(2020.8.19 VaticanNews Christopher Wells)
教皇フランシスコは19日の水曜一般謁見のカテケーシスで「世界を癒すために」をテーマにした講話を続けられた。その中で教皇は現在の新型コロナウイルスの世界的大感染について、「貧しい人々の窮状と世界を支配する深刻な不平等を露呈しただけでなく、それをさらに悪化させた」と話された。
そして、この大感染に対して、私たちは、「この小さいが恐ろしいウイルス」のワクチンを見つけることだけでなく、「社会的不正、不平等、機会の不均等、そして最も弱い人々に対する保護の欠如、という、もっと大きなウイルス」を解消しなければならない、と強調。
その際、私たちは常に「貧しい人々を優先すること」を念頭に置く必要があり、それは政治的、イデオロギー的、あるいは党派的な動機からではなく、福音の核心にあるからだ、と指摘された。
さらに、教皇は、キリスト教徒は、イエスの模範に従い、「貧しい人、一番小さな人、病気の人、牢獄の人、社会から排除され、忘れられて人、食べる物と着る物のない人」の近くにいるかどうかで量られる、とされ、「それが、真のキリスト教徒の重要な基準… ごく一部のキリスト教徒の、ではなくキリスト教徒すべてにとっての義務。それが、教会全体にとっての使命なのです」と強調された。
また、貧しい人々を大切にする行為は、信仰、希望、愛の徳に根差したものであり、必要最低限にとどまらず、「共に歩み、彼らに私たちを宣教してもらうこと。彼らは苦しむキリストを良く知っており、私たちは、彼らの救いの経験、知恵、創造性を”感染”させてもらうことを、意味するのです」と説かれた。
教皇はまた、貧しい人々の近くにいることは、ウイルス大感染が止まった後に後遺症が続く中で、私たちが正常の状態を取り戻そうと努力する時、「不健全な社会構造」を克服するために働くことを意味する、とされる一方、この「正常」には、現代社会を特徴づけている「社会的不正と環境の悪化」の状態に戻ることは含まれてはならない、と指摘。
利益本意の経済ではなく、「貧しい人々に優先順位が与えられる必要がある」、神の愛から来るこの倫理的、社会的な要請は、人々、特に最も貧しい人々を考えた経済社会の構築だ、と訴えられた。そして、新型ウイルス感染症のワクチンが利用できるようになった場合、最も沢山のお金を持っている人よりも、最も必要としている人を優先すべきであり、 「もしワクチンの利用について、最も裕福な人に優先権が与えられるとしたら、どれほど悲しいことでしょう」とされた。
そして、大感染が起きている現在の財政援助の対象が、「疎外された人々の受け入れ、貧しい人々の生活向上、共通善、自然保護に貢献しない企業」に向けられるとしたら、酷いことた、疎外された人々の受け入れ、貧しい人々の生活向上、共通善、自然の保護ーの4つの貢献は、どのような企業に財政援助をするかの基準とせねばならない、と強調された。
最後に教皇は、今後について、貧しい人々や脆弱な人々が不当に扱われている今の世界で、新型ウイルスの大感染が再び激化するとしたら、私たちは世界を変えねばならない、とし、「完全な神の愛の医者、すなわち、体と心と社会を癒すイエスの模範をもって、私たちも今、この新型コロナウイルスという『目に見えない小さなウイルス』による感染症からの癒しと、社会の不正義という『目に見える大きなウイルス』の大感染からの癒しのために、行動する必要があります」と説かれ、「神の愛から出発し、辺境を中心に置き、最も貧しい人を一番にすることで、このようなことが実現するようにすること」を提案。
「さもなければ、現在の危機はさらに酷いものとなるでしょう」と警告されたうえで、次の祈りで講話を終えられた。
「今の世界の要請に応え、よりよい結果を生むために、主が私たちを助け、力をくださいますように」
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
バチカン放送日本語課翻訳による教皇のカテケーシスの全文は以下の通り。
