聖地巡礼から帰国しました 2016.12.6
先週末の土曜日夜、成田空港に夜8時頃に到着したターキッシュ航空便で、聖地巡礼から帰国しました。(写真上:ペトロの首位権教会でミサを司式する平賀司教)私と平賀司教を含め15名にパラダイス社の村上氏を含めた16名は、皆無事に帰国。巡礼は最終の二日間、エルサレム近郊で雨と風の寒い天気の中を歩いて回ったため、風邪を引かれた方も少なからずおられましたが、基本的には皆さんお元気です。感謝。前回の同じ時期は、地域の安全などへの不安もあったのか、聖地はどこに行ってもガラガラでした。ところが今回は巡礼者も観光客も戻っており、どこに行っても長蛇の列でした。それでも、毎日のミサを始め、祈る時間をしっかりととることもできました。
巡礼はガリラヤから始まって湖畔のティベリアに3泊して、イエスの足跡をたどり、その後は死海に向かって一泊、さらにベトレヘムに二泊してエルサレムを中心に歩きました。前半は温暖な晴れの日でした。(写真上:ガリラヤ湖畔の山上の垂訓の教会)
それでも最終日の出発前の最後のミサは、金曜日の夕刻にエンカレムのご訪問教会で、巡礼を振り返りながら落ち着いて捧げることができました。というのも木曜と金曜の雨と風で、巡礼者の足が鈍り、前半と比べると訪問者も少なかったためです。(写真上:エルサレム旧市街神殿の丘)
日本カトリック神学院ザビエル祭@東京キャンパス 11月23日
とても冷え込んだ勤労感謝の日の今日、日本カトリック神学院東京キャンパスで、恒例のザビエル祭が開催され、近隣にとどまらず遠方からも多くの方々が参加されました。
今年のテーマは「来なさい。そうすれば分かる」とされており、東京キャンパスの神学生(哲学1年と2年、そして助祭団)に加えて福岡キャンパスの神学生(神学1年、2年、3年)が加わり、神学生全員で実行されました。
わたしは実行委員会に依頼され、本日10時の開会ミサと、昼過ぎからの講演を担当させていただきました。今朝9時過ぎに武蔵関の駅から神学院へ歩いていると、前にも後ろにも、ザビエル祭に向かうとおぼしきたくさんの人影が。神学院の門前には、観光バスまでいるではありませんか。毎年のように、多くの方がこうやってザビエル祭に来られ、そして神学生のために、また召命のためにお祈りくださっています。
ミサは、合併前の東京の神学院を卒業した多くの司祭たちをはじめたくさんの教区司祭が駆けつけ、近隣の修道会司祭と神学院で養成にあたる司祭たちも全員そろい、若い司祭も大先輩の司祭も含めた、大司祭団の共同司式となりました。聖堂のあちらこちらには、黒のスータンに身を固めた神学生の姿が。あまりに多くの人が集まっているのと、背後に大司祭団が控えているので、説教は非常に緊張いたしました。
12時半からは、聖堂に集まった多くの方々を前に、講演をさせていただきました。テーマは、神学院祭のテーマである「来なさい。そうすれば分かる」とさせていただきましたが、内容は貧困とそれにいかに立ち向かうのか、というお話。テーマとの関連は、自分の殻に閉じこもっていては、福音の種をまくべき現実が見えてこないのだから、「来て、みなさい」です。自分の世界から足を踏み出すことによって、分かることがあります。そんな思いで、カリタスジャパンの活動で訪問した国や、ガーナでの宣教での体験をお話しし、貧困と格差の現実、そして貧困撲滅を目指し、神の望まれる世界を実現しようとすることは平和のための働きであることをお話しいたしました。
教皇フランシスコの、ランペドゥーザ島での司牧訪問の際の説教の言葉が、わたしたちに自分の世界から抜け出して、世界に広く関心を向けるように呼びかけています。無関心のグローバル化から抜け出すように呼びかけています。
「居心地の良さを求める文化は、私たちを自分のことばかり考えるようにして、他の人々の叫びに対して鈍感になり、見栄えは良いが空しいシャボン玉の中で生きるようにしてしまった。これが私たちに、はかなく空しい夢を与え、そのため私たちは他者へ関心を抱かなくなった。まさしく、これが私たちを無関心のグローバル化へと導いている。このグローバル化した世界で、私たちは無関心のグローバル化に落ち込んでしまった」