◎教皇聖週間講話「他者の涙をぬぐい、他者の渇きを癒す時、私たちの傷は『希望の源』となる

(2023.4.5 バチカン放送)

 教皇フランシスコは5日、バチカンの聖ペトロ広場で水曜恒例の一般謁見を行われ、復活祭を目前にした「聖週間」中の講話として、「希望の源である十字架」をテーマに話された。

 教皇のカテケーシスの要旨は次のとおり。

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 前の日曜日、典礼では「主の受難」が朗読されました。それは次の言葉をもって終わります―「彼らは行って墓の石に封印した」(マタイ福音書27章66節参照)。すべては終わったかのように見えました。イエスの弟子たちにとって、その石は、彼らの希望を振り出しに戻すことを意味していました。師イエスは十字架につけられ、町の外の処刑地で、残酷で屈辱的な方法で殺されましたが、それは誰の目にも明らかな敗北、これ以上はあり得ない最悪の結末でした。

 その時、弟子たちを押しつぶしていた失望は、今日の私たちにも無縁ではありません。私たちの心にも暗い考えや挫折感が立ち込めることがあります。なぜ人々はこれほどまでに神に無関心なのでしょうか。なぜ世界には多くの悪がはびこっているのでしょうか。なぜ不平等は広がり続け、熱望される平和は訪れないのでしょうか。今日も、希望は「不信」という石の下に封印されているかのようにみえます。

 弟子たちの頭は「十字架」の残影を見ていました。最後はそこにすべてが集中しました。しかし、弟子たちはまさに、その十字架から新たな始まりを見出すことになるのです。「十字架」という最も恐ろしい拷問の道具から、神は最も偉大な愛のしるしを引き出された。あの「死の木」は、「生命の木」となりました。今日、私たちは、自分たちの心に希望を芽吹かせるため、教会や世界を汚している悲しみや苦しみから癒されるために、十字架の木を見つめましょう。そして、十字架の上に私たちは何を見ますか-裸で傷ついたイエスの姿―です。

 では、どのようにこのイエスの姿から消えかけた希望を取り戻すことができるのでしょう。十字架上の、すべてをはぎ取られたイエスの姿を見つめましょう。「彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合った」(マタイ福音書27章35節)と福音書にあるように、イエスはすべてをはぎ取られた。すべてを持っておられる神は、何もかも取られるがままにされました。しかし、その辱めは、贖いへの道だったのです。

 真理を明らかにするために裸となることは、私たちには難しいことです。私たちは見せかけのもので装い、仮面をつけ、本来の自分より良く見せようとする。虚飾によって、私たちが平和を得ることはない。すべてをはぎ取られたイエスの姿は、自分についての真実をはっきりさせ、二面性を取り去り、偽の自分との慣れ切った共存から解放されることから希望が再び生まれることを、私たちに思い出させる。必要なのは、希望の代替にすぎない多くの無用なものを脱ぎ捨て、自分の心に、本質に、簡素な生活に立ち返ることです。

 再び十字架に目を向け、傷ついたイエスを見つめましょう。イエスは両手と両足を釘で打たれ、脇腹には傷口が開いています。体の傷だけではない。魂の傷もあります。イエスは孤独でした。裏切られ、引き渡され、否定され、宗教と政治の権力の両方から罪に定められたのでした。

 私たちも皆、過去の選択や、無理解、克服できない悲しみなど、人生の中で傷を負っています。神はご自分の体と魂を貫いた傷を、私たちの目にかくそうとされません。過ぎ越しによって新たな道が開くことを教えるために、私たちにその傷を示されるのです。ご自分の傷を「光の穴」とされる。イエスは十字架上で、人々に非難を返さず、彼らを愛されました。ご自分を傷つける者たちを愛し、赦されました(ルカ福音書23章34節参照 )。そうして、悪を善に、苦しみを愛に変えられたのです。

 人生の傷は、大きいか小さいかが問題ではありません。その傷をどうするかが問題なのです。その傷を怒りや悲しみの中で広がるままにしておくか、それとも、イエスの傷と合わせることで、自分の傷も光を放つものとしていただくか。

 自分の傷だけを思い泣くのではなく他者の涙をぬぐう時、自分のための愛に渇くのではなく自分を必要とする人の渇きを癒す時、私たちの傷は「希望の源」となることができるでしょう。それは、自分のことだけを考えるのをやめた時、自分を取り戻すことができるからです。そうすれば、聖書が語っているように、私たちの「傷は速やかに癒され」(イザヤ書58章8節参照)、希望が再び花開くことでしょう。

(編集「カトリック・あい」

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2023年4月6日