◎教皇連続講話「祈りについて」㉔「黙想はイエスと出会い、自分を発見する祈りの重要な形の一つ」

(2021.4.28 Vatican News  Fr. Benedict Mayaki, SJ)教皇フランシスコは28日、水曜恒例の一般謁見で「祈りについて」をテーマにした講話を続けられ、meditation(黙想)の重要性を強調、「黙想は、私たちがイエスと出会い、自分自身を発見するのを助ける祈りの仕方の一つ」と説明された。

(2021.4.28 バチカン放送)

    教皇は、キリスト者にとって「黙想」とは一つの総括の探求であり、神の啓示の広大なページを前に、それを完全に要約しながら、自分たちのものとすることである、とされ、「キリスト者は神の御言葉に耳を傾けた後で、それを自分の中に閉じ込めておくことはありません。なぜなら、その御言葉は、『もう一冊の書』、『生活の書』と出会わなければならないからです」と語られた。

 黙想の実践がここ数年、世界の人々の関心を集め、キリスト者に留まらず、生活に宗教的視点を持たない人々の間でも広がっている現象に注目された教皇は、「私たちは皆、黙想し、考え、自分自身を再発見する必要を感じていますが、特に目まぐるしく動く西洋的世界で、黙想は日常のストレスと虚無の広がりを食い止める”堤防”の役割を果たしています」と説かれた。

 キリスト教的世界においては、黙想とは一つの動かしがたい意味を持っており、「キリスト者の祈りが通る偉大な扉、そして黙想がたどっていく道、それはイエス・キリストです」と強調された。

 そして、キリスト者の祈りは、「私自身の追求」よりも、主との出会いに向かうものであり、「祈りの体験が、私たちの心に平和を与え、自分を取り戻させ、取るべき道を照らすなら、それは、『イエスとの出会いそのもの』である祈りの『恵みの副産物』と言えるでしょう」と話された。

 教皇は、黙想の仕方について、「その方法は霊性の師の数ほど多様です。…しかし、方法というものは手引きにすぎません。大事なことは、イエス・キリストという祈りの唯一の道を、聖霊に導かれてたどることです」という「カトリック教会のカテキズム」の教え( 2707項)を引用され、「人間の頭だけで祈ることはできず、感情だけで祈ることもできません。『祈るための器官は心である』という昔の人の言葉のように、人間全体がその中心から出発して、神との関係に入ります。祈りの方法は『道』であり、目的ではない。キリスト者にとって、あらゆる祈りの方法は、信仰の本質である『キリストに従う』という態度に属するものなのです」と説かれた。

 また教皇は、「黙想をするときには、思考、想像、感情、および望みを働かせます。そうしたあらゆる機能を働かせることが、信仰の確信を深め、回心を促し、キリストに従う意志を強めるために必要です。キリスト教的祈りは、何よりも『キリストの諸神秘』の黙想に専念するもの」というカテキズムの言葉( 2708項)を引用された。

 さらに、祈りの恵みは、「キリストが遠い存在ではなく、常に私たちと関わっておられること」を理解できることであり、祈りの恵みによって、「イエスの地上における生涯のあらゆる出来事が、今、私たちの目の前で起きている出来事となり、聖霊のお陰で私たちはヨルダン川の洗礼や、カナの婚礼、多くの人の癒しを、祈りにおいて体験することができるのです」と強調。

 最後に教皇は、「福音書の中に私たちが入ることのできない場所はありません… キリスト者にとって、黙想とは、イエスと出会う方法であり、その出会いを通してこそ、私たちは自分自身を、改めて見出すことができるのです」と語られた。

(編集「カトリック・あい」)

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2021年4月28日