮らしていたのです。

 イエスは羊飼いたちの近く、社会の片隅の、忘れられた人たちのそばにお生まれになりました。イエスは人間の尊厳が試練に置かれた場所に生まれました。イエスは疎外された人々を尊厳ある者とするために、そして、特にこれらの人々に、ご自分を啓示されるために来られました。教養や地位のある人々ではなく、貧しく働く人々のところに来られたのです。

 この夜、神は、辛い労働を尊厳であふれさせるために来られます。そして、それは人間に尊厳を与えるために、仕事がいかに大切であるかを、また同時に、人間の仕事に尊厳を与えることの大切さをも、思い出させてくれます。人間は仕事の主であって、仕事の奴隷ではありません。この生命の日に言いましょう、「仕事上の死を繰り返してはならない」と。そのために私たちは努力しなければなりません。

 さあ、再び馬小屋の飼い葉桶に目を注ぎましょう。主を礼拝するために巡礼を続ける東方の三博士たちが見える、遠くにも視野を広げましょう。イエスのまわりにいる人々の群れに目を凝らしましょう。そこには、貧しい羊飼いたちだけでなく、学識のある、豊かな人々、博士たちもいます。

 ベツレヘムでは、貧しい人も、豊かな人も、一緒にいます。そこには、東方三博士のように礼拝する人もいれば、羊飼いのように働く人もいます。そして、皆がイエスを中心に一群をなしています。彼らの中心にあるのは、「イエスについての考え」ではなく、「生きたイエス」です。

*私たちの源、ベツレヘムに戻ろう

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん、ベツレヘムへ戻りましょう。私たちの根源に戻りましょう。信仰の本質、最初の愛、礼拝、そして慈愛へと戻りましょう。東方三博士たちの巡礼する姿を見つめましょう。「共に歩む教会」として、ベツレヘムへ歩みましょう。

 そこには、人の中に神がおられ、神の中に人がいます。そこには、主が中心におられ、礼拝を受けられます。貧しい人が、主の最も近い場所を占めています。羊飼いたちと博士たちが、あらゆる差別を超えて兄弟愛のうちに共にいます。神は私たちに「礼拝する、貧しい、兄弟的な教会」であることを可能にしてくださいます。さあ、ベツレヘムへ戻りましょう。

 主の降誕の福音に忠実に、そこに行くことは、ためになることです。そこには聖家族、羊飼い、東方の博士たち、歩むすべての人たちがいます。兄弟姉妹の皆さん、さあ歩き出しましょう。なぜなら人生は巡礼だからです。起き上がり、目を覚ましましょう。この夜、一つの光が灯されたからです。

 その優しい光は、私たちの「小ささ」において、私たちが「愛された子」「光の子」であることを思い出させます(テサロニケの信徒への手紙1・5章5節参照)。共に喜びましょう。誰もこの光を決してかき消すことはできません。それはイエスの光、この夜から世界に輝く光です。

 (編集「カトリック・あい」南條俊二=引用された聖書の日本語訳は「聖書協会・共同訳」による)

 Christmas Mass during the Night in St. Peter's Basilica

Christmas Mass during the Night in St. Peter's Basilica

 

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2021年12月25日