☩「歩き始めの幼い頃のように、神に手を取っていただこう」四旬節第五主日の正午の祈りで

 

*希望が無くなったと思われる時でさえ、イエスは命を与えてくださる

 そして、教皇は、「絶望を感じたり、希望をあきらめた人々に会ったりすることが、頻繁にあります。それは、喪失の悲しみ、病気、失望の辛さ、過ちや裏切り、重大な過ちによって、もたらされるものです。 このようなとき、人生が”閉ざされた墓”のように思われ、すべてが暗く、周りには悲しみと絶望しか見えないことが多い」と指摘。

 しかし、「イエスは今日の福音で語られているように、そうではありません。イエスは、『このような困難にあるときも、あなたがたは一人ではない』と言われるのです。私たちを生き返らせるために、神がこれまで以上に私たちのそばに来てくださるのは、まさにこのときなのです」と強調された。

 

*負の感情に押しつぶされないように

 さらに、教皇は、「”負の感情”に打ちひしがれることがないように。福音を信じ、希望を持ち続けるように、イエスは私たちを招いておられます」とされ、「イエスは私たちに、『痛み、過ち、さらには失敗に押しつぶされないように』、そして『暗く、孤独な、閉じられた墓に、それらを押し込めてはなりません。(墓を閉じている)石を取り除いてください。中にあるものをすべて取り出し、恐れずに自信を持って私に投げてください。私はあなたと一緒にいます。私はあなたを愛し、あなたに再び生きてもらいたいからです』と呼びかけておられます」と説かれた。

 そして、「ラザロに対して言われたように、イエスは私たち一人一人に、『起きて、道に戻り、自信を取り戻しなさい! あなたが第一歩を踏み出すのを学んだ幼子だった時のように、私はあなたの手を取ってあげましょう』と言ってくださるのです」と付け加えられた。

 

 

*感覚を失うような悲観や恐怖に屈しないで

  続けて教皇は、「あなたがたを縛っている包帯を外してください。人を憂鬱にさせる悲観、孤独にさせる恐怖、悪い経験の記憶で引き起こされる落胆に、屈してはなりません。あなたに、自由で生き生きとしていてもらいたい。私はあなたを見捨てません、そして、あなたと一緒にいます! 痛みに囚われず、希望を絶やさず、生き返りましょう!」と信徒たちに呼び掛け、「復活祭を前にした今、ヨハネ福音書の11章(ラザロの死と生き返り)を読み直すことは、私たちにとって良いことです」と勧められた。

 

 

*イエスに心を開き、身を委ねよう

 また、教皇は、私たちが心に重荷や苦しみを抱え、押しつぶされるように思うことが少なくないことを認めつつ、「 だからこそ、近くにおられるイエスに会いに行くように」と促され、「私たちはイエスに心を開き、私たちの悩みを委ねることができるでしょうか?  悩みをしまい込んだ墓を開き、表のイエスの光に目を向けるために?」「そして、神の愛の小さな鏡として、日々の暮らしで言葉と振る舞いをもって周りの社会を照らすことに努めていますか?」と、自分自身に問いかけるように勧められた。

 そして、「希望の母マリア、孤独を感じない喜びと、私たちの周りの闇に光をもたらすようにという呼びかけを、私たちに新たにしてくださいますように」と祈られ、説教を締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

このエントリーをはてなブックマークに追加
2023年3月26日