(評伝)第二バチカン公会議の貴重な体現者、闇にいる人たちを照らし続ける一本の蝋燭ー森司教の死を惜しむ

 闇の中にいる人たちを、風に揺らぎながらも照らし続けようとする一本の蝋燭… 東京教区で大司教の白柳枢機卿を補佐し、退任後は信濃町の真生会館を拠点に日本中の司祭、修道者、信徒、カトリック教員などの指導を続けた森・名誉司教を例えさせていただければ、そのようになるかも知れない。

 そして、「世界に窓を開き、喜びを持って共に歩もう」-第二バチカン公会議のメッセージを肌で感じ、受け止め、体現しようとする日本でただ一人残った高位聖職者として最後まで努力を続けた人。その得難い人材を、日本の教会は失ったのだ。

 もっとも、長年、森司教と身近かに接してきた方々の中には、「後ろから肩を押し、人をやる気にさせるが、自分は前に出ず、後ろを向くと姿が見えず、不安にさせる、それでも、希望は失わせない…」—そうした複雑な思いを胸にしている人のおられるだろう。それでも、普通の人なら「つまらない」とも思うような悩み事を、静かに聴き、受け入れてくれるやさしさ、本当に困ったときに的確に対応してくれる頼りがいのある、日本の聖職者には"稀な”人柄に、イエスの姿を見た人も少なくないだろう。

*二度の福音宣教推進全国会議、そして東京教区生涯養成委員会の活動を主導

 

 同じ小さな中学・高校の卒業生でありながら、年次が8年違うこともあり、私が森司教と初めて顔を合わせたのは、卒業から約20年後、ロンドンでの特派員勤務を終え、日本の住まいを埼玉から東京に移して間もなく、今から40年ほど前のことだった。当時、第二バチカン公会議で決定された「世界に開かれ、共に歩む教会」を目指す方針を受けて、日本でも、当時の東京大司教、白柳枢機卿と森補佐司教が事実上のリーダーとなって、二度にわたる福音宣教推進全国会議が開かれ、日本に合った改革を検討、その成果を東京教区でさらに進めるために一般信徒を中心とした「生涯養成委員会」が活動を始めており、そのメンバーになった。その委員会の担当が森司教で、月一回の全体会議で顔を合わせたのだった。

 「小教区運営委員研修」「日帰り講演会」「一泊交流会」の三つのチームに分かれたメンバーは、40代を中心に20人近く、ほとんどが現役で多忙だったが、事務局責任者のSr.石野(女子パウロ会)とともに森司教が支えてくれ、自由闊達な楽しい雰囲気の中で、様々なアイデアを持ち寄り、プログラムを実行していった。また、1960年代に開かれた第二バチカン公会議の精神が年と共に風化していくことを目の当たりにして、1年間にわたる連続講演会「第二バチカン公会議を私たちの歩む道」を企画した際にも、準備を背後から支援してくださり、講演集としてサンパウロ社から出版した際には、前文を寄稿してくださった。

 東京教区が「白柳・森」体制から「岡田・幸田」体制となり、それを機に、生涯養成員会が、一方的に、何の「総括」も、活動で育った数十人のメンバーに何の通知もなく、解散させられたことに対しては、”創業者”として色々なご苦労をされたと思われるが、結局、跡形もなく、消されてしまった。(現在の、東京教区のカテキスタ養成のための「生涯養成委員会」は、この委員会とは全く関係がない)

 補佐司教を引退された後、森司教は信濃町の真生会館の理事長となり、真生会館での講演、研修など様々な事業を指導され、全国の修道会や学校関係者の霊的指導なども、精力的に続けられ、私自身も二度目の海外勤務を終えた2010年以降、「学び合いの会」に森司教の勧めで参加し、箱根や山中湖などでの合宿にご一緒させていただいた。それ以外にも、時々、昼食にお誘いして、いろいろとお話ししたことも続いた。

*危篤の後輩の洗礼、そして某大司教人事の相談に乗ってくれた

 

 その十数年で、森司教に感謝していることが二つある。

 一つは、私の大学のクラブの後輩が危篤になり、奥様から「主人が洗礼を受けたい、と言っています。どうしたらいいでしょう」と友人を介して相談を受けた時のことだ。すぐに大学時代からの友人の司祭に、事情を話し、「洗礼を授けてくれないか」と頼んだところ、「いやだね。教会にも行ったことがないんだろう。それに、お前でも洗礼は授けられるんだから、自分でやればいい」という拒否回答。いろいろと対応を考えた挙句に、森司教に電話で事情を話すと「分かりました。私は予定があって無理だが、教区の事務局長に誰か探してもらいましょう」とすぐに手配していただき、若い司祭が快く応じてくれ、入院先の病室で洗礼を授けてくださった。ベッドに横たわった彼は、すでに言葉もしゃべれず、目もほとんど見えなくなっていたが、意識はしっかりしており、涙がこぼれたのを覚えている。

