・Sr.岡のマリアの風 (57)「この歳」になると…

 11月は、(このような表現がふさわしいなら)何か「怒涛のように」仕事をいただき、11月末の「マリア論オンライン講座」で一息つきました。先人たちの思いを継いでいく使命・責任を、いまさらですが、自覚し始め、「今、わたしに出来る小さなことから始めよう!」と日々を積み重ねています。

 「 この歳」になって、もう少し早く行動していれば…と思うこともありました。でも、この頃、思います。「この歳になったからこそ、始めることにも、意味があるかもしれない」。

 「この歳」になると、欲がなくなります。「自分の名声を高めたい」とか、「何か偉大なことをしたい」とか、「権力が欲しい」とか… そういう「自己欲」が、(少なくとも)減ります。

 「この歳」になると、今までいただいてきたものを、先人から継いできた「宝」を、「次の世代に伝えたい」という思いの方が強くなります。批判されるかもしれない、理解されないかもしれない。でも、目的が、自分の名声や権力ではなく、次の世代のためならば、信じて続ける力が湧いてきます。

 そうすると自然に「助っ人」が現れ、助けてくれます。わたしの差し出すことのできる貧しいものを、感謝して受け取ってくださる人が現れます。わたしがふさわしく答えようと「格闘している」使命のために祈ってくださる人が現れます。「現れる」というより、神さまの、わたしたち一人一人を大切にする思いが、「この歳」になって自己欲が少なくなったわたしを通して、伝わりやすくなったのかも。だから、わたしを通して、神さまの思いが、よりダイレクトに聞く人に伝わるようになってきたのかも。

 「この歳」になると、恐れずに、さまざまな分野の、多様な声を聞くことが出来るようになります。カトリック教会の垣根を超え、キリスト教会の境も超え、他の宗教の方々、無神論を自称している方々の声も聞き、生けるものすべての声に耳を傾け、学ぶことが出来るようになります。

 「この歳」になると、「謙虚」になる、というより、「自分たちが裸であることを知った」(創世記3章 7節)というアダムとエバの心境に近くなるのかも。天地創造の初めから、わたしたちを大切に思い、わたしたちを、一人一人、陶工のように形づくり、「交わりの神」であるご自分の霊で生きるものにしてくださった三位一体の神。

 仏教では、人間はどんなにじたばたしても、いつも「お釈迦様の手のひらの中にいる」と言うそうです。(少なくとも、わたしはそう聞いたことがあります)わたしたちは、どんなに素晴らしいことを行い、「自分が」それをした、と誇ったとしても、いつも、三位一体の神さまの中にいます。

 ナザレのマリアが、神のみことばを、自分の胎の中に宿したとき、主の霊に満たされて歌った(…とわたしは想像します)賛歌「私の魂は主を崇め、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。この卑しい仕え女に 目を留めてくださったから[…]力ある方が 私に大いなることをしてくださたから[…]」(ルカ福音書1章 46~ 49節参照)。主が、わたしの貧しさに目を留めてくださった、主が、何も差し出すものをもたないわたしをいつくしみ、主ご自身で、わたしを満たしてくださった。わたしのいのちは、主の内にある…。

 「この歳」になって、ようやく、ナザレの若いマリアの喜びが少しは分かるようになったかも…。今年よりも来年、来年よりも再来年、もっと深く分かるようになるのかも…。

 「この歳」になって、いただく恵みの豊かさに単純に感謝したい。その恵みにふさわしく答えられるよう、三位一体の神さまのみ手の中にいる自分を見つめたい。

祈りつつ。

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女、教皇庁立国際マリアン・アカデミー会員)

*聖書の引用は「聖書協会・共同訳」を使わせていただきました(「カトリック・あい」)。

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2020年12月1日