教皇フランシスコは3日、正午の祈りの中で、「キリストの聖体」の祭日にちなんだ以下の説教をされた。
「親愛なる兄弟・姉妹のみなさん、おはようございます。
今日、イタリアを含めて多くの国々が「キリストの聖体」、最も有名なラテン語によれば “Corpus Domini” の荘厳な祭りを祝っています。
福音書は、私たちに、イエスが弟子たちとの最後の晩餐でお述べになった言葉を伝えています-「取りなさい。これは私の体である」。そして「これは、多くの人のために流される私の血、契約の血である」(マルコ福音書14章22、24節)。
まさにそのようなキリストの愛の証しゆえに、キリスト教共同体はキリストの贖いの秘蹟である聖餐を囲んで、毎日曜日、そして毎日、集ります。キリストの現存に惹かれて、キリスト教徒は、キリストの体となったパンという控えめなしるしを通して、キリストを崇敬し、熟視します。
聖餐を祝うたびに、この謹直で厳粛な秘蹟を通して、私たちは「新しい契約」-神と私たちの霊的交わりの完全な実現-を経験します。そして、この契約に参加する者として、私たちは、小さく、貧しくても、神が望まれる歴史を作ることに協力します。ですから、どの聖餐の祝いも、神への公の礼拝行為であるとともに、私たちの存在である命と具体的な出来事と関連を持ちます。
私たちは、キリストの御体と御血によって自らを養うとともに、キリストにならい、キリストの愛を、自分だけのものとせず、他の人と分かち合うために、自分の中に受け入れます。この考え方は、私たちがキリストの愛を受け、それを他の人々と分かち合う聖餐に刻まれています。これが、聖餐の考え方です。
事実、私たちはイエス-私たちの救いのために裂かれ、与えられるパン、流される血-を深く思います。それは現存です-私たちの中にある利己的な態度を燃やし、与えられた時だけ与えるという傾向を私たちから拭い去り、そして、イエスとの一致において、私たちの兄弟のために裂かれたパン、流された血に、私たちもなりたい、という強い願いを燃え立たせるもの。
ですから、Corpus Dominiの祝いは、キリストに人を惹きつける神秘、そしてキリストにおける変容の神秘なのです。そして、十字架につけられたイエスのように確固とした愛、忍耐、犠牲の学びの場。理解、助け、励ましを求め、社会の片隅に置かれ、孤独な人たちを、もっと進んで受け入れ、彼らに接するように、私たちに教えます。聖餐の中に生きておられるイエスの存在は、扉のようなもの、聖堂と表の通り、信仰と歴史、神の町と人間の町をむすぶ開かれた扉です。
広く行われている聖餐における敬神の表現は聖体行列で、多くの国で今日の典礼で行われます。今夕も、私は(ローマ郊外の)オスティアで、福者パウロ6世が50年前になさったのにならって、ミサを捧げます。そこでも聖体の行列があります。ラジオ、テレビを通して、霊的な参加の形でも、皆さんが参加されるようにお招きします。
マリア様が今日、私たちとともにいてくださいますように」
(バチカン広報発表の英語文より「カトリック・あい」田中典子翻訳)
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