(2019.3.6 バチカン放送)
教皇フランシスコは6日のバチカンでの一般謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、「主の祈り」の中の「み国が来ますように」の箇所を考察された。
「主の祈り」では、「み名が聖とされますように」と願った後、「み国が来ますように」と、神の王国の到来を待ち望む気持ちを表す。神のみ国の到来に対するこの願いは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ福音書1章15節)と、ガリラヤでの宣教開始の際に表明された「イエスご自身の心から湧き出る渇望です」と教皇は話された。
そして、「イエスのこの言葉は脅しではなく、喜びのメッセージ」とされ、イエスは「やがて来る神の裁きによって人々に恐怖を与えながら回心を迫る」のではなく、「救いの善 き知らせを告げ、そこから人々を回心へとお招きになるのです」と説明。「み国の訪れのしるしは、すべて前向きなもの」であり、イエスは公生活を「人々の心身の癒しや、疎外された人々への奉仕」から始められたことを指摘された。
さらに教皇は「多くの罪や、苦しみ、戦争、様々な形の搾取などに満ちたこの世の現実は、キリストの勝利をより一層行き渡らせる必要があることを示しています」と語られ、こうした中で、「天におられる私たちの父」に向けた「み国が来ますように」という祈りが、「キリスト者の口に自然に上ってくるのです」と話された。
また、私たちは「なぜ神のみ国の実現は、これほどゆっくりしているのだろう」と思うことがあるが、神のみ国は「麦と毒麦が共に育つ畑」(マタイ福音書13章24-30節参照)に似ており、「神は、私たちと違って、毒麦に見えるものを急いで抜くことのない、忍耐に満ちた方」とされた。
教皇は「神のみ国は非常に大きな力を持っているが、それはこの世の基準とは異なるもの」とも述べ、「神のみ国は絶対多数には属さず、イエスのたとえにあるように、パン種のように、一見隠れながら、全体を膨らませるものです」とも話された。
神のみ国の発展に似て、イエスの人生も、同時代人や当時の歴史家の目には、微かなしるしでしかなかったが、「一粒の麦」は地の中に落ちて死ぬことで「多くの実を結ぶ」(ヨハネ福音書12章24節参照)とイエスご自身がたとえておられるように、「神の国は、神の業として、まかれた種のように成長していく」(マルコ福音書4章27節参照)とされ、「神は常に私たちに先立ち、常に私たちを驚かされます。神のおかげで、聖金曜日の夜の後には、復活の朝日が昇り、全世界を希望で照らすことになったのです」と語られた。
最後に教皇はこのように呼びかけ、祈られた。「『み国が来ますように』という祈りの種を、私たちの罪や失敗の中にまきましょう。苦しむ人と助けを求める人のために。聖霊は、この言葉で、全ての聖書の言葉を強く印象づけるのですー『然り、私はすぐに来る』(黙示録22章20節)。アーメン。来てください。主イエスよ!」。
(編集「カトリック・あい」・最後の部分は、バチカンの公式発表文英語版をもとに手直ししました。聖書からの引用は「聖書 聖書協会共同訳」を使用)