◎教皇連続講話「祈りの神秘」③「生きていることを単純に喜ぶ-『ありがとう』こそ素晴らしい祈り」 教皇フランシスコ、2020年5月20日の一般謁見 (ANSA) (2020.5.20 バチカン放送) 教皇フランシスコは20日)、水曜恒例の一般謁見をバチカンからビデオを通して行われた。教皇ご自身の環境回勅「ラウダート・シ」発表5周年を記念する特別週間(16日-24日)に行われたこの謁見で、「祈りの神秘」をテーマとするカテケーシス(教会の教えの解説)を続けられ、今回は祈りを生む「創造の神秘」について、以下のように講話された。 ********** 親愛なる兄弟姉妹の皆さん 「祈り」をめぐるカテケーシスを続けながら、「創造の神秘」について観想しましょう。命-生きている-ということは、人間の心を祈りに開きます。 聖書の最初のページは、いわば、感謝の壮大な賛歌に似ています。創造の物語は、繰り返しによってリズムをつけながら、存在するすべてのものの良さと美しさを強調し続けます。神はその御言葉をもって、すべてのものを命に召され、あらゆるものを存在させます。御言葉によって、光と闇を分け、昼と夜を区別し、四季を入れ替わらせ、色々な種類の動物、植物によって豊かな色彩を広げました。 このあふれるばかりの森の中で混沌は速やかに淘汰され、最後に人間が現われました。人間の出現により高まった歓喜は、満足と喜びを増大させます。 「神は、造ったすべてのものを御覧になった。それは極めてよかった」(創世記1章31節)。 それは良いだけでなく、美しいものでもありました。すべての被造物には美しさがあります。創造の美しさとその神秘は、人間の心の中に祈りを生む最初の衝動を与えます(「カトリック教会のカテキズム」2566項参照)。 私たちが先に耳を傾けた詩編8はこのように歌います。 「あなたの指の業である天を あなたが据えた月と星を仰ぎ見て、思う。人とは何者なのか、あなたが心に留めるとは」(詩編8章 4-5節)。 詩編作者は、自分の周りの命の神秘を観想し、今日、天文学がその広大さを示す、星でいっぱいの天を仰ぎ見、これほど力強い御業の背景には、どのような愛の計画があるのだろうか、と問います。この果てしない広さを前に、人間とは何ほどの者でしょうか。 それはほとんど「むなしいもの」である、と、ある詩編(89章48節参照)は言います。それは生まれて、死にゆく、はかない被造物です。それにもかかわらず、天地において、人間は唯一、神が創造されたものの、あふれる美しさを自覚する被造物です。人間は生まれ、死ぬ、小さな存在ですが、唯一、この美しさを自覚しているのです。 人間の祈りは、この驚きの感情と密接に結びついています。人間の大きさは、宇宙の広さに比べたら、極めて小さなものです。人間が成し遂げた最も偉大な物事も、その前では微々たるものです。しかし、人間はまったくの無ではありません。 祈りの中で、人間は、神のあふれる憐みを確信することができます。何一つ偶然に存在するものはありません。宇宙の神秘は、私たちと目を交わす、あるお方の善良なまなざしの中にあります。詩編は、私たちは「神に僅かに劣るもの」として造られ、「栄光と誉の冠を授け」(詩編8章6節)られたもの、と述べています。神との絆が、人間の偉大さです。私たちは本来、無に等しい、小さな存在ですが、召命によって、偉大な王の子たち、となりました。 これは私たちの多くが得た体験です。人生のつらい出来事が、時に、私たちの祈りの恵みを押しつぶすことがあっても、星空や夕日や花を見つめるだけで、感謝の火花が再びきらめくのです。この体験は、おそらく、聖書の最初のページの根底にあるものです。 創造の偉大な物語が記された時、イスラエルの民は決して安穏な状態にはありませんでした。敵の勢力に土地を占領され、多くは流刑の身となり、メソポタミアで捕囚状態にありました。そこには、もう祖国も、神殿も、社会生活、宗教生活もありませんでした。 それにもかかわらず、まさに創造の偉大な物語から始めることで、人々は感謝の動機、命のために神を賛美する動機を再び見出したのです。