☩「ナザレの会堂に人々のように、私たちもイエスを見つめよう」ー教皇の「神のことばの主日」ミサ説教

(2022.1.23 カトリック・あい)

 教皇フランシスコは23日午前、バチカンの聖ペトロ大聖堂で「神の言葉の主日」のミサを奉げられ、ミサ中の説教で次のように語られた。バチカン広報発表の全文は以下の通り。

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*旧約のネヘミヤ記とルカ福音書の朗読箇所の中心に御言葉がある

 今日のミサの第一朗読(旧約聖書ネヘミヤ記8章2-4a節、5-6節、8-10節)と福音朗読(ルカ福音書1章1‐4節、4章14‐21節)には、2つの並行した動作があります。

 祭司エズラは神の律法の本を高く上げ、開き、すべての人々の前でそれを宣言します。ナザレの会堂にいるイエスも、聖典の巻物を開き、すべての人の前で預言者イザヤからの一節を読みます。これは、私たちに基本的な現実を伝える2つの場面です。神の聖なる人々の生活の中心で、そして私たちの信仰の旅の中心で、私たちの言葉で。その中心にあるのは神の御言葉です。

 それはすべて、神が私たちに向けられた御言葉から始まりました。キリストにおいて、永遠の言葉である父は「天地創造の前に、私たちをお選びになった」(エフェソの信徒への手紙1章4節)。主の言葉で宇宙は創造されましたー「主が語ると、そのように成り、主が命じると、そのように立った」(詩編33章9節)。

 古代から、主は預言者を通して私たちに話しかけてきました(ヘブライ人への手紙1章1節参照)。最後に、時が満ちると(ガラテヤの信徒への手紙4章4節参照)、私たちにご自身の言葉ー独り子ーを送ってくださいました。

 そして、イエスはイザヤ書を読まれた後、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ福音書4章21節)という前代未聞の宣言をなさいました。現実となりました。神の言葉はもはや約束ではありません。現実のものとなったのです。イエスにおいて、言葉は肉体となり、聖霊の働きによって、私たちの間に来られ、私たちの期待を満たし、私たちの傷を癒すために、私たちの中に住みたいと願われています。

 兄弟姉妹の皆さん。ナザレの会堂の人々のように、私たちもイエスをじっと見つめましょう(ルカ福音書4章20節参照)ー会堂にいた人々はイエスを見つめました。イエスは彼らナザレの民の一人でした。彼らはイエスを褒め、その口から出て来る恵みの言葉に驚きました。そして私たちも、イエスの言葉を歓迎します。

*御言葉は、私たちに神を啓示する

 互いに関連している二つの側面について黙想しましょう。御言葉は私たちの中心にあり、神を明らかにし、私たちを導きます。

 まず第一に、御言葉は神を啓示します。イエスは福音宣教の初めに、預言者イザヤの書の特定の箇所を朗読され、聖書の言葉が実現したことを宣言されます。イエスは、貧しい人に福音を告げ、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、打ちひしがれている人を自由にするために、地上に来られました(ルカ福音書4章18節参照)。このように聖書を通して、イエスは、私たちの運命を心に留めておられる方としての神の顔を、啓示にしてくださるのです。

 主は”天国に腰掛けた主人”ではありません。そうではありません。私たちの足跡をたどる父です。冷たく、超然とした、冷静な観察者ではないし、”数学的”な神でもありません。私たちの人生に情熱を傾け、涙を流しているところまで関わってくださるのは、私たちと共におられる神です。私たちの周りで起きることに中立だったり、無関心だったりせず、私たちを守り、助言し、私たちの側に立ち、関わり、私たちの痛みを受け入れる、愛情深い存在。常に側におられます。

*私たちのそばにおられる神

 これが、イエスがすべての人の前で宣言された「福音」(14章8節)なのです。神は近くにいて、私、あなた、そして、すべての人の世話をしたい、と望んでおられます。これが神の特徴です。親密さです。神はご自身をこのように定義していますー主は、私たちがいつ呼びかけても近くにいる。このような神を持つ大いなる国民が、果たしてほかにいるだろうか」 (申命記4章7節参照)。

 近くにおられる神は、思いやりと優しい親密さで、押しつぶされるな重荷からあなたを解放し、冬の寒さにこごえるあなたを暖め、暗い日々を過ごすあなたを照らし、おばつかない足取りのあなたを支えようとしてくださいます。そして神はご自身の言葉でそうなさいます、言葉で、あなたの恐れの灰の中に希望を再び燃え立たせ、あなたの悲しみの迷宮に喜びを再発見させ、孤独に苦しむあなたを希望で満たすように、あなたに話しかけられます。あなたを歩ませますが、迷路の中ではありません。あなたを道に沿って歩ませ、日々、新たな展望が開けるようにしてくださいます。

*私たちが、神に対して持つイメージは?

