◎教皇連続講話「悪徳と美徳」④「情欲の悪魔に抵抗し、純粋な愛を抱け」

(2024.1.17 Vatican News  Deborah Castellano Lubov)
 教皇フランシスコは17日、水曜恒例の一般謁見で「悪徳と美徳」をテーマとする講話を続けられ、今回は「情欲」という悪徳を取り上げ、「愛の純粋さをしっかりと心に抱き、空虚と隷属につながる渇望に立ち向かうように」と強く訴えられた。
*悪徳に汚されない純粋な愛
 教皇は、キリスト教の教義が性本能を非難していないことを指摘。「人が恋に落ちることは、最も美しく優しい経験の一つです」とされ、「それが悪徳に汚されていないなら、恋に落ちることは、最も純粋な感情。恋をしている人に『なぜ愛するのですか』と尋ねても、答えは見つからないでしょう。多くの点で、その愛は無条件なものであり、理性を超えているのです」と語られた。
 しかし、「恋人たちは、忍耐強くあらねばなりません。彼らの愛は、非常に強力ですが、最初は少し”世間知らず”かも知れません。相手の本当の顔を知らず、理想化する傾向があります。そのことの重みを理解できないまま、約束しようとします」と注意された。
 さらに教皇は、「驚きが何倍にも増えるこの”庭園”は、悪から安全ではありません。”情欲の悪魔”によって汚される可能性があり、この悪徳は少なくとも2つの理由から特に忌まわしいものなのです。それは、情欲が人々の間の関係を破壊すること、情欲が個人の自由を奪う可能性があることの2つです」と指摘。
 「情欲は、純粋で純真な愛のすべての美しさを嘲笑し、略奪するもの。それはすべての感覚に関係し、身体と精神の両方に宿ります。忍耐強くなければ、それが二人の関係、愛の舞に変える物語に刻まれていなければ、それは鎖となり、 人間の自由を奪う鎖になってしまう」と警告された。

 そして、「 情欲は、神が私たちの心に植え付けられた愛、他者との関係の中で特に性の責任ある使い方を通じて育むよう求められた愛の美しさに反するもの」と指摘。「 この強力な悪徳は、愛を、その存在の神秘的な豊かさのすべてにおいて他者を受け入れる忍耐強い寛大さから、所有欲と即時的な満足を求める利己的な欲望に変える、愛の純粋さを毒します」と強く批判された。

 一方で教皇は、「神の性的な賜物が、夫婦愛の崇高な表現となり、人間としての充足と真の自由に役立っている」ことも指摘された。

 また、「情欲との戦いに勝つために、生涯にわたる努力が必要となる可能性がありますが、その”戦利品”は何よりも重要です。それは、神が男女間の愛を想起された人類の創造に書き込まれた美しさを保持することだからです」と説明。

 さらに、「その美しさは、冒険に出かけるよりも、共に物語を紡ぐ方が良い、所有の悪魔に屈するよりも優しさを育む方が良い、征服するより奉仕する方が良い、と私たちに信じさせる。愛がなければ、人生は孤独だからです」と語られた。

 最後に教皇は、「私たちに対する神ご自身の無条件の愛の神秘を分かち合う素晴らしさを、私たちが心から、いつも常に大切にしますように」と祈られ、講話を締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

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2024年1月17日