◎教皇連続講話「主の祈り」⑪「キリスト者が願うの『私のパン』ではなく『私たち』のパンであるはずだ」

(2019.3.27 バチカン放送)

 教皇フランシスコは27日、バチカンの聖ペトロ広場で水曜恒例の一般謁見を行われ、その中で「主の祈り」をテーマとするカテケーシス(教会の教えの解説)と続けられた。

 11回目の今回は、「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」という部分を考察され、まず、「このイエスの祈りは、物乞いにも似た切実さに満ちています。それは、私たちが自己充足的な存在ではなく、毎日、『養われるべき存在』だということを、思い出させてくれます」と語られた。

 そして、「聖書の中で、イエスと出会う人々は、『何かを願う』ことで自分を実現します… イエスの心を動かすものは『洗練された嘆願』ではなく、むしろ、食べ物、癒し、清め、愛する人の回復など、人々の生活に密着した、具体的で日常的な願いや苦しみであり、イエスは人々のこれらの求めに無関心ではいられませんでした」「イエスは、毎日のパンを御父に願うことを教え、生活の不安を日常的に抱える人々の声なき叫びに、私たちも心を寄せるように、求めれおられます」と述べられた。

 さらに、「キリスト者が祈りを通して願うものは『私のパン』ではなく『私たちのパン』」とされ、イエスは、日ごとの糧を「自分だけのためではなく、世界の全兄弟たちのため」に求めるように教えておられ、そのように祈らないなら、「『主の祈り』はキリスト教の祈りではなくなってしいます」と強調された。

 また、「神が私たちの御父であるなら、私たちが互いに手を取り合うことなしに、神の御前に出ることができるでしょうか」と問いかけ、この祈りに含まれている共感と連帯の態度を示された。「自分の空腹の中に、多くの人々の空腹を感じ、これらの人々の願いが神に聞き入れられるようにと祈る。イエスはこのように『私たちは皆、あなたの子です。御父よ、私たちを憐れんでください!』と、すべての人々が必要とするものを神の前に願い出るよう、ご自身の共同体、ご自分の教会に教えられたのです」と話された。

 だが、このような教えに反して、「私たちが祈りの中で主に願うパンと同じパンが、私たちが神に叱られる原因にもなりえます」とし、「人類全体に贈られたパンが、他の人々と分かち合われることなく、一部の人だけに食べられることは、神の愛にとっても、私たちの愛にとっても耐えがたいことです」と世界で起きている現実を嘆かれた。

 そして、イエスが群衆に食べさせるために、一人の少年が差し出した「パン5つと魚2匹」を増やした奇跡(ヨハネ6章)を思い起こされた教皇は「この少年は『主の祈り』が教えることを理解し、食べ物を自分だけのものとせず、神の恵みと共に分かち合うことを知っていました」「この時イエスが行った真の奇跡は、増やすことだけではなく、分かち合うことだった」と指摘され、「そして、イエスがこのパンを裂き与える奇跡を通して、ご自身そのものをパンとして捧げることを先取りしたように、イエスの聖体こそが、すべての人の限りない飢えと神を求める願望を満たすことができるのです」と締めくくられた。

(編集「カトリック・あい」)

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2019年3月28日