祈りは、希望の最初の力です。祈ることで、希望が育ち、前進できます。祈りは「希望の扉を開く」と言っていいでしょう。なぜなら、祈る人々は土台となる真理を保っています。それは、この人生は、その苦労と困難、試練の日々にもかかわらず、驚くべき恵みに満ちている、ということです。彼らはその真理を、何より自分自身に、そして他の人々に繰り返します。この真理は常に守られるべきです。 祈る人々は、「希望が失望よりも強い」ことを知っています。「愛は死より強い」ことを信じています。それがいつ、どのようにか、は知らなくても、「愛がいつか勝利する」と信じています。祈る人は、顔に光の輝きを帯びています。なぜなら、最も暗い日も、陽が彼らを照らし続けるからです。祈りは、どんなに暗く、つらい時でも、あなたを、あなたの魂、心、顔を照らします。 すべての人は喜びを持っています。そう考えたことはありますか?あなたは喜びを持っていますか?それとも悲しいニュースの方を好みますか? 誰もが喜びを持つことができます。この命は、神が私たちに与えてくださった恵みです。悲しみや、幻滅のうちに費やしてしまうには、命は短すぎます。神を賛美し、生きていることを単純に喜びましょう。 天地の美しさを見つめ、そして自分の十字架を見つめて言いましょう。「あなたは生きている。あなたは、あなたのために、このように作られたのだ」。 心の不安が、神に感謝し、神を賛美することに向かわせます。私たちは偉大な王、創造主の子たちです。神の御手のあとをすべての被造物に見ることができます。今日、私たちは被造物を大切にしようとしません。しかし、その被造物は神が愛のために造られたのです。 主がいつも、私たちにこのことをより深く理解させてくださいますように。そして、そのために私たちが「ありがとう」と言えますように。この「ありがとう」こそ、素晴らしい祈りなのです。 (編集「カトリック・あい」=聖書の日本語訳は「聖書協会 共同訳」を使用、漢字の表記は当用漢字表に倣いました) ツイート
教皇フランシスコ、2020年5月20日の一般謁見 (ANSA) (2020.5.20 バチカン放送) 教皇フランシスコは20日)、水曜恒例の一般謁見をバチカンからビデオを通して行われた。教皇ご自身の環境回勅「ラウダート・シ」発表5周年を記念する特別週間(16日-24日)に行われたこの謁見で、「祈りの神秘」をテーマとするカテケーシス(教会の教えの解説)を続けられ、今回は祈りを生む「創造の神秘」について、以下のように講話された。 ********** 親愛なる兄弟姉妹の皆さん 「祈り」をめぐるカテケーシスを続けながら、「創造の神秘」について観想しましょう。命-生きている-ということは、人間の心を祈りに開きます。 聖書の最初のページは、いわば、感謝の壮大な賛歌に似ています。創造の物語は、繰り返しによってリズムをつけながら、存在するすべてのものの良さと美しさを強調し続けます。神はその御言葉をもって、すべてのものを命に召され、あらゆるものを存在させます。御言葉によって、光と闇を分け、昼と夜を区別し、四季を入れ替わらせ、色々な種類の動物、植物によって豊かな色彩を広げました。 このあふれるばかりの森の中で混沌は速やかに淘汰され、最後に人間が現われました。人間の出現により高まった歓喜は、満足と喜びを増大させます。 「神は、造ったすべてのものを御覧になった。それは極めてよかった」(創世記1章31節)。 それは良いだけでなく、美しいものでもありました。すべての被造物には美しさがあります。創造の美しさとその神秘は、人間の心の中に祈りを生む最初の衝動を与えます(「カトリック教会のカテキズム」2566項参照)。 私たちが先に耳を傾けた詩編8はこのように歌います。 「あなたの指の業である天を あなたが据えた月と星を仰ぎ見て、思う。人とは何者なのか、あなたが心に留めるとは」(詩編8章 4-5節)。 