さらに、「使徒パウロは、『祈りで何を願うのかいいかさえ知らない』ことを私たちに思い起こさせます」とされ、私たちが祈る時、知っていることは『私たちは謙虚になる必要がある。そうすることで、私たちの言葉は、祈りとなり、神が嫌われる無駄話でなくなるのです」と説かれた。
そして、誠実な祈りをもって祈る時、神の国に伝える事を願う時、母が病気の子どものために祈る時、「どうして、神が聴いてくださらない、と思われることが時としてあるのでしょうか?」と信徒たちに問われ、「この問いに答えるために、私たちは福音書で静かに瞑想する必要があります。福音書で語られるイエスの生涯は祈りに満ちており、そのすべては、苦難に染められた祈りです。『私を憐れんでください』と切に願う、測り知れないほど大きな聖なる歌です」と語られた。
*イエスの答えは・・
また、教皇は「イエスの答えは、時として、すぐに返ってきますが、遅れることも、ままあります。時と場合によって、問いかけへの答えがすぐにされないこともあるのです」とも指摘された。
講話の最後に、教皇は、「イエスのゲッセマネでの(注:『できることなら、受難の杯を私から過ぎ去らせてください、』という)父への祈りも、聴いていただけないように見えるかも知れません。子は受難の杯を飲み干さねばならなかったからです」とされたうえで、次のように締めくくられた。
「しかし、(注:イエスが十字架上で処刑され、墓に入れられた)聖土曜日が、イエスの生涯の最後の章ではありません。亡くなられて三日目に復活されるからです。悪は、二日目の支配者ですが、それが決して最後にはなりません。それは、『最後』が神のみのもの、すべてに人の救いの願いが満たされるであろう日だからです」。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)