☩「私たちは皆、同じキリストの体の一部だ」教会一致祈祷週間の終わりの晩課で

 

*善を行い、公正を追い求める

 教皇は、「善を行い、公正を追い求めよ」(イザヤ書1章17節)という今回のキリスト教一致祈祷週間のテーマに改めて注目され、「 神は私たちに、悪を放棄するように忠告し、変わるよう促しています。『忠告』と『変更』は、今晩、あなたがたと共に考えたい2つの言葉です」と述べられた。

 預言者イザヤが語った、この主の言葉からヒントを得て、教皇は「主は、お香や供え物を望んでおられるのではなく、貧しい人々が援助を受け、孤児に正義が与えられ、やもめの大義が支持されることを望んでおられます」とされたうえで、「神は、ご自身が最も気にかけている人たちへの、私たちの無関心と理解の欠如を悲しんでおられます」と指摘。

 さらに、「至高者を怒らせる第二の、より深刻な原因があります。それは冒涜的な暴力です」とされ、「キリスト教徒を自称する人々による戦争や暴力行為を、主が目撃しなければならない苦しみを想像できます」と語られ、このイザヤ書にある主の言葉は「キリスト教徒である私たちに多くの思考の糧を与えてくれます」と語られた。

 

*弁解の余地はない

 また教皇は「私たちの進化した霊性と神学をもって、改めて申し上げたいのは、『弁解の余地がない』ということです。にもかかわらず、さまざまな狭量で暴力的なナショナリズム、外国人排斥や軽蔑、さらには異なる人々への虐待さえも支持することを、信仰によって奨励されている、あるいは許されている、と感じているように見える人々がいます」とし、「このような傾向に直面しても、批判的な感覚を持ち続け、即座に反応するように、信仰によって促される必要があります」と述べられた。

*神が共におられればすべてが可能

 続けて教皇は「主は、私たちの過ちを診断した後で、それを正すよう求められます… 神と自分の中に潜む暴力を理解できないために、私たちは自分自身を自由にすることができません。神なしには、神の恵みなしには、私たちは自分の罪を癒すことができません」とされたうえで、「神の恵みが私たちの変化の源です(…)。 自分だけでは成功できないが、神が共におられれば、可能です」と強調。

 そして、「回心がどれほど共同体的で教会的であるか」を思い起こされ、「すべてのキリスト教徒が共に、視点を変えることに心を開くように」、そして「世界中のすべての信者が聖霊によって互いに交わり合っており、聖ヨハネ・クリソストム(3世紀から4世紀初めにかけて生きたコンスタンチノーブル司教)が書いているように『ローマに住む者は、インドに住む者が同じ体の一部であることを知っている』ことを再発見するように」と願われた。

 最後に、教皇は、今回のこの交わりの旅に感謝され、またカトリック教会のシノドスの旅に多くのキリスト教徒が関心を持ち、参加してくれていることに感謝を述べられた。そして、「キリストが望まれる完全な一致に向けて、祈り、奉仕、対話、協力を通じて成長し続けるように」と参加者に呼びかけ、晩課に参加したすべてのキリスト教共同体に感謝の意を表されたー「主が私たちの前に置かれた道、一致の道を共に歩もう」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

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2023年1月26日