(2022.12.14 Vatican News Christopher Wells)
教皇フランシスコは14日の水曜恒例の一般謁見で、最終段階に入った「識別について」の連続講話をされ、「attitude of vigilance(警戒する姿勢)の重要性」について語られた。
「識別について」のこれまでの講話では、祈り、自己認識、欲望、「命の書」、 荒廃と慰め、そして「選択」に伴う確認、などをテーマに語ってこられた。今回の講話では、「識別について」の旅の最終段階として、「警戒を怠らない姿勢ー識別の働きが無駄にならないようにするために不可欠な姿勢ーについて考察された。
そして、「邪悪な者が、すべてを台無しにし、私たちを始めた時よりもっと悪い状況に置く『真のリスク』がある。だからこそ、警戒することが欠かせません。識別のプロセスを成功させるために私たち全員が必要とするこの姿勢を強調するのがよい、と思われます」と説かれた。
(2022.12.14 バチカン放送) 教皇の講話の要旨は次のとおり。
**********
「識別」をめぐる連続講話も終盤に入りました。この連続講話では、聖イグナチオ・デ・ロヨラの体験から出発し、識別に必要な要素、すなわち、祈りや、自分自身を知ること、望み、人生のストーリーなどについて考え、続いて、識別の「材料」となる悲嘆や慰めなどを考察しました。そして、自分がした選択について確認するところまで学んできました。
こうした流れを受けて、今回は、より良い識別と良い選択の作業の成果を無駄にすることがないよう「adesso vigilare(警戒する姿勢)」の重要性について考えたいと思います。
なぜなら、悪い霊がそれらを台無しにし、私たちを元の状態に戻してしまうか、それどころか、以前よりも悪い状態にしてしまう可能性があるからです。
それは、「汚れた霊は人から出ていくと、休む場所を求めて水のない所をうろつくが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。帰ってみると、空き家になっており、掃除をして、飾り付けがしてあった。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる」(マタイ福音書12章43-45節)、とイエスが言われたとおりです。
だからこそ、識別のプロセスがすべて無駄にならないように、警戒を怠らないようにする必要があるのです。
実際、イエスはその教えの中で、良い弟子となるためには、眠り込むことなく、警戒を怠らず、物事が順調な時も自信過剰に陥らずに、自分の義務を果たす準備ができていなくてはならない、と強調しておられます。
たとえば、ルカ福音書の中で、イエスはこう言われています。「腰に帯を締め、灯をともしていなさい。主人が婚礼から帰って戸を叩いたら、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕(しもべ)たちは幸いだ」(ルカ福音書12章35-37節)。
これは、終わりの時における「主の再臨を待つキリスト者」の心構えを指しています。同時に、十分な識別の後、良い選択をし、忍耐強く、言動一致した、実り多い日常生活を送るように、との教えでもあります。
警戒していなければ、すべてを失うリスクは非常に大きい。それは、心理的レベルではなく、霊的レベルの危険、悪い霊の罠にはまる真の危険である。それはまさに、すべてがうまくいき、順風満帆で、私たちが自信過剰な時に起こります。
事実、先のイエスのたとえ話で、汚れた霊が出て行った家は、戻ると「掃除をして、整えられていた」(マタイ福音書12章44節)が、それは「空き家」になっており、主人はいない。では、家の主人はどこにいるのか、これが問題である。家の主人は出かけている、つまり、気を散らしているのか、あるいは家にいても眠り込んでいて、いないも同然の状態なのかもしれない。警戒をしていないーそれは自信過剰で、自分の心を守るための謙虚さにかけた状態です。
このようなときに、悪い霊はそれを利用して、再びこの家に入ろうとます。そして、福音書が言うように、その汚れた霊は、今度は「自分よりも悪いほかの七つの霊」(マタイ福音書12章45節)も一緒に連れてくるのです。
「なぜ、いとも簡単に悪い霊が入ってくるのか」「なぜ、家の主人は気が付かないのか」「彼は識別をしっかりしていたはずではないか」「このきれいで掃除の行き届いた家を、皆からほめられていたではないか」と私たちは思うでしょう。実は、主人はこの家を気に入りすぎたからこそ、主を待つことをやめてしまったのです。家をよごすのが怖くて、誰も招かず、貧しい人や家のない人、邪魔になる人たちを中に入れようとしないのです。
ここに「自分は正しく、有能で、うまくいっている」という、悪しきプライドがあることは確かです。神の恵みにではなく、自分だけに信頼するとき、悪い霊は家の開いた扉を見つける。そして、仲間と一緒にきて、再びその家を自分のものにしようとする。その結果はイエスが言われたとおりです。「そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる」(同12章45章)のです。
ありえないようですが、実際、このようなことが起こります。それは経験が裏付けています。このようなことがなかったか、それぞれ自分の経験を振り返ってみるといいでしょう。「良い識別」と「良い選択」だけでは十分ではありません。警戒を怠らないようにしている必要があります。警戒を怠らないことは、賢明のしるしであると同時に、何よりも、キリスト者のとるべき道、謙遜のしるしなのです。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=教皇は今回の講話で「 vigilare」をキーワードとして使っておられます。これは英語では「vibilant」で、日本語で「目を覚ましている」とも訳せますが、「警戒する」という強いニュアンスで訳すのが一般的です。特に、この講話では、「目を覚ましている」というあいまいな表現では、教皇の思いがうまく伝わらない、と判断しました。また、聖書の引用の日本語訳はカトリック、プロテスタントの専門家が10年かけて作成された「聖書協会・共同訳」を使用しています)