◎教皇連続講話「ガラテヤの信徒への手紙」⑤「私たちは律法の下にない、神の子として生きる」

(2021.8.18 Vatican News By Christopher Wells)

   教皇フランシスコは18日の水曜恒例の一般謁見で、聖パウロの「ガラテヤの信徒への手紙」についての講話を続けられ、今回は、キリスト教徒にとっての律法の役割に関するパウロの理解を中心にお話しになった。

 教皇は冒頭、「イエス・キリストへの信仰による”約束の子供たち”は、もはや律法に縛られず、”福音の自由”という厳しい生き方に招かれている、ということを聖パウロは教えてくれました」とされ、「聖パウロにとって、信仰の受容は、”救いの歴史全体”と”私たち自身の個人的な物語”の両方の転機。信仰の中心にあるのは、イエスの死と復活。パウロは、それを、救いの”洗礼盤”、神の子への信仰を支えるものと説いたのです」と語られた。

 そして、キリスト教徒にとって、「信じる者となる前」と「信仰を受けた後」の期間があり、それゆえに、「律法そのものに関しても『前』と『後』がある」と指摘され、「信仰を受ける前の時期に『律法の下にある』ことは、見張られ、閉じ込められる、”予防拘留”のような否定的な意味を持ちます」と述べられた。

 

*律法には”予備知識”としての価値

 さらに教皇は「律法は、それを破ることが何を意味するのかを、私たちに認識させ、また人々に自分の罪を認識させます。ある意味で、それは『違反を刺激する』ことになります」と語られ、教育者としての聖パウロの律法についてのイメージを用いて、「律法は”限定的”な機能を持つ一方で、イスラエルの民を守り支えるためにも役立ちましたー弱い彼らを教え、鍛え、支えました」と説かれた。

 このように、律法には前向きの機能があったにもかかわらず、”時の制約”を受けていた。「子供が成人すると、もはや保護者を必要としなくなるように、人が信仰に達すると、律法は”予備知識”としての価値を失い、”別の権威”に道を譲らねばならなくなります」と教皇は述べる一方で、それでも「律法はまだ存在し、依然として重要です…律法の果たす役割については、慎重に検討する価値があり、”誤解”に道を譲ったり、”誤った措置”を講じたりすることはありません」と注意された。

 そして、「私たちがまだ律法を必要とする時代に生きているのか、それとも、『神の子供』他成り、愛のうちに生きる恵みを受けたことを十分に認識しているのかー自分自身に問いかけるのは、よいこと、よい質問です」と話され、さらに、「私は律法の戒めを軽んじるでしょうか。いいえ、それを尊重はします。ですが、絶対的なものとして見ることはしません。なぜなら、私を義とされるのはイエス・キリストだ、ということを知っているからです」と強調された。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

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2021年8月18日