・Sr 岡のマリアの風㉟身近に起こると… 「インマヌエル」-「身近に」なる-

 一人暮らしの母が、詐欺電話を受けて、かなり怖い思いをしたらしい。妹からメールで連絡があった。

 孤独な思いに付け込んで脅すのは、たとえお金を取らなくても、それ自体で「犯罪」だ、と本当に思った。心の傷、人に対する不信、この世界は怖いものだ、ということがインプットされるから。

 「幸い、近くの地域交流センターの人に相談して、消費生活センターに電話して、アドバイスを受けて大丈夫だったらしい」と、妹。電気屋さんが来て、「詐欺撃退電話」に替える相談をする、と。

 ありがたかったのは、地域の人たちの支えだった。母は、「ちょっと面倒だけど…」と言いつつ、家から歩いて少しのところにある「地域交流センター」にたびたび通っている。本を借りたり、お茶を飲んでおしゃべりしたり、たわいのないことだけれど、「これから、地域の方にお世話になるかもしれないから」と、意識的に 最近では、地域の防災訓練や行事にも参加したそうだ。お互い顔も覚え、センターのスタッフたちは、とても親切にしてくださる、という。

 センターの所長さんは、父が生きていたころからずっと同じ人、それを生きがいにしているようなおじさんで、いつも気軽に声をかけてくださる。今回も、センターの方々が、親身になって具体的な対策をアドバイスしてくれたようだ。消費者センターへの電話を繋いでくれただけでなく(回線が混んでいて、なかなかつながらなかった)、母の様子から問題を察し、「今は、心が高ぶっているでしょうから、少し、ここで休んでいってください」と、コーヒーを出し、話を聞いてくださった。

 心配性の妹は、定期的にお母さんを訪ねてくれる、わたしたちが小さい時から家に来ていた、化粧品セールスのおばさんにも電話した。このおばさんは、殆ど化粧品など買わない、つまりお得意先ではない母を、特に父が帰天して母が一人になった後は、心配して、善意で(母が何も買わなくても 母に声をかけ、「健康チェック」をするために訪ねてくれている。野菜や、おかずを持って来てくれることもしばしばで、お母さんは助かっている。おばさんは、妹の連絡を受けて、その日に、母を訪ねてくれたらしい。たぶん、野菜などをもって(そこまでは聞いていないが)。

 教皇フランシスコは、ひじょうにしばしば、「共同体」としての歩みについて語っている。最近の使徒的勧告『喜びに喜べ』(2018年3月19日)の中でも、第二バチカン公会議文書を思い起こしながら、「神は、人々を個別的に、まったく相互のかかわりなしに聖化し救うのではなく、彼らを、真理に基づいて神を認め忠実に神に使える一つの民として確立することを望まれた」と、再確認している。

 「他者と隔絶した個人として単独で救われる人などはおらず、神は、人間共同体の中に示される複雑に交差した人間どうしのかかわりを大切になさりながら、ご自分のもとへとわたしたちを引き寄せて」くださり、さらに、神ご自身が「民の躍動の中に、民という躍動に、加わろうと望まれた」 と(6項)。

 現代のイギリスの ユダヤ教のラビ、Jonathan Sacks(ジョナサン・サックス)は、モーセ五書に関する彼の著作の中で、神がいかに辛抱強く、長い年月をかけて、人間の成長を見守ってきたかを、まさに聖書の「現実」の中で具体的にたどと意味するかのように」と考察している。

 人がひとりでいるのはよくないIt is not good for man to be alone』(創世記2章18 節)… わたしたちは一人で生きることは出来ない。それは、聖書の人間論の原理(公理)の一つである。ヘブライ語の「命」life、ĥayimは、複数形である。あたかも、命は本質的に分かち合われるものだと意味するかのように。

 Dean Ingeはかつて、宗教を、 個人が、彼自身の孤独とともに行うもの-what an individual does with his own solitude-と定義した。それは「ユダヤ教の見方ではない」(Jonathan Sacks, Exodus: TheBook of Redemption[試訳])。神は人間を男と女として造り、家族を形作り、やがて一つの「民」を形作る。イスラエルの民は、神と「同等」のパートナーとして契約を結ぶよう呼ばれる。

