◎教皇連続講話「悪徳と美徳」 ⑪人間の持つ素晴らしい可能性は「徳」

(2024.3.13 バチカン放送)

  教皇フランシスコは、教皇選出から11年目にあたる13日、バチカンで水曜恒例の一般謁見を行われ、その中で、「悪徳と美徳」をテーマにした連続講話を続けられた。今回から、「悪徳」と対称の関係にある「美徳」についての考察に入られた。

  風邪の症状が残っておられるため、代読の形でなさった講話の要旨は以下の通り。

**********

  これまで様々な「悪徳」を考察してきましたが、今回から、それと対称の関係にあるもの、悪の体験の対極にあるものに、目を向けたいと思います。

  人間の心は、危険な情熱の言いなりになったり、害になる誘惑に耳を貸す可能性がある一方で、これらすべてに対抗することもできます。たとえそれが困難を伴うとしても、人間は善のために造られており、善を真に実現し、それを鍛え、自分の中で持続するものにすることができるのです。

  人間が持つこの素晴らしい可能性をめぐる考察、それが「徳」という、倫理哲学の一つの古典的な主題を形作っています。  古代ローマの哲学者は「徳」をvirtus(ヴィルトゥス)、古代ギリシャ人はそれをaretè(アレテー)と呼んでいました。

  ラテン語におけるその定義は、特に、「徳」を持った人の強さ、勇気、節制、苦行を強調しています。つまるところ、「徳」の行使は、努力や苦しみを要する長い発芽を経た結果なのです。それに対し、ギリシャ語のaretèは、優れた、際立つ、感嘆させる何かを指します。有徳の人とは、自分を曲げて無理に変えた人ではなく、自らの召命に忠実に、自分自身をあまねく実現した人のことです。

  聖人たちは人間の中で稀な存在であり、私たちの限界を超えて生きる、一握りの勝者たちの集まりだ、と考えるのは誤りです。むしろ、聖人たちは「徳」という視点から見て、それぞれの召命を実現しながら、自分自身を精一杯に生きた人たちです。正義や、尊重、相互の優しさ、寛大さ、希望といったものを普通に分かち合えるなら、どれほどよいでしょう。しかし、それはめったにないことです。しばしば人間の最悪さと向き合わねばならない悲劇的な今日の時代ゆえに、徳ある態度の考察は再発見され、皆が学ぶべきもの、と言えるのです。この歪んだ世界において、私たちは神の似姿に沿って作られ、永遠に刻まれた自分たちのあるべき形を記憶せねばなりません。

  ところで、「徳」という概念をどのように定義したらよいでしょう。『カトリック教会のカテキズム』は、正確で簡潔な定義を私たちに示しています―「徳とは善を行う堅固な習性です」(n.1803)。それは人間のゆっくりとした成熟から生まれ、その人の内的特質にまでに至る善です。「徳」とは自由の一つの「態度」です。私たちがあらゆる行いにおいて自由であるとすれば、善悪を選択する必要があるたびに、「徳」は正しい方を選ぶ習慣を私たちにもたらします。

 「徳」がこれほど素晴らしい素質であるなら、すぐに次の問いが生まれるでしょう。「どのようにしてその徳を得ることができるのだろうか?」 その答えは簡単ではなく、複雑です。キリスト者にとって、一番の助けは神の「恵み」です。洗礼を受けた者の中では、聖霊が働きます。聖霊は私たちの魂の中で働き、それを有徳な生活へと導きます。いったいどれほど多くのキリスト者たちが、己の弱さを克服できぬことを認めつつ、涙を経て、聖性に到達したことでしょう。彼らは、自分にとって単なる素描に過ぎなかった「善」という作品を、神が完成してくださったことを知ったのです。神の恵みは、私たちの道徳的な努力に常に先行します。

  さらに、先人の知恵からもたらされた、「徳は成長する。そして、それは鍛えることができる」という非常に豊かな教えを決して忘れてはなりません。そのためにも、聖霊に最初に願うべき賜物は、まさに知恵です。私たちが持つ、かけがえのない賜物は、開かれた精神と、人生を善に向かって方向付けるために、過ちから学ぶ賢明さです。そして、必要なのは、熱意と、善を選択し、過度なことを遠ざけ、節制を通して自分自身を形作る能力です。

  それでは、こうして私たちの「徳」をめぐる旅を始めましょう。

(編集「カトリック・あい」)

このエントリーをはてなブックマークに追加
2024年3月15日