♰「四旬節は『私のところに戻りなさい』のメッセージ付き”目覚ましコール”-灰の水曜日に

(2019.3.6 VaticanNews Linda Bordoni)

 教皇フランシスコは6日、ローマ・アベンチノの丘の聖サビーナ大聖堂で、四旬節の始まりを告げる灰の水曜日のミサを行われ、ミサ中の説教で、「慌ただしく、目的を見失うこともしばしばある生活のペースを落とし、私たちを惑わせる不必要なことがらを控え、この四旬節を”にしましょう」と信徒たちに呼びかけられた。そして、「このモーニングコールには、主が預言者の言葉を通して語られる『私のところに戻りなさい』というメッセージが付いています… 戻らねばならないとすれば、それは、私たちが横道に入ってしまっていることを意味するのです」と注意された。

 そして教皇は「四旬節は人生の方向を再発見する期間です。どの旅でもそうであるように、人生の旅で大事なのは目的地を見失わないこと」とされたうえで、旅をしている間に横道に入れば、先へ進めなくなる-「人生の旅で先に進む道を探し求めるかどうか、心地よさだけを考え、いくつか問題を解決して、つかの間の暮らしを楽しむことで満足するかどうか、をあなた方自身に問いかけなさい」と信徒たちに求められた。

 さらに、「何が(進むべき)方向でしょうか?」「健康を求めることですか?現在の多くの人が一番にそう言いますが、やがては消え去るものではありませんか?それは財産、幸せになるのでしょうか?」と問いかけられ、「私たちは、そのためにこの世にいるのではありません… 主が、この世での私たちの旅の目的地です。旅の方向は主に至るものでなければなりません」と答えを示された。

 灰の水曜日に私たちが受ける灰のしるしについて、教皇は、私たちが進むべき方向を見つける助けとなるサインであり、「私たちの心を占める多くの事柄-私たちが追い求め、日々心を悩ます、後に何も残らないもの-を(思い出させるための)注意信号です。どんなに懸命に働いても、このような人生からは何の富を得られないでしょう」と指摘され、世俗的な現実は「風に舞う塵のように消え去ります。地上の富はつかの間のもの、権力は過ぎ去り、成功者は衰えていきます」と語られた。

 また教皇は、「現在流行している”見栄っ張りの文化”-過ぎ去るもののために生きるように、私たちを促す文化-は大きな欺瞞です。それは火災のようなもの。火が消えれば、灰だけが残ります」と批判され、「四旬節は、私たちを、ほこりを追い求める幻想から私たちを解放する期間であり、この世ではなく神のために、地上的な虚偽ではなく天の永久の世界のために、物の奴隷の状態に置かれるのではなく神の子たちの自由のために、私たちは造られたのだ、ということを再発見するための期間なのです。私たちは今日、自らに問わねばなりませんー私は、どこに立つのですか?私は火災のため、それとも灰のために生きるのですか?と」

 そして、教皇は、福音が 偽善と虚飾ではなく、慈善、祈り、断食の三つの歩みを提示していることを、信徒たちに思い起こさせ、それは、消えてなくなることのない三つの現実に私たちを断ち戻させる行いであり、「祈りは神に、慈善は隣人に、そして断食は自分自身に、再会させます」とされ、「神、私の隣人、私の人生」は消え去ることのない現実であり、私たちはそこに投資せねばならない、と強調された。

 四旬節が私たちに注意を向けるよう求めているのは、「何よりもまず、全能の神-自分自身のために時間を見つけ神を忘れる、横並びのありふれた人生から解放してくださる方-に祈ること。それから、そして、慈善ー物を手に入れ、自分にとって良いなら、それはただ良いもの、と考える虚栄心から解放する行為-をもって、他の人々に注意を向けること。最後に、四旬節は、断食-物への執着と、心を麻痺させる俗念から解放する行為-をもって、私たちの心の内面を見つめるよう、促します。祈り、慈善、断食、この三つは永続する宝物への投資です」と説明された。

 また、私たちが外見、金、職業、趣味… 私たちを隷属させ、方向を見失わせる全てのもの、によって心がかき乱される危険を冒す時に、向かうべき方角を指示される必要性に注意を向け、「そうした状態にもかかわらず、私たちの心が、過ぎ去ることのないものに結びついていれば、自分自身を取り戻し、そうしたものから解放されます」とも言われた。

 最後に教皇は、「四旬節は、虚栄から心を自由にする恵みの時… 私たちを誘惑する耽溺から癒される時、耐えるものをじっと見つめる時」とされ、「十字架上のイエスは、私たちに天国への道を示す、人生の指針」として、十字架にかけられた方を見つめるように促された。

 さらに「この十字架から、イエスは私たちに、己に打ち勝つ力強い勇気を教えてくださいます」とし、「”消費者主義“の呪縛と自分本位の誘惑から、あくなき欲望から、満足しない性向から、そして貧しい人々の求めに心を閉じることから、自分自身を解放するように」と強く訴えられ、つぎのように結ばれたー主が求めておられるように生きることは容易でないが、その言葉は、私たちの目的地に導いてくれるもの、「私たちが愛の道を選ぶなら、終わりのない命を手に入れることになる。そして喜びに満たされるでしょう」、

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

 

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2019年3月7日