(2022.11.23 Vatican News Christopher Wells)
教皇フランシスコは23日の水曜恒例の一般謁見で「識別について」の講話を続けられ、「霊的な慰め」とは、すべての中に神の臨在を見ることによる「内なる喜びの深遠な体験」である、と強調された。
教皇の講話の要旨は次のとおり。(バチカン放送)
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「識別について」の連続講話では、前回、「魂の闇」ー「悲嘆」について考察しましたが、今日は、「魂の光」とも言える「慰め」について考えたいと思います。「慰め」もまた識別における重要な一つの要素なのです。
魂の慰めとは何でしょう。それは内的喜びの体験です。そこではあらゆることに神の現存を見ることを可能とし、信仰と希望、善を行う力を強めることができます。慰めを体験する人は、困難を前に諦めるということがありません。なぜなら試練よりもさらに強い平和を経験するからです。慰めは霊的生活への、また人生そのものへの大きな恵みです。
慰めは、私たち自身の奥深くに触れる内的な働きです。それは海綿に落ちる一滴の水のように、目立たないが、甘美で繊細なもの(聖イグナチオ・デ・ロヨラ『霊操』335項参照)。慰めを体験する人は、神の存在に包まれるように感じます。それは私たちの意志に力を加えるものでも、過ぎ去りやすい歓喜でもありません。それとは反対に、たとえば自身の罪など、時には苦悩さえも、慰めのきっかけとなり得ます。
聖アウグスティヌスや、アッシジの聖フランシスコ、聖イグナチオ・デ・ロヨラ、十字架の聖テレサ・ベネディクタ(エディット・シュタイン)など聖人の経験を考えてみましょう。聖人たちが偉大なことを行うことができたのは、彼らが自分の才能を信じていたからではなく、神の平安をもたらす甘美な愛に捉えられたからでした。
慰めは希望とつながります。慰めは未来に向かって人を歩ませ、エディット・シュタインの洗礼のように、その時まで後回しにしてきた計画を実行させるのです。
慰めが与える平安は、「座ったまま、それを味わう」ことをさせず、人を主にいっそう引きつけ、「良いことを行うために歩ませる」のです。私たちが「慰め」を体験した時、善を行いたい気持ちがいつも起こります。それに対して、悲嘆の中にある時は、自分の中に閉じこもり、何をする気も起きません。「慰め」は人を他者への奉仕のために進ませます。
霊的な「慰め」は、自分の思い通りに得ることはできません。それは聖霊の賜物だからです。「慰め」は、神との親しさを可能にし、神との距離をなくします。
幼きイエスの聖テレーズは、14歳の時、ローマを訪れ、サンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ教会(エルサレムの聖十字架教会)で、イエスが十字架につけられた時の釘の聖遺物に指で触れました。その時、テレーズはこの大胆さを、愛と信頼に満たされたものと感じていました。
テレーズはこう記していますー「私は本当に、あまりにも大胆でした。それでも、心の奥をご覧になる神さまは、私の意図が純粋であったことをご存知です… 何もかも赦されていると思い込み、父の宝を自分のものとみなす子どものように、私は神さまに対し振る舞っていました」(自叙伝)。
14歳のテレーズは、私たちに霊的慰めをめぐる素晴らしい叙述を与えてくれました。神に対する愛情に気づき、「神に受け入れられ、愛され、元気づけられている」と感じることで、神ご自身の命にあずかり、「神のお気に召すことをしたい」と大胆になり、困難を前にも、くじけなくなる…。実際、テレーズは同じ大胆さをもって、まだ若すぎたにもかかわらず、教皇にカルメル会への入会を願い、やがてその願いはかないました。
神から来る「霊的慰め」に対し、人間が作り出す「偽の慰め」もあることに注意しなければなりません。神からの慰めは静かで非常に内面的なものですが、「偽の慰め」は騒がしく、目立ち、情熱的です。そして燃える藁のように、最後には虚しさだけを残します。
ですから、慰めを感じた時にも「識別」が必要なのです。なぜなら、偽の慰めは、「主を忘れ、自分のためだけにそれを追求するようになる」という意味で、危険だからです。子供っぽい仕方で生きる危険、それを消費する対象にしてしまい、最も美しい贈り物である神自身を失う危険を冒していることに注意が必要です。
私たちは、慰めと世の罪による悲嘆の間を生きていきますが、神からの慰めを見分けることができるなら、それは魂の奥底まで深い平和をもたらすに違いありません。
(編集「カトリック・あい」)