☩「私は、自分の”魂の油”をいつも用意しているだろうか?」教皇、年間第32主日の正午の祈りで

(以下、「バチカン放送})

 教皇の説教の要旨は次のとおり。

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 今日の福音は、各自の人生の意味についてのたとえを語っています。このたとえにある十人のおとめは、「花婿」を迎え出るよう召されています。私たちが「生きる」とは、イエスと会うよう呼ばれる日のための大きな準備なのです。このたとえの中では、十人のおとめのうち、五人は愚かで、五人は賢かった。その賢さ、愚かさが何に基づくものなのか、考えてみましょう。

 花婿の付き添い役のおとめたちは皆、花婿を迎え出るため、出会いたいために、そこにいる。それは、私たちが幸せな人生の実現を望みながら生きていることと似ています。賢さと愚かさの差は、熱意の差でも、出会いの時間に正確にそこにいたか、ということにはありません。おとめたちは、皆がともし火を手にして待っていました。賢さと愚かさの差は、別のところ、「準備」にあったのです。

 福音書にはこう書かれています。「賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた」と。だが、愚かなおとめたちはそれを持っていなかった。つまり、おとめたちの違いは、「油を持っているか、持っていないか」にあります。油はランプの中にあるために外から見えませんが、油がなければ、ランプに光はともらないのです。

 私たちの人生も、同じ危険に陥ることはないでしょうか。見かけに凝って、他者の前で自分のイメージを良くすることに重点を置いてはいないでしょうか。イエスは「人生の賢さは別のところにある」と言われます。外からは見えないが最も重要なもの、つまり、心を大切にすること、内的生活を守ることにある、と。

 それは、自分の心に耳を傾け、自分の感情や考えを注意深く観察するために立ち止まること、沈黙の時間を持ち、自分と他者に耳を傾けること、携帯電話の画面を見つめる時間を他者の瞳や自分の心、神の眼差しの中に光を探すために割くこと、活動至上主義に捉われず、主と御言葉に時間を捧げること、です。

 福音書は、内的生活の油-「魂の油」を切らさないためには、「準備」が重要だ、と教えているのです。たとえの中のあるおとめたちは、ランプは持っていても、油を準備していなかったので、外の店で買って、ランプに油を入れる必要がありました。私たちの内的生活も同様に、必要だからといってその場で簡単に作ることはできません。重要なことのためには、毎日少しずつ時間をかけて準備する必要があるのです。

 ここで自分に問いかけてみましょう。「今、人生の中で何を準備しているだろうか。お金をいくらか貯めること、家や新しい車を求めることだろうか。それは悪いことではない。しかし、心のケアや祈り、他者への奉仕、人生の最終目的である主のために、時間を割いているだろうか。自分の魂の油は足りているだろうか」。

 私たちが内的生活の「油」をいつも用意しておくことができるように、聖母の助けを祈りましょう。

(編集「カトリック・あい」)

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2023年11月13日