◎教皇連続講話「悪徳と美徳」⑩「四旬節を謙遜をもって自分自身の高慢と戦う機会にしよう」

教皇フランシスコ 2024年3月6日の一般謁見 バチカン・聖ペトロ広場教皇フランシスコ 2024年3月6日の一般謁見 バチカン・聖ペトロ広場  (Vatican Media)

(2024.3.6 バチカン放送)

 教皇フランシスコは6日、バチカンの聖ペトロ広場で、水曜日恒例の一般謁見を行われ、「悪徳と徳」についての連続講話を、「高慢」をテーマになさった。先週から続いている感冒のため、ご自身が用意された文章の代読の形で行われた講話の要旨は次の通り。**********「悪徳と徳」についての講話、今日は「高慢」について考えたいと思います。

古代ギリシャ人は「高慢」を、「過剰な輝き」とでも訳せる言葉で定義していました。「高慢」とは、「自画自賛」「うぬぼれ」「虚栄」です。この定義は、イエスが、人間の心から出る悪い思いを説明するために列挙された一連の悪徳の中にも出てきます( マルコ福音書7章22節)。

「高慢」な人とは、自分を実際よりもずっと優れていると考えている人、他者よりも偉大だと思われたくてたまらない人、いつも自分の功績を認められたい人、他者を自分より劣っていると思い見下す人のことです。このような特徴から、「高慢」の悪徳は、前回取り扱った「虚栄」とよく似ているように見えます。しかし、「虚栄」が人間の自我の病だとしても、高慢がもたらす可能性のある「破壊」と比べるなら、それはまだ、子どもっぽい病です。

 古代の修道者たちは、人間の狂気を分析し、一連の悪の中にある種の秩序を見出していました。たとえば暴食のような粗野な罪から始まり、最も心配される恐ろしい悪徳にたどりつきます。すべての悪徳の中で「高慢」は、堂々たる”女王”です。ダンテは『神曲』の中で、高慢を、煉獄の最初の額縁の中にはめ込んでいます。高慢に陥る者は、神から離れた者です。この悪の矯正には、キリスト者が立ち向かうべき他のあらゆる闘いよりも、時間と努力を要します。

 そして、この悪の背後には、深く根付いた罪が隠されている。それは、「神のようでありたい」という、途方もないうぬぼれです。『創世記』に語られる私たちの祖先の罪は、つまるところ、「高慢の罪」です。アダムとエバに、誘惑者はこう唆します―「それを食べると目が開け、神のように… なる」(創世記3章5節)。霊性の作家たちは、日常生活の中で高慢に陥る時のことを注意深く記し、それが、いかに人間関係を台無しにし、兄弟愛の感情を毒するかを語っています。

 高慢の悪徳の症状には、まず、謙虚になる、ということがありません。容易に人を見下す。イエスの「裁いてはならない」という教えを忘れています。建設的な小さな批判、あるいはまったく無害な所見を述べただけで、烈火のごとく怒り、何事にも憤慨し、他者との関係を恨みをもって断ち切ってしまいます。

 高慢に病んだ人には、どうすることもできません。話しかけることも、正すこともできない。彼は自分自身のことを分かっていないからです。このような人に対しては、ひたすら忍耐するしかありません。なぜなら、彼の建物はいつか崩れるからです。イタリアのことわざに、「高慢は馬で行き、歩いて帰る」というのがあります。

 福音書の中で、イエスは多くの高慢な人たちと関わられます。ペトロは自分の忠誠を誇示し、「たとえ、皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません」(マタイ26章33節)と言いましたが、すぐに他の者たちと同じ体験をすることになります。ペトロも、死を前にして恐れました。もう顔を上げることもできず、苦い涙を流しましたが、イエスに癒され、ついには教会の重みを支えることのできる者になったのです。

 「救い」は謙遜を通して来ます。「謙遜」はあらゆる高慢な態度の”治療薬です。主への賛歌「マニフィカト」の中で、マリアは、「思い上がる者の病んだ心の思いを打ち散らす神」を高らかに歌い上げます。

 この四旬節を、私たち自身の高慢と闘う機会にしましょう。

(編集「カトリック・あい」)

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2024年3月7日