◎教皇連続講話「使徒的熱意について」最終回「『主を宣べ伝えたい』と思うほど、私は主を愛しているか?」

(2023.12.13 Vatican News Lisa Zengarini)

 教皇フランシスコは13日の水曜恒例一般謁見で、これまで続けて来られた「使徒的熱意について」の連続講話を締めくくるに当たり、「洗礼を受けたすべてのキリスト教徒に、すべての人々に福音を宣べ伝えることが求められています」と強調された。

 講話の冒頭で、教皇は「福音を宣べ伝える熱意は、すべてのキリスト教徒が最初から関わっているもの」とされ、信者たちにまず、洗礼の秘跡にある「エッファタ(開け)の儀式」に注意を向けるよう勧められ、 この儀式がイエスがガリラヤでなさった奇跡-耳の聞こえない男の人を治癒したこと-に由来していることを指摘された。

 教皇の講話の要旨は次のとおり。(以下はバチカン放送による)

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「イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖に来られた。人々は耳が聞こえず口の利けない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで呻き、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すようになった(マルコによる福音書7章31-35節)」

 「使徒的熱意について」をテーマとしたこれまでの連続講話で、私たちは、福音宣教の情熱を育てるための助けを、神の御言葉からくみとりました。それは、洗礼の際、「主の声を聞くことができるように」、「神の言葉に応えることができるように」、耳や唇に十字架のしるしを受けることからも分かるように、すべてのキリスト者に言えることなのです。

 私たちは、耳が聞こえず、舌の回らない人を癒すイエスのエピソードに先ほど耳を傾けました。福音記者マルコは、イエスの足取りをたどりながら、この奇跡がどこで起きたかを記しています。これらの地方に共通することは何でしょうか。そこには異教徒が多く住んでいた、ということです。

 聖書の中で、耳が聞こえない状態は、「神の呼びかけに心を閉じていること」の隠喩でもありました。

 福音は、このエピソードにおけるイエスの決定的な言葉をアラム語で伝えています。それは「エッファタ」(開け)という言葉です。この耳が聞こえない人にだけでなく、当時の、そしてあらゆる時代の、イエスの弟子たちに向けられているのです。

 私たちも、洗礼において、聖霊の「エッファタ」を受け、「開く」ようにと召されました。「開きなさい」と、イエスはご自身の教会のすべての信者に言われます。それは福音のメッセージが証しされ、伝えられるために、私たちが必要とされているからです。

 キリスト者は神の御言葉に心を開き、また、他者への奉仕に心を開いていなければなりません。心を閉じたキリスト者は、キリストを信じる者ではなく、イデオロギーの信奉者です。キリスト者は御言葉の告知に心を開き、兄弟姉妹たちの受け入れに心を開いていなければなりません。ですから、この「エッファタ」は、私たちすべてに自らの心を開くように、との招きなのです。

 マルコの福音書の最後でも、イエスは私たちに宣教の願望を託されています-「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(16章15節)と。

  兄弟姉妹の皆さん、私たちは皆、洗礼を受けた者として、イエスを証しし、宣べ伝えるよう召されていることを深く受け止めましょう。 そして教会として、司牧的、宣教的な回心をもたらす恵みを求めましょう。 ガリラヤ湖のほとりで、主はペテロに愛しているか尋ね、羊の世話をするよう求められました。

 私たちも一人ひとり、自分自身に問いかけてみましょう。「 主を宣べ伝えたいと思うほど、私は、本当に主を愛しているのか?」「 私は主の証人になりたいのか、それとも主の弟子であることで満足なのか?」「 私は出会った人々のことを心に留め、イエスに祈りを捧げているか? 」「私の人生を変えた福音の喜びが、出会う人々の人生をもっと素晴らしくするために、何かしようとしているか?」。

 以上のような問いかけについて考え、そして、私たちの証しをもって先に進みましょう。

 

(編集「カトリック・あい」=最後の部分は、バチカンの発表した講話の原稿を翻訳、また聖書の引用は「聖書協会・共同訳」を使用)

 

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2023年12月13日