 兄弟姉妹の皆さん。私たち自身に問いかけましょう。私たちは心の中に「解放された神」「近くにいる神」「思いやりのある神」「優しい神」のイメージを持っていますか? それとも、「厳格な裁判官」「厳格な税務署員」と見なしますか? 私たちの信仰は希望と喜びを生み出していますか?それとも、恐れを抱き続け、恐ろしい信仰によって心を重くされているでしょうか?教会で私たちは神のどの顔を宣言しますか? 私たちを解放し、癒す救い主?それとも罪悪感で打ち砕く恐ろしい神?

 真の神へ心を向けるために、イエスは、私たちにどこから始めるべきかを示してくださいます。御言葉で、神の私たちへの愛の物語を語ることで。私たちを神に対する恐れや先入観から解放し、信仰の喜びをもたらします。御言葉は、偽りの偶像を打ち砕き、私たちの影を覆い隠し、人間的すぎる神の姿を破壊し、神の本当の顔、憐れみに、私たちを引き戻します。神の言葉は信仰を養い、新たにします。御言葉を祈りと霊的生活の中心に戻しましょう!中心に、神様がそのような存在か教えてくれる御言葉。私たちを神様に近づける御言葉を。

*御言葉は、私たちを人に導く

 そして、御言葉の第二の側面。御言葉は私たちを人に導きます。私たちを神に導き、人に導きます。神が思いやりのある愛であることを発見したとき、私たちは偶像崇拝の宗教に身を寄せる誘惑に打ち勝ちます。隠された偶像崇拝、洗練された偶像崇拝もありますが、偶像崇拝です。御言葉は、人々を解放する神の愛の穏やかな力で、兄弟姉妹に会うために私たちの背中を押します。

 ナザレの会堂で、イエスはこのことを私たちに明らかにされます。そして私たち、人々を解放します。イエスは、規範のリストを提供したり、宗教的な儀式を行ったりするためではなく、傷ついた人類に会い、苦しみで歪んだ顔を愛撫し、壊れた心を癒し、軛から私たちを解放するために、この世の街頭に立たれました。私たちの持ち物ー魂―を捕まえ、私たちに、どのように讃えることを神がいちばんお喜びになるのかーそれは、隣人をいたわることーを啓示されます。

 そして、私たちは、そこに戻らなねばなりません。教会には“(硬直的な)厳格”さへの誘惑があり、神の啓示を受けるということは、より厳格に、より多くの規範を忠実に守ることだ、と信じられています…いいえ、そうではありません。厳格さの主張に出会うとき、私は直感しますーこれは偶像であり、神ではない。私たちの神はそのような方ではない、と。

*私たちを変える御言葉、硬直的な厳格さの誘惑

 兄弟姉妹の皆さん。神の言葉は、私たちを変えますが、”厳格”さは私たちを変えません。私たちを隠蔽します。神の言葉は剣よりも鋭く、魂を刺し通すことで、私たちを変えます(ヘブライ人への手紙4:章12節参照)。神は、一方で、私たちを慰められ、御顔を私たちに明らかにされ、他方で、私たちを刺激し、揺さぶり、私たちを矛盾に引き戻されます。私たちを危機に陥れます。静けさの代償を払うのが、不公正と飢餓によって引き裂かれた人々であり、代償を払うのは常に最も弱い人々であるなら、私たちを落ち着かせません。最も弱い人が、常に代償を支払わされます。

 御言葉は、うまくいかないことを他人や自分が置かれた環境のせいにする私たちの”自己正当化”に、異議を唱えます。兄弟姉妹が、誰も上陸させてくれないために、海でに命を落とすのを見で、どれだけ痛みを感じるでしょう! そして、(注:彼らを自国の領土に入れないことを)神の名において行う人もいます。神の言葉は、明るみに出るように、問題の複雑さの裏に隠れないように、私たちを促します。「何もできることはない」「それは他の人の問題だ」「彼らのことは放っておけ」というような言い訳をしないように、と。

