(2023.4.12 バチカン放送)
教皇フランシスコは12日の水曜恒例の一般謁見で、「使徒的熱意」をテーマにした連続講話を再開され、”福音宣教の情熱の証人”使徒聖パウロをめぐる考察をなさった。
要旨は次のとおり。
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「悪しき日にあってよく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を取りなさい。つまり、立って、真理の帯を締め、正義の胸当てを着け、平和の福音を告げる備えを履物としなさい」(エフェソの信徒への手紙6章13-15節)。
先々週、聖パウロの福音にかける情熱について考えました。今日は、パウロ自身が話し、書簡の中で記している彼の福音への熱意をめぐり、より深く考察したいと思います。
パウロは、自身の経験により、人を間違った方向へと導く、誤った情熱の危険性を無視することはできませんでした。パウロもダマスコ途上での摂理的な回心以前に、この危険に陥ったからです。キリスト教共同体にとって、間違った方向性をもった熱心、単に人工的な古めかしい決まり事のひたすらな厳守に、私たちもしばしば出会うことがあります.。パウロはこうしたことについて、「あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません」(ガラテヤの信徒への手紙4章17節)と記しています。
では、パウロにとって、福音への真の情熱とはどのような特徴を持っているのでしょうか。それを知るためには、「エフェソの信徒への手紙」でパウロが霊的戦いのために身に着けることを勧める「神の武具」のリストが役立つでしょう。彼が示すこれらの勧めの中に、「平和の福音を告げる準備を履物としなさい」というものがあります。ここでは「平和の福音を告げる準備」、すなわち福音への「熱意」が「履物」としてたとえられています。
このたとえでパウロは、預言者イザヤの次の言葉を意識しています。「なんと美しいことか 山々の上で良い知らせを伝える者の足は 平和を告げ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ シオンに『あなたの神は王となった』と言う者の足は」(イザヤ書52章7節)。
「イザヤ書」でも、良い知らせをもたらす者の「足」について言及されています。それは、知らせをもたらす者は動き、歩まなければならないからです。パウロがこの「履物」を「武具」の一部と捉えていることに注目しましょう。戦いにおいては、地面に仕掛けられた罠を避け、正しい方向に走り、行動するために、足元の安定が不可欠だからです。
福音的熱心は、告知の上に立つものであり、福音宣教者はキリストの体、すなわち教会の、足のようなものに多少似ています。動くこと、「外に出る」こと、自ら働きかけることなしに、宣教はありえません。
オフィスに閉じこもり、机やコンピューターの前にとどまり、アイデアを「コピー・貼り付け」するだけでは福音を告げることはできません。福音は動きながら、歩みながら、進みながら、告げ知らせるものです。
パウロが使った福音を告げる者の履物を示す言葉は、ギリシャ語で準備が整っていること、熱意を表す言葉です。それは、なおざりな、おろそかにする態度とは対極をなしている。事実、パウロは他の書簡でも、「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい」(ローマの信徒への手紙12章11節)と述べています。この態度は「出エジプト記」で、「食べる時は、腰に帯を締め、足にサンダルを履き、手に杖を持って、急いで食べなさい。これが主の過越である」(出エジプト記12章11節)と言われる、主の過越を記念するために要求される態度なのです。
福音を告げる者は、出発の支度が整っています。そして、主が驚くべき方法で過ぎ越されることを知っています。それゆえに、規範から自由で、思いがけない、新しい行動に対する準備ができているのです。
福音を告げる者は、「もっともらしさ」や「いつもこうあるべき」という檻(おり)の中で化石のようになることはない。この世に属さない叡智に従う心構えを持っています。それは、パウロの次の言葉にも明らかです。「私の言葉も、私の宣教も、知恵にあふれた言葉によるものではなく、霊と力の証明によるものでした。それは、あなたがたが人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためでした」(コリントの信徒への手紙1・2章4-5節)。
福音の新しさに対するこの心構え、この情熱、自ら取り組み、先駆けとなる態度は重要です。それは、キリストだけが与えることのできる平和、その平和の福音を告げる機会を逃さない態度なのです。
(編集「カトリック・あい」=聖書の引用の日本語訳は「聖書協会・共同訳」を使用)