◎教皇講話「山上の説教-八つの幸い」⑨「世との妥協を拒み、キリストの道を行くー天国の命に導かれる生き方」

 

2020.04.29 Udienza GeneralePope Francis at the General Audience on Wednesday  (Vatican Media)

 教皇フランシスコは29日、水曜恒例の一般謁見を、新型コロナ対策のためバチカン宮殿図書室からの動画配信の形で続けられた。その中で、新約聖書のイエスの「山上の説教」の「八つの幸い」をテーマにしたカテキーシスでは、最後、8番目の「幸い」-「義のために迫害された人々は、幸いである」(マタイ福音書5章10節)について、以下のようにお話しになった。をテーマにした講話は今回で最後となる。

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 親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 今日のカテケーシスで、「山上の説教―八つの幸い」をテーマにした一連の考察を終えたいと思います。

 先ほど耳を傾けたように、「八つの幸い」の終わりに、義のために迫害される人々の終末の喜びが宣言されます。この最後の教えが告げるのは、最初の教えと同じ「天の国はその人たちのものである」という幸いです。

 天の国は、心の貧しい人たちのものであるのと同様に、義のために迫害される人々のものでもあるのです。こうして、私たちは、「イエスの山上の説教の八つの幸いの教え」を一巡し、最後に一つのまとまりに到達したことが分かります。

 心の貧しさ、悲しむこと、柔和さ、義への渇き、憐れみ深さ、心の清さ、平和への努力は、キリストのために迫害を受けることにつながるかもしれません。しかし、その迫害は、最後には、天国での喜びと大きな報いをもたらすことになるのです。「八つの幸い」の道は、復活への歩みです。それはこの世に属した生き方から、神に属した生き方へ、肉すなわちエゴイズムに導かれた人生から、聖霊に導かれた人生へと向かわせるのです。

 この世は、その偶像と、妥協、彼らが優先したいものによって、このような生き方を認めてはくれません。「罪の構造」は、しばしば、真理の霊からこれほどにも遠い人間のメンタリティーから築かれます。世はこの霊を見ようとも知ろうともしません(ヨハネ福音14章17節参照)。

 世は、貧しさや、柔和さ、清さを否定することしかできず、福音が説く生き方を誤りや問題であるかのように、すなわち、「排除すべき何か」のように見なすのです。「彼らは理想主義者か、狂信者なのだ」と、世は考えるのです。

 もしも、この世がお金に従って動くなら、自分を差し出し、自己犠牲のうちに生きる人は誰でも、利益追求のシステムの中では、「目障りな存在」となってしまいます。この「目障り」という言葉は一つの鍵です。キリスト教的証しが多くの人に善いものをもたらすことが、世俗的メンタリティーを持つ人々には「目障り」なのです。

 聖性と共に、神の子らの生き方が現われる時、その美しさの中には、立場をはっきりさせるようにと招く、安定を揺さぶる何かを人に感じさせます。それは、人からとがめたてられ、敵意を持たれ、議論されても、自らを善に対して開くか、それとも、光を拒み、心をかたくなにするか(知恵の書2章14-15節参照)と問いかけるのです。

 殉教者たちの迫害において、敵意が憎悪にまでふくらむ様子は注視すべきものです。これは、ヨーロッパの前世紀の独裁体制において、キリスト者とその証し、英雄性に対して、いかに憎悪が形成されたかを見るだけで十分です。

 同時に、迫害のドラマは、この世の成功や、虚栄、妥協への隷属から自由な場所があることをも示しています。キリストのためにこの世から拒絶される人は、何を喜びとしているのでしょうか。その人は全世界よりも価値のある何かを見つけたことを喜んでいるのです。実際、「人が全世界を手に入れても、自分の命を損なうなら、何の得があろうか」(マルコ福音書8章36節)と言われるとおりです。

 今この時も世界の各地で迫害に苦しんでいる多くのキリスト教徒たちを、痛みと共に思い起します。彼らの苦難が一刻も早く終わることを希求し、祈らなければなりません。今日の殉教者たちは、初期のキリスト教時代よりも多いのです。これらの兄弟姉妹たちに私たちの連帯を伝えましょう。私たちは、唯一のからだです。これらのキリスト者たちは、キリストの神秘体、すなわち教会の、血を流している手足なのです。

 しかしながら、私たちは「真福八端」のこの教えを、被害者的、自己憐憫的な見方で読んではいけません。実際、人々から軽蔑は、常に迫害と同義というわけではありません。この教えのすぐ後で、イエスは、キリスト者とは「地の塩」であると言い、「塩に塩気がなくなる」ことがないように、注意しています。さもなければ、塩は「何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけ」(マタイ福音書5章13節)です。もちろん、私たちの過ちのせいで軽蔑されることもあるのです。それは、私たちがキリストと福音の味を失った時です。

 「八つの幸せ」の謙遜な道を忠実に歩まねばなりません。なぜならこれは、この世ではなく、キリストに属する者となるように導く道だからです。聖パウロの生涯を思い出してください。パウロが自分を正しいと思っていた時、実は彼は迫害者でした。しかし、自分が迫害者だと気が付いた時、「愛の人」となりました。そして、喜びをもって迫害の苦しみに立ち向かったのです(コロサイの信徒への手紙1章24節参照)。

 もし神が私たちに恵みを賜り、私たちを十字架に掛けられたキリストと似た者とし、イエスのご受難に私たちを一致させてくださるならば、締め出しと迫害は新しい命の現れなのです。この生き方は、私たち人間とその救いのために、「軽蔑され、人々に見捨てられた」(イザヤの預言53章3節、使徒言行録8章30-35節)キリストと同じものです。キリストの霊を受け入れることで、私たちは心に多くの愛を抱き、この世の欺瞞と妥協することなく、その拒絶を受け入れながら、命を世のために与えることができるでしょう。

 この世との妥協は危険です。キリスト者は常に、この世の精神に妥協する誘惑にさらされています。妥協を拒み、イエス・キリストの道を行くことーこれが最も大きな喜び、天国の命に導かれる生き方です。迫害の中には常に私たちに寄り添うイエスの存在があります。イエスは私たちを慰めてくださり、聖霊の力が私たちを前進させます。福音に忠実な生き方が人々の迫害を招く時も、勇気を失ってはなりません。この道において、聖霊が私たちを支えてくださるからです。

 

(編集「カトリック・あい」注:聖書の引用の日本語訳は原典に最も近く、現代日本語としてもきれいな、カトリック、プロテスタント共働で翻訳した最新の「聖書 聖書協会共同訳」を使用、「私」「命」などは同共同訳に原則としてならい、当用漢字表記に改めてあります。また「バチカン放送」の日本語訳にあった「真福八端」は”古語”であり、現在では一般の方には馴染みのない言葉になっているので、これも共同訳にならって、分かりやすい日本語に改めました)

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2020年4月30日