「イエスは、よく食べ、皆でワインを飲むことは悪いことではない、と考えておられましたし、ケーキを一切れ食べただけで罪悪感を感じる必要はありません」と前置きされた教皇は、「しかし、私たちの食物との均衡を欠いた関係が、地球に、そして私たちの心にダメージを与える可能性があることに、私たちは注意を払う必要があります…『日ごとの糧』を当たり前のように思ったり、歪めたりすることが、 ゆっくりと、確実に、地球を壊していく可能性があるのです」と注意された。
また 教皇は、特に比較的裕福な国々において、食品との関係が、他の国々よりもさらに歪んだり不均衡になったりする社会的傾向に注意を向けられ、「世界中で多くの人が飢える一方で、頻繁に大量の食料を無駄にしている社会が存在します。そうした中で、私たちは、適度な食習慣を通して社会的責任を果たす必要があります」と述べられた。
さらに 「食べ物は内面にあるもの-バランスを取る傾向と節度のなさ、感謝する心と自律性への傲慢な主張、貧しい人々と食べ物を分け合う方法を知っている人の共感、自分のためにあらゆる物を買いだめする人の利己主義など-を表します」とも語られた。
続けて教皇は、「人がどのように食べるかで、その人の魂についての何かが明らかにされます… 私たちは生きるために食べるのであって、食べるために生きているのではありません」とも指摘された。
教皇はまた、「個人的なように見える私たちの消費行動も、社会や地球全体に影響を与える可能性があります。そして、暴食は、おそらく『地球を滅ぼす最も危険な悪徳』といえるでしょう」とされ、「過去数世紀にわたり、地球の環境に対して激しい攻撃を続けて来た私たちの貪欲さは、 すべての人の未来を危険にさらしているのです」と説かれた。
講話の最後に教皇は、「私たちは、すべてのものの管理を委ねられる一方で、すべてのものの支配者になろうと、あらゆる獲物に飛びついて来ました。ここに、大きな罪、腹の底からの怒りがあります。私たちは人の名を汚し、『消費者』という別の名を名乗ってきました」と反省され、「私たちが外部からどのように見られているかについて、どれほど無関心か」と嘆かれた。
また、「私たちは感謝して、地球を慎重に利用する『聖餐の男女』として造られたにもかかわらず、『捕食者』に変わってしまった。そして今、私たちは『大食い』が大きな害を及ぼしていることに、気が付いています」と注意され、”しらふ”で前に進めるように、主に願うことを信者たちに求められた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)