☩「教会共同体の中に復活された方を捜し求めよ」復活節第二主日の正午Regina Coeliの祈りで

(2023.4.16 Vatican News   Christopher Wells)

 教皇フランシスコは16日、復活節第二主日「聖なる慈しみの日」の正午のRegina Coeliの祈りの説教で、「復活されたイエスを見つけるために、教会の中にとどまる必要がある」とされたうえで、「神の憐れみから誰も排除せず、人生で傷ついたすべての人を迎え入れるように」と信徒たちに求められた。

 説教で教皇は、この日のミサで読まれた福音(ヨハネ福音書20章24‐29節)で、復活されたイエスが弟子たちに出現された時に、弟子のひとりのトマスが居合わせず、「イエスの釘跡に指を、脇腹に手を入れなければ信じない」と復活を疑った箇所を取り上げ、「イエスが復活されたことを信じるのに困難を感じたのは、彼だけではありませんでした」とされた。

 イエスが出現された時、「他の弟子たちは、自分たちのいる家の戸に鍵をかけ、上の部屋に閉じこもっていましたが、トマスは彼らと違って、勇気を奮い、誰かに見とがめられ、通報されたり、逮捕されたりする危険を冒して、外に出ていたのです」。それで、「他の弟子たちから『私たちは主を見た』と言われると、『イエスの体の傷を見、触れることができない限り、あなたがたの言うことを信じられない』と答えたのです」と指摘。

  そして、「トマスは、『傷に触れる』という、どんでもない”しるし”を求め、 イエスはそれにお応えになりますが、教会共同体においては、どの信徒の前にも、”ごく普通のなさり方”でおいでになるのです」とされ、「イエスは教会共同体で、ご自分であることを知らせ、それは、共同体の面前で、弟子たちにご自分の傷をお見せになる、ということ、それはご自分の愛の証し、慈しみの絶え間ない流れ、なのです」と語られた。

 続けて教皇は、「私たちはトマスのように、復活された方を、華々しい、あるいは驚くような宗教的な、感動的あるいは扇情的な顕現のようなものの中にではなく、信徒たちの共同体―教会の中に探し求めるように招かれているのです」と説かれ、「私たち自身の限界と失敗が、そのすべてであるにもかかわらず、私たちの母なる教会は、キリストの体。そして、その体にこそ、キリストの愛の最大のしるしが、今もそして永遠に見出され、印象づけられるのです」と強調された。

 説教の最後に、「私たちが果たして、この愛の名の下に、イエスの傷の名の下に、人生で傷ついた人々に進んで腕を広げ、神の慈しみから誰も排除せず、すべての人を兄弟のように、姉妹のように歓迎しているかどうか」と自らに問い直すように勧められた。

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 バチカン放送による教皇の説教原文の日本語訳要旨は次のとおり。

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 今日、「神の慈しみの主日」、福音は復活されたイエスの弟子たちへの二度の出現を語っている。その中では特に「懐疑的な使徒」トマスのエピソードへの言及( ヨハネ福音書20章24-29節参照)があります。

 実際には、トマスだけがイエスの復活を信じるのに苦労したわけではありません。むしろ、トマスは私たち皆を、少しずつ代表しているのです。トマスの場合のように、大きな失望にあった時、信じることは容易ではありません。危険に接し、困難を乗り越えながら、何年もイエスに従いましたが、師イエスが犯罪人のように十字架につけられ、誰もイエスに対し、解放することも、何をすることもできませんでした。イエスは死に、皆が恐れを抱きます。これ以上何が信じられるでしょうか…

 それでも、トマスには勇気があることが分かります。皆が上の部屋に閉じこもっていた時、誰かに気づかれたり、密告されたり、逮捕されたりする危険を冒しながらも、外に出て行ったからです。むしろ、その勇気ゆえに、他の弟子たちに比べ、復活した主と出会うのに値していたとさえ言えます。

 ところが、仲間の弟子たちと一緒にいなかった時に、イエスが弟子たちの前に現れ、トマスは復活の主と会う機会をのがしてしまった。トマスがイエスと出会う機会を得たのは、まさにその仲間のもとに帰ることを通してでした。トマスが帰った時、他の弟子たちから「イエスが来られた」ことを聞きますが、「あの方の傷を見るまでは信じない」と言います。イエスはトマスの希望をかなえ、八日後に再び弟子たちの間に現れ、ご自身の愛のしるし―常に開かれた慈しみの水路-である傷をお示しになりました。

 この出来事について考えてみましょう。トマスは信じるために「傷に触れる」という「特別」なしるしを求め、イエスはそれに応じられました。しかし、それは「いつも」の形を通してでした。イエスは皆の前で、共同体の中で、それを示されたのです。それはまるで、「自分に会いたいなら、遠くを探さず、皆の中に残りなさい、皆を残して行かずに、共に祈り、パンを裂きなさい」と言われているかのようです。そして、そこでイエスは、憎しみに勝つ愛、復讐の武装を解くしるし、死に勝利する命のしるしとして、ご自身の体に刻まれた傷を見せられるのです。

 イエスのトマスへの呼びかけは、私たちへの呼びかけでもあります。私たちはどこに、復活の主を探し求めるのでしょうか。何かの特別な行事や、特殊な感動や感覚の中にでしょうか。それとも、いろいろな問題を抱え、不完全ではあっても、自分たちの共同体や教会の中にでしょうか。

 その限界やつまづきにもかかわらず、私たちの母なる教会は、キリストの体。そこに、神の愛の最も偉大なしるしが刻まれています。その愛の名のもとに、イエスの傷の名のもとに、人生に傷ついた人に腕を広げ、神の慈しみから誰も除外されないように、すべての人を兄弟姉妹として受け入れられるように祈りましょう。

 慈しみの母、マリアよ、私たちが教会を愛せるように、そして教会が皆を温かく迎える家となるように、お助けください。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

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2023年4月16日