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親愛なる兄弟姉妹の皆さん
新型コロナウイルスの大感染は、貧しい人々の困難な状況と、世界にはびこる大きな不平等を浮き上がらせました。ウイルスが誰にでも感染しながら、その破壊的な歩みを進める中で、大きな不平等と差別があぶり出されました。その不平等と差別は拡大しているのです。
こうしたことから、大感染への対応は、二つの側面を持っています。一つは、全世界で猛威を振るっている、(注:新型コロナウイルスという)「小さくても恐ろしいウイルス」の治療法を見つけること。そして、もう一つは、社会の不正義、機会の不平等、疎外、最も貧しい人々の保護の欠如といった「大きなウイルス」に対するケアをすること、です。
この2つのいやしの対応において、福音書は、不可欠な一つの選択を示しています。それは、貧しい人々への優先的配慮という選択です(参照:使徒的勧告「福音の喜び」195項)。これは政治的選択ではありません。イデオロギー的な、あるいは政党的な選択ではないのです。貧しい人への優先的な思いやりが、福音の中心。その選択を最初に行われたのは、イエスです。
先ほど耳を傾けた「コリントの信徒への手紙」(2 ・ 8章1節-2章9節)に、イエスは「豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた」とあります。イエスはこうして、わたしたちと同じ者となられました。福音の中心、イエスの福音の中心には、この選択があるのです。
イエスご自身が、神の身分でありながら、ご自分を脱ぎ捨て、人間と同じ者となられました。イエスは特権的な人生を求めず、僕の身分を選ばれました(フィリピの信徒への手紙2章6-7節参照)。僕となり、ご自分を無にされたのです。イエスは慎ましい家庭に生まれ、職人として仕事をされました。イエスは、その説教の始めに、神の国において、貧しい人々は幸いである、と告げました(参照:マタイ福音書5章3 節; ルカ福音書6章20節 ; 「福音の喜び」197項)。
病者や貧しい人々、疎外された人々の中にいて、神の慈しみ深い愛を示されました(参照:「カトリック教会のカテキズム」2444項)。当時、律法上、「清くない」とされた病者や重い皮膚病の人のところに行かれたため、しばしばイエスご自身、「清くない者」とみなされました。また、イエスは貧しい人々と共にいるために、リスクを負われました。
それゆえに、イエスの弟子たちは、貧しい人、小さき者、病者、囚人、疎外された人、忘れられた人、食べ物や服に事欠く人の近くにいるかどうかで、認められます(参照:マタイ福音書25章31-36節 ;「カトリック教会のカテキズム」2443項)。私たちは、マタイ福音書25章に、すべての人が裁かれる際の、基準を読むことができます。これは、真のキリスト者であるための、鍵となる基準です(参照:ガラテヤの信徒への手紙2章10節 ; 「福音の喜び」195項)。
ある人々は「この貧しい人への特別な愛は、一部の人たちの課題だ」と誤って考えるかもしれません。しかし、実際には、聖ヨハネ・パウロ2世も述べておられるように、それは全教会の使命です(参照:聖ヨハネ・パウロ2世、回勅「真の開発とは」42項)。「すべてのキリスト者、すべての共同体は、貧しい人々の解放と発展促進のための、神の道具となるように召されています」(「福音の喜び」187項)。
信仰、希望、愛は、必然的に、私たちを最も貧しい人々への、単なる必要な援助を越えた、特別な配慮へと導きます(「福音の喜び」198項)。そして、それは、私たちが共に歩き、苦しむキリストをよく知る彼らから福音化され、彼らの救いの体験、知恵、創造性から感化されることにつながります。(同)。