 もう一つは全く次元が違う話だ。某大司教区で、大司教が間もなく定年を迎えるという時、後継者として勝手に名乗りを上げている人物がいることを耳にした。その人物では、大司教区の「空白の・・年」を埋めるどころが、もっと後退しかねない。ある小司教区にまだ50代の適材がいる、と判断して、森司教に相談に行った。すると、「もしその気があるなら、(任命に大きな力がある)駐日バチカン大使に直接話しをするといい。急がないと『時間切れ』になってしまいますよ」と背中を押され、いささか出過ぎた振る舞い、とは思ったが、周到な準備をしたうえで、大使に会い、必死で説得した。それがどれほどの効果があったのかどうか、まさに神のみぞ知るだが、実現したのは確かだ…。

 困った時に、いやな顔一つせず、どんなことでも相談に乗ってくれる、頼りがいのある方だった。

 

*「カトリック・あい」創刊のきっかけとなった”ひとこと”

 また、森司教は、人の話を黙って聴いてくれるが、ご自分から「ああしたらどうですか」「こうしたらどうですか」と指示なさることはめったにない、自分たちの好きなようにやらせてくれる—というのが私だけでなく、少なくない方の印象だったように思う。だが一回だけ、そうでないことがあった。今から数年前のある日のことだ。二人で食事をしながら、カトリックの広報の問題などについて話をしていると、いきなり、「新聞やらない?」と言われたのだ。

 しばらく考えて、「紙の新聞を出すとなると、記事を書く取材記者、校閲記者などが必要で人件費がかさむし、印刷、配送などにも費用がかかる。そのうえ、カトリック新聞のように小教区などに購読を”強制”できればともかく、自分で売ろうとすれば、そのための人員、ネットワークも必要。物理的に無理です」と答えたうえで、「インターネット・メディアなら、出来ないことはないかも知れません。ただ、その場合、読者を確保するために、司教にコラムを毎月書いていただきたい。それと、毎月の編集会議の部屋を、真生会館に確保していただきたい」と逆提案。ただし、”本社”を真生会館に置くかない、資金援助はしない(これは「中立性」を守るためでもあり、内容について真生会館が責任を負うことはしない、という意味でもあった)ということで、OKがでた。幸いにも、高校や大学の後輩から同好の士が名乗りを上げてくれ、皆で資金を出し合って、2016年秋にスタートしたのが、「カトリック・あい」である。

 司教のコラムへの出稿は一年ほどで、「全国の女子修道会の指導を頼まれて忙しくなるから」ということで、中止となったが、スタート段階での”森コラムの人気”にも支えられて、購読者数は順調に増え、最新の8月一か月の閲覧件数も1万4000件を超えている。立派に独り立ちしたのだ。編集会議の部屋は今も、大木館長のご厚意で毎月貸していただいている。

*「『生きる』を見つめ、深める」の話を聴きたかった

 

 理事長を退任された森司教は、私たちが月一回、会議に使わせていただいている部屋の隣に、執務室兼会議室を”引っ越し”て来られたが、編集会議の前後は外出されていることが多く、コロナ感染の再拡大を警戒して8月26日の編集会議の際も、ZOOMで行ったため、お会いする機会がなかった。秋口になったら、現在の内外の情勢、日本や世界の教会のことなど、徹底的に意見を交わす時間をいただきたかったのだが、かなわなかった。

 それと、森司教は、9月、10月、11月と真生会館で三回連続の講座を予定されていた。タイトルは「私たちの『生きる』を見つめ、深める」。初回は亡くなる直前、9月9日の土曜日。久しぶりに”名調子”を聞きに出かけ、少々意地の悪い質問でもしてみようか、と考えていた矢先の訃報。「どうしたら、『生きる』を見つめ、深めることができるのか」、聞き損なった。

 またお会いできる日に、何をお話しになろうとしていたのか、ぜひ聞いてみたい。それまで、主と共に、安らかにお過ごしになりますように。

(「カトリック・あい」南條俊二)

 

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2023年9月3日