
教皇フランシスコは12日の水曜恒例の一般謁見で、「識別について」の連続講話をお続けになった。
今回は、識別に欠かせない要素としての「強い願望」を取り上げ、信徒たちに「神の、私たちの人生に対する”強い願望”を知る助けを、主に求めるように」と勧められた。
*強い願望とは…
教皇は、「私たちに欠けているが、それとなく知っているもの」についてさらに説明され、「精神の専門家は、それを『欲望』と呼んでいます。これは完全には満たされることのないものへの欲求であり、私たちの内にある神の臨在のしるしです」と述べられた。
そして、イタリア語の desiderio は、ラテン語の de-sidus に由来し、「星、つまり、私たちの人生の歩み方向付ける基準点を欠いていること」を意味し、それは、「苦しみ、欠如、そして同時に、失われている善なるものに到達するための緊張、を呼び起こします」とされ、「強い願望は、一瞬の渇望ではない… 誠実な願望は、私たちの存在の琴線に深く触れる方法を知っているので、困難や挫折に直面しても消えることがありません」と語られた。
さらに、教皇は、私たちの喉が渇いた状態を例にとり、「私たちは、飲み物が見つからなくてもあきらめず、渇きを癒すためにあらゆる犠牲を払おうとし、水を求める気持ちが、私たちの考えや行動を支配していきます」とされ、それと同じように「障害や失敗が、欲求を抑えることはなく、私たちの中で、さらに生き生きとさせます」と説かれた。
*強い願望は時を経ても続き、果たされる
教皇は「一時の欲求や感情とは異なり、強い願望は、時を経ても持続し、長期にわたって持続し、実現することも少なくありません」とされ、例えば、医者になることを希望する若者は長い間、医者になるためにひたすら勉強する… 「医者になる、という彼の選択は、自分に制限を課すことを意味します。他の勉学のコースを選ぶことに『ノー』と言い、懸命に勉学に励む間、気晴らしや娯楽を断つことを意味します」と指摘。
そして「このようなことを可能にするのは、『自分の人生に方向性を与え、目標に到達したい』という強い願望です。実際のところ、その目標が魅力的であれば、素晴らしいものとなり、達成しやすくなる。ある人が言っているように、『良いことよりも、良くなりたい、という願望を持つことが重要』なのです」と説かれた。
*強い願望と奇跡
次に教皇は、「イエスが奇跡をなさる前に、相手に「何を望むのか」と問いかけられることが多いこと」に注目された。
例えば、ヨハネ福音書には、イエスがエルサレムに入られた時、ベトサダの池の回廊に横たわっていた病人に「良くなりたいか」と問いかけられる場面(5章3節以降)がある。
この病人はイエスの問いかけの真意をまだ理解できず、「主よ、水が動くとき、私を池の中に入れてくれる人がいません。私が行く間に、ほかの人が先に降りてしまうのです」とおかしな返事をする。イエスの問いかけは、彼に自分の気持ちを正直に表わさせ、飛ぶように歩けるようにし、他の人に池に入れてもらわねばならないような、麻痺した病人と考える必要がなくなるようにする、という招きの言葉だったのだ。
「主との対話で主につながることで、私たちは、自分の人生で本当に得たいものを理解することを学ぶのです」と教皇は指摘された。
*強い願望が、”一時の欲求”におとしめられている
ただし、しばしば起きるのは、「欧州のことわざにある『地獄への道が善意で舗装されている』ことで、強い願望が、成功し、首尾一貫した永続的な計画と、何千もの願望と善意の間に違いを生むこと」であり、「最大限の選択の自由を促しているように見えて、実際は願望を『一時の欲求』におとしめている現代、私たちは何千もの提案、計画、そして可能性に攻め立てられ、混乱させられ、自分が本当に欲しいものを冷静に評価でいなくなるリスクのもとに置かれているのです」と警告された。
そして、多くの人が苦しんでいるのは「自分の人生に何を求めているのか分からない」ためで、「おそらく、自分の心の最も深いところにある願望に触れたことがない」ため、と教皇は指摘。
それゆえに、「彼らは、さまざまな種類の試みと手段の間で振り回され、どこにも到達せず、貴重な機会を無駄にするーというリスクを冒している。だから、理論的には望ましい変更であっても、機会が訪れたときに、実行できない変更があります」と注意された。
*神の願望を知ろうとする強い願望