貧しい人たちと分かち合うことは、互いに豊かになることを意味します。そして、もし、彼らが未来を夢見ることを阻む、病んだ社会構造があるならば、私したちはそれを癒し、変えていくために、共に働かなければなりません(参照:同195項)。これが、私たちを極みまで愛されたキリストの愛へと導き、その愛は人間存在の辺境、片隅、最前線にまでもたらされます。辺境を中心に据えること、それは「私たちの生活の中心をキリストに置くこと」を意味します。キリストが「貧しくなられた」のは、ご自分の「貧しさ」によって、私たちが豊かになるためでした(参照: コリントの信徒への手紙2・ 8章9節)。
私たち皆が、新型ウイルス大感染の社会的影響を心配しています。多くの人が普通の生活を取り戻し、経済活動を再開することを望んでいます。それは当然のことです。しかし、その「普通の生活」が、社会の不正義や、環境の劣化を含んでいてはなりません。大感染は一つの危機です。危機から脱した時、以前とは同じではあり得ません。以前より良くなるか、悪くなるかです。私たちは、この危機から脱した時に、社会正義の点からも、環境の点からも、より良くなるよう努めねばなりません。
今日、私たちは何か新しいものを構築するチャンスに接しています。例えば、貧しい人々のために、単なる支援主義ではない、経済の統合的な発展を助けることができます。支援が悪いものだ、と言っているのではありません。支援事業は大切です。ボランティアは、イタリアの教会が持つ、最も素晴らしいシステムの一つです。しかし、私たちは、それをさらに超えて、支援を余儀なくするような問題そのものを、解決していかなくてはならないのです。
たとえば、尊厳ある仕事への就労機会の創出とはかけ離れた利潤追求など、救済策を講じない経済は、実際に社会を害しています(参照:「福音の喜び」204項)。現実の経済と乖離した、このような種類の利潤は、本来、普通の人々の利益のために還元されるべきものです(参照:回勅「ラウダート・シ」109項)。にもかかわらず、しばしば、「共通の家」としての地球環境が被った害に対して無関心であったりします。
貧しい人々を優先する選択、神の愛から来るこの倫理‐社会的要求は、人間、特に貧しい人を中心とした経済を考え、計画するように、私したちを刺激します。そして、新型ウイルス感染症の治療を、それを最も必要とする人々を優先しながら計画するように促します。
新型ウイルスのワクチンが、最も豊かな人々に優先して配分されるなら、それは悲しいことです。このワクチンが特定の国々の所有になり、万人のものにならないとしたら、悲しむべきことです。もし、私たちが注目している、大半が公金で賄われる経済援助のすべてが、疎外された人々の受け入れ、貧しい人々の生活向上、共通善、自然保護に貢献しない企業に対する支援に集中するとしたら、何と酷いことでしょう(同)。疎外された人々の受け入れ、貧しい人々の生活向上、共通善、自然の保護ーの4つは、どのような企業を支援するかの基準となるものです。
もし、このウイルスが、最も貧しい人々や弱い立場の人々を軽視するような世界で、再び猛威を振るうことがあるなら、私たちはこの世界を変えなくてはいけません。完全な神の愛の医者、すなわち、体と心と社会を癒すイエスの模範をもって、私たちも今、この新型コロナウイルスという「目に見えない小さなウイルス」による感染症からの癒しと、社会の不正義という「目に見える大きなウイルス」の大感染からの癒しのために、行動しなければいけません。
神の愛から出発し、辺境を中心に置き、最も貧しい人を一番にすることで、このようなことが実現するように、私は提案したいと思います。マタイ福音書25章にある、私たちが裁かれる際の基準を忘れないようにしましょう。これを感染症からの復興において実践しましょう。そして、この具体的な愛から出発し、希望にしっかりと結ばれ、信仰に基礎を置くことで、より健全な世界が可能となるように。そうでなければ、私たちは、この危機から良い形で脱せないでしょう。主が私たちを助け、私たちが、今日の世界の必要に応えながら、良い形で危機から脱する力を与えてくださいますように。
(編集「カトリック・あい」