◎教皇連続講話「祈りについて」⑯典礼と祈りは私たちをキリストに結び付ける

(2021.2.3 Vatican News  Devin Watkins)

 教皇フランシスコは3日、水曜恒例の一般謁見での連続講話「祈りについて」で、どのようにして教会のミサ典礼が私たちの暮らしの中にキリストを存在させるのか、について話された。

 教皇は講話を、「キリスト教の歴史が、典礼の儀式を脇に押しやる動きに満ちてきた」ことに注目することから始められた。この傾向は、役に立たない、あるいは有害な負担、と見なされた外面的な儀式よりも、高い精神性が重要、と考えたことが背景にあるが、「現代の信徒の多くは、毎日曜日にミサにあずかるとともに、さまざまな献身的な活動を通して、精神性を養っています」と述べられた。

 そして、教会は、信仰生活において典礼を中心とすることに、ここ数十年で多くの進歩を遂げた、と指摘。「キリスト教における祈りは、聖典、秘跡、典礼など、具体的な信仰の表現と密接に関連しています… キリスト教徒の生活では、イエス・キリストにおいて、それが救いの道となった。それで、肉体的、物質的な領域が省かれないのかもしれません」と語られた。

 また、教皇は、「典礼は、単なる自発的な祈り以上のもの… それはキリスト教徒の経験全体、ひいては祈りを形作る行為です。それは出来事であり、起こっていることであり、存在であり、キリストとの出会いです… イエス・キリストは、秘跡のしるしを通して聖霊の中に存在されます… 『典礼のないキリスト教』は、『キリストのいないキリスト教』なのです」と強調された。

 続けて教皇は「典礼はその性質上、私たちに完全な参加を勧め、私たちはそれを通して神がくださる恵みを受けることができる… キリスト教の祈りの多くは、典礼に由来するものではありませんが、すべての祈りは、典礼-つまりイエス・キリストの秘跡の仲介ーを前提としているのです」とされ、「キリストは秘跡が祝われるたびに現存しておられます」と述べられた。

 そして、「祈りは、私たちがイエスの聖体の現存を自分の中に取り込むことを可能にする… 私たちの外にあるものが、私たちの一部ー食べるという自然な行為で表現される現実ーとなるのです」とされ、「ミサは単に”聴く”ものではありません。私たちは、何の関わりもなく通り抜けるだけの”観客”であってはなりません。ミサはいつも、司式する司祭だけでなく、参加するキリスト教徒全員によって祝われているのです」と語られた。

 講話の最後に教皇は、「キリストが典礼の中心であり、すべてのキリスト教徒が心をこめて典礼の秘跡に参加するように招かれている」ことを指摘され、こう締めくくられた。「人生は神への祈りとなるように召されています。しかしそれは、祈り、特に典礼の祈りなしには起こり得ません」

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

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2021年2月3日