(Vatican Media)
(2024.1.3 Vatican News Devin Watkins) 教皇フランシスコは年初3日の水曜恒例一般謁見で、「悪徳と美徳」についての連続講話を続けられた。
今回は、「霊的闘い」についての考察に焦点を当てられ、「キリスト教徒の生活は、霊的な闘いを恵みの瞬間に変える機会に満ちている」こと強調された。
講話で 教皇は、「私たちキリスト教徒の生活は、決して直線的なものでも、闘いのないものではありません。むしろ『継続的な闘い』が必要なのです」と語られた。
そして、洗礼の際に額に注がれる油を取り上げ、「まるで『人生は闘いである』と告げているかのように、その油には香料が含まれていません」と指摘。
「求道者に油が注がれると、キリスト教徒が闘いを免れないことが、すぐに明らかになります… 人生は試練と誘惑の連続なので、私たちも、他のすべての人と同じように、その闘技場に上がらねばならないのです」と説かれた。
続けて教皇は、「
しかし、誘惑は、神の恵みが私たちの内に働くことを可能にする機会でもあります」とされ、 「修道院を初めて開かれた聖アントニウス(251年頃 – 356年)はこう言いました-『誘惑を取り除けば、誰も救われない』と」。
さらに、「自らの罪を赦すキリスト教徒は、もはや善と悪の区別がつかず、それゆえ暗闇の中で生きる危険があります」とされたうえ、 「私たちは皆、父なる神の無限の憐れみにとって『罪は大きすぎる』という確信を心に持ちながら、『回心を必要とする貧しい罪人である自分』を認める恵みを、神に求めなければなりません」と説かれた。
教皇はまた、「すべての罪から解放されているイエスでさえも、ご自分を洗礼のために差し出され、 洗礼を受けられた後、荒れ野に向かわれ、サタンの誘惑を受けられました。私たちが常に直面する準備をせねばならないことを経験されたのです」と指摘された。
「人生は、課題、試練、岐路、相反するビジョン、隠れた誘惑、相反する声で構成されています」と語られた教皇は、信者たちに、「対立する両極端-憎しみと慈善の行い、 悲しみと聖霊の真の喜び、 かたくなな心と慈悲の心-の間で、日々”綱渡り”をするように」と促された。
講話の最後に教皇は、「悪徳と美徳を振り返ることで、私たちは、善と悪の輪郭が曖昧なままの虚無的な文化を克服できます」とされ、「悪徳と美徳について考えることは、『人間は、他の生き物とは異なり、いつでも自分自身を超越し、神に対して心を開き、聖性へ向かって歩むことができる存在なのだ』ということを思い出させてくれます」と付け加えられた。
そして、「霊的な闘いは、私たちを鎖に繋ぐ『悪徳』を、注意深く見つめ、神の恵みと共に私たちの中で開花し、私たちの人生に聖霊の春をもたらす『美徳』に向かって歩むように、私たちを導くのです」と締めくくられた。