 母の「出来事」を通して、今までニュースで耳にし、「一人暮らしの高齢者の寂しさを利用してだまし、脅すなんて、ひどい」と思っていたことが、何か「異なる次元」で、わたしにとって現実的になった。わたし自身の心の中で憤りを感じたし、怖い思いをした母への、さらなる気遣いが生まれた。人は決して、一人で自分自身を救うことはできない、「いのち」は「寄り添い」の中で育まれる、という、ユダヤ教・キリスト教の根本にある原理を、今までよりさらに深く「実感」した。

 神は、わたしたち一人ひとりの内奥に自然に湧き上がる感情、思い…を、自ら「体験、実感」するために、ご自分が導き、忍耐をもって成長を見守ってきた民の「一員」となった。人間となった。その、分かっていたつもりの神秘が、わたしの心のさらに深くに入った、という経験だった。

 人となった神の御子、イエスは、幼少で、家長である養父の死を体験した。「正しい人」であったヨセフが、神のもとで永遠に生きるだろうことを確信しながらも、「人間の心」をもつイエスは、愛する人を失った悲しみ、一人残された母の孤独への共感を「体験」しただろう。

 やがてイエスは、大人になって、託された使命を実現するために、「善い知らせ」を人々に運んでいく。しかしそれは、家に母を一人残して出て行くことをも意味する。イエスは除々に、血のつながりから成る家族から、イエスのことばを信じることによって形成される家族へと、母を導き入れていくが、それは、母にとっても子にとっても、痛みを伴うものだっただろう。究極は、十字架の出来事における、母と子の姿である。

 イエスは、神であるから、「知恵」そのものであるから、すべてを知っていた。しかしそれは、死、別離、孤独、恐怖…という、自然に湧き上がる人間の感情を抜きにしてではなかっただろう。「神の痛み」については、神学的にいろいろ議論されるが、少なくともわたしは、イエスが、人間としての究極の怖れ、苦しみを体験した、それこそ、神が「人となった」という神秘(ヨハネ福音書1 章14節参照)だと信じる。

 わたしたちは、さまざまな人間の苦しみ、怖れ、痛みを、メディアを通して知り、共感し、憤り、涙する。しかし、それが「身近なもの」となる時、その同じ苦しみ、怖れ、痛みは、一変して何かより強烈に「自分の体験」となる。わたしは、わたしの母の怖れ、憤りを通して、日々、ひじょうに多くの人々が体験している怖れ、憤りを、さらに身近に、さらに深く、体験する。

 神が「人となった」のは、イエスが望んだのは、人々に何かを教えるとか、慰めるとか、癒すとかいうことよりも先に、本質的に「人間の心、感情、思い…」をご自分のものとして感じ、体験することだった、とも言えないか。イエスが「人の子」として、十字架のもとに立つ母の心の中の、深淵の「闇」を感じ取らなかったとは(わたしには)思えない。その「闇」の中に、決して消えることのない光が輝き出でることを知っていたとしても。

 「分かっていても」、信じることが難しいわたしたち。信じていても(信じているつもりでも)、それを生きることに躊躇するわたしたち。人となったイエスは、そんなわたしたちの弱さを叱咤激励、または非難することよりも、先ず、自分自身でその「弱さ」を体験することを望んだ。「わたしたちの一人」となって。罪を除いては、わたしたちと全く同じものとなって。

 妹から連絡を受けた翌日、母と電話で話した。このようなことが起こると、地域の人、周りの人、友人たちのありがたさが分かるね、と話した。損得勘定ではなく、互いに寄り添い、支え合うために、「そこにいてくれる」善意の人々。このような善意の人々(キリスト教信徒であるとかないとかを超えて)のただ中に、すでに「神の国-いつくしみの神の国-」が来ている、と、パパ・フランシスコはたびたび言っている。

 人の心の奥底に刻み込まれた「神のイメージ(像)」を成長させていき、「真のわたし自身」になり、「神の家族」を形作っていくよう、わたしたち一人ひとりは、神の協力者として呼ばれているのだろう。

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

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2018年10月29日