詩編作者は、自分の周りの命の神秘を観想し、今日、天文学がその広大さを示す、星でいっぱいの天を仰ぎ見、これほど力強い御業の背景には、どのような愛の計画があるのだろうか、と問います。この果てしない広さを前に、人間とは何ほどの者でしょうか。 それはほとんど「むなしいもの」である、と、ある詩編(89章48節参照)は言います。それは生まれて、死にゆく、はかない被造物です。それにもかかわらず、天地において、人間は唯一、神が創造されたものの、あふれる美しさを自覚する被造物です。人間は生まれ、死ぬ、小さな存在ですが、唯一、この美しさを自覚しているのです。 人間の祈りは、この驚きの感情と密接に結びついています。人間の大きさは、宇宙の広さに比べたら、極めて小さなものです。人間が成し遂げた最も偉大な物事も、その前では微々たるものです。しかし、人間はまったくの無ではありません。 祈りの中で、人間は、神のあふれる憐みを確信することができます。何一つ偶然に存在するものはありません。宇宙の神秘は、私たちと目を交わす、あるお方の善良なまなざしの中にあります。詩編は、私たちは「神に僅かに劣るもの」として造られ、「栄光と誉の冠を授け」(詩編8章6節)られたもの、と述べています。神との絆が、人間の偉大さです。私たちは本来、無に等しい、小さな存在ですが、召命によって、偉大な王の子たち、となりました。 これは私たちの多くが得た体験です。人生のつらい出来事が、時に、私たちの祈りの恵みを押しつぶすことがあっても、星空や夕日や花を見つめるだけで、感謝の火花が再びきらめくのです。この体験は、おそらく、聖書の最初のページの根底にあるものです。 創造の偉大な物語が記された時、イスラエルの民は決して安穏な状態にはありませんでした。敵の勢力に土地を占領され、多くは流刑の身となり、メソポタミアで捕囚状態にありました。そこには、もう祖国も、神殿も、社会生活、宗教生活もありませんでした。 それにもかかわらず、まさに創造の偉大な物語から始めることで、人々は感謝の動機、命のために神を賛美する動機を再び見出したのです。祈りは、希望の最初の力です。祈ることで、希望が育ち、前進できます。祈りは「希望の扉を開く」と言っていいでしょう。なぜなら、祈る人々は土台となる真理を保っています。それは、この人生は、その苦労と困難、試練の日々にもかかわらず、驚くべき恵みに満ちている、ということです。彼らはその真理を、何より自分自身に、そして他の人々に繰り返します。この真理は常に守られるべきです。 祈る人々は、「希望が失望よりも強い」ことを知っています。「愛は死より強い」ことを信じています。それがいつ、どのようにか、は知らなくても、「愛がいつか勝利する」と信じています。祈る人は、顔に光の輝きを帯びています。なぜなら、最も暗い日も、陽が彼らを照らし続けるからです。祈りは、どんなに暗く、つらい時でも、あなたを、あなたの魂、心、顔を照らします。 すべての人は喜びを持っています。そう考えたことはありますか?あなたは喜びを持っていますか?それとも悲しいニュースの方を好みますか? 誰もが喜びを持つことができます。この命は、神が私たちに与えてくださった恵みです。悲しみや、幻滅のうちに費やしてしまうには、命は短すぎます。神を賛美し、生きていることを単純に喜びましょう。 天地の美しさを見つめ、そして自分の十字架を見つめて言いましょう。「あなたは生きている。あなたは、あなたのために、このように作られたのだ」。 心の不安が、神に感謝し、神を賛美することに向かわせます。私たちは偉大な王、創造主の子たちです。神の御手のあとをすべての被造物に見ることができます。今日、私たちは被造物を大切にしようとしません。しかし、その被造物は神が愛のために造られたのです。 主がいつも、私たちにこのことをより深く理解させてくださいますように。そして、そのために私たちが「ありがとう」と言えますように。この「ありがとう」こそ、素晴らしい祈りなのです。 (編集「カトリック・あい」=聖書の日本語訳は「聖書協会 共同訳」を使用、漢字の表記は当用漢字表に倣いました)