
(2022.8.28 Deborah Castellano Lubov)
教皇フランシスコが28日、イタリア中部、ラクイラで、ケレスティヌス5世教皇(在位1294年7月5日 – 12月13日)にちなんだ「チェレスティーノ(ケレスティヌス)の赦し」の祝いのミサを捧げられ、説教で、教皇職を全うせずに退任したケレスティヌス5世のしばしば誤解されている「勇気ある証し」とともに「全てのことを成し遂げられる神の力」に注意を向けられた。
ミサは、2009年のラクイラ地震で壊滅的な被害を受け、2017年12月に復旧したコッレマッジョ聖マリア大聖堂前の広場で捧げられた。
ミサ中の説教で、教皇はまず、「聖人たち、ケレスティヌス 5 世教皇、そして私たちを解放し喜びをもたらされる神の憐れみ」に注意を向け、「聖徒たちの人生は、イエスが福音を宣べ伝えるために来られたという『良い便り』を私たちが垣間見ることの特別の視野を提供してくれます。神は私たちの父であり、私たち一人一人を愛してくださっているーこれが福音の核心であり、イエスはこの愛の証、神の化身、顔です」と語られた。
*教皇ケレスティヌス 5 世は誤解されている
そして、28日がラクイラにとって「特別な日」、「チェレスティーノの赦し」の日であり、1294年に教皇職を退いたケレスティヌス5世の遺物がこの地に保存されていること、そしてケレスティヌス5世が「自らを謙虚にし」、神の意に適う行為をしたことを強調され、「私たちは、ケレスティヌス5世を『はなはだしい拒絶をした人だ』と誤解しています。それはダンテが『神曲』でそう表現したからです。実際は、彼は『いいえ』ではなく、『はい』と言う人でした」と指摘。
さらに、「実際のところ、謙虚な人の力を使う以外に、神の意志を達成する方法はありません… 謙虚な人は、人々には弱く、敗者のように見えますが、本当は、彼らは征服者なのです。なぜなら、彼らは主に完全に信頼し、主の意志を知っているからです」とされ、「神がその奥義を明らかにされるのは、謙虚な人たちに対してであり、謙虚さによって神は称えられます」と語られた。そして、「”おごり高ぶり”に支配されることが多いこの世界で、神の御言葉は、謙虚に柔和になるよう、私たちに求めておられるのです」と強調された。
*神はすべてのことを成し遂げられる
続けて教皇は、「謙虚さは、自分自身を軽視することではなく、自分の可能性と惨めさを認識させる健全な現実主義にある」とされ、「自分の惨めさを認識するところから始まる謙虚さは、私たちの視線を自分自身から離し、神ーすべてのことがお出来になり、私たちが自分だけでは得られないものを私たちのために手に入れてくださる方ーに向けさせます。すべてのことは、信じる者のためになされるのです」と説かれた。
また、「謙虚な人の力は主、戦略や人間の手段ではない… その意味で、ケレスティヌス5世は、福音の勇気ある証人でした。それは、彼を投獄したり支配したりできる論理や力が存在しなかったからです。私たちは彼において、世俗的な論理に動かされず、憐みである神の名を完全に証しする教会を、称賛します… これがまさに福音の核心。憐みは、みじめな状態にある私たちが愛されていることを知るからです」と語られ、神の御子キリストとその憐れみに近づくように常に務めることを、すべての信徒に勧められた。
*セレスティヌス 5 世が残した賜物-慈しみ、赦し
さらに教皇は、「ラクイラは何世紀にもわたって、が残された賜物を生かし続けてきました… その賜物とは、慈しみさえあれば、すべての男性。すべての女性が喜びをもって人生を送ることができる、ということを思い起させてくれるもの。慈しみとは、喜びをもって受け入れられた、立ち直った、強められた、癒された、励まされた、と感じる体験をさせることものです。『赦される』とは、復活のすぐそばに来ているということを今、ここで体験すること。『赦し』とは、『死』から『生』へ、『苦悩と罪悪感』から『自由と喜び』へ移ることです」と強調。
そして、「私たちの教会が、いつも人々が和解することのできる場であり、私たちを立ち直らせ、もう一度チャンスを与えてくれる恵みを体験できる場でありますように。『年に一度』ではなく、『いつも』赦しの教会であるように」と祈られた。