☩「イエスの愛こそが、私たちを一致させる」‐キリスト教一致祈祷週間の最終日の夕べの祈りで

(2024.1.25 バチカン放送)
 1月18日から行われてきた「キリスト教一致祈祷週間」が25日、「聖パウロの回心」の祝日に最終日を迎え、ローマの「城壁外の聖パウロ大聖堂(サン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ)」で、エキュメニカルな夕べの祈りを捧げられた。

 祈りには、教皇フランシスコはじめ、バチカンのキリスト教一致推進省長官、クルト・コッホ枢機卿らカトリック関係者、英国国教会のジャスティン・ウェルビー・カンタベリー大主教、エキュメニカル総主教庁を代表してポリュカルポス府主教、そしてローマにおける諸キリスト教教会の代表者たちが参加した。

 教皇は説教で、集いの中で朗読された「善いサマリア人」のたとえ話(ルカ福音書10章25-37 節)を取り上げられ、この箇所でイエスを試そうとするある律法の専門家が「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」(ルカ10章25 節)と問う。教皇は、「永遠の命を神の賜物ではなく、当然得るべき所有物のように話すこの律法家」の問い掛けに注目された。

 さらに、イエスが、律法の中にその答えを見つけるよう律法家を促すと、彼は「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また隣人を自分のように愛しなさい」とイエスが語る箇所(ルカ1o章27節)。

 自分を正当化したい彼は、イエスにさらにこう尋ねた。「では、私の隣人とは、誰ですか」(同10章29節)。この問いに対し、イエスは、机上の空論の繰り返しを避け、「善いサマリア人」という具体的なたとえ話をもって答えられた-追いはぎにあい路上に倒れていた瀕死の人に自ら近づき、心を込めて介抱したのは、自分たちの宗教的な慣習の遵守を苦しむ人の救助に優先させた祭司とレビ人ではなく、彼らからは異端と思われていたサマリア人だった-と。

 「善いサマリア人」のたとえ話をされたイエスが投げかけた最終的な問いは、「誰が、追いはぎに襲われた人の隣人になったと思いますか」というものだった。

 教皇は、「隣人とは誰か」ではなく、「誰が隣人になったか」というイエスの言葉に注目され、「『私の隣人とは誰か』ではなく、『私は隣人になっているか』と問うこの愛、イエスが宣べ伝え、人々に自ら仕えることで実践されたこの愛こそが、離れ離れになったキリスト者たちを近づける」と強調。

 そして、「このイエスの愛こそが、互いに距離を置いた過去に戻らせることなく、また自分の宗教的システムを守ることを兄弟愛に優先させることなく、私たちを一致させることができるでしょう」と説かれた。

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2024年1月26日