 神の言葉は、行動するように、神を信仰することと人へのいたわりを結びつけるように、と強く私たちに促します。聖書は、私たちが楽しむためや天使のような霊性で甘やかされるために与えられたのではありません。表に出て、他の人々と出会い、彼らの傷に接するために与えられているのです。

 硬直的な厳格さー教会が陥りやすい誘惑の一つである現代のペラギウス主義*について話したことがあります。

注*4世紀中ごろにブリタニアに生まれ、修道士となったペラギウスの説とされるもの。当時のキリスト教徒の退廃的風潮を批判し、厳格な道徳的宗教性を求めたペラギウスは、また、人間には現在無しで存在できる可能性が、神の恩恵として与えられている、と主張。418年のカルタゴ教会会議で異端として破門された(「カトリック・あい」)。

 そして、もう一つの他の誘惑は、天使のような霊性を求めることー人を”軌道”に乗せ、現実に触れさせないようにする”神の言葉”を提唱するグノーシス的な運動、グノーシス主義です。肉となった御言葉(ヨハネ福音書1章14節参照)は、私たちの中で肉になることをお望みです。私たちを人生から切り離すのではなく、人生に、日々の暮らしの真っただ中にいて、兄弟姉妹の苦しみ、貧しい人々の叫びに耳を傾け、社会と地球を傷つける暴力と不公正に直面することを望んでいます。御言葉は、私たちがキリスト教徒として、周囲の人や状況に無関心でいないように、行動的で、創造的で、預言的なキリスト教徒になることを希望しているのです。

*御言葉は、私たちが生きている今、「肉」となることを望まれる

 「今日」イエスは言われますー「この聖書の言葉は、実現した」(ルカ福音書4章21節参照)-御言葉は、理想的な未来ではなく、私たちが生きているこの時、今日、肉体となることを望んでいます。

 パリの郊外で福音を生きることを選んだ20世紀のフランスの神秘主義者はこのように書いています。「神の言葉は”死んだ手紙”ではなく、霊と命… 主の言葉が私たちに求めているのは、私たちの”今”ー私たちの日々の暮らしと私たちの隣人の渇望」(マドレーヌ・デルブレル**「 La joie de croire(信じる喜び)」)。

注**Madeleine Delbrêl、1904年10月24日1964年10月13日フランスの社会運動家

 では、私たち自身に問いかけましょう。私たちは、イエスに倣い、他の人のために解放と慰めの教役者になり、御言葉を実行したいと思っているか?私たちの教会は御言葉に従順な教会になっているか?教会は、他の人の言葉に積極的に耳を傾け、兄弟姉妹を抑圧から解放し、恐れの結び目を解き、最も傷つきやすい人々を貧困の牢獄、人生を苦しめる倦怠感、悲しみからに夕にするために手を差し伸べていたか?私たちが望んでいるのは、このことではないのか?

*私たち1人ひとりが、神の言葉の伝道者、預言者

 この神の言葉の主日のミサに参加されている私たちの兄弟姉妹の中に、このミサの中で任命されるカテキスタと朗読奉仕者がおられます。イエスの福音に奉仕し、イエスを宣べ伝え、イエスの慰め、喜び、解放がすべての人に届くようにするという重要な任務に召されています。これは、(彼らだけでなく)私たち一人一人の使命でもありますーそれは、この世において、神の言葉の伝道者、預言者となることです。

 聖なる書に情熱を傾けましょう。神の新しさを明らかにし、私たちが他者を倦むことなく愛するよう導く御言葉に、進んで深く浸りましょう。神の言葉を、教会の生活と司牧活動の中心に置きましょう!そうすることで、私たちはあらゆる硬直的なペラギウス主義から、あらゆる硬直的な厳格さから、解放され、人を”軌道”に乗せる霊性の幻想、私たちの兄弟姉妹への無関心から自由にされます。神の言葉を教会生活と司牧活動の中心に置きましょう。御言葉に耳を傾け、御言葉と共に祈り、御言葉を実践しましょう。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

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2022年1月23日