・Dr.南杏子のサイレント・ブレス日記㊺ 熱烈サユリストとの別れ

 拙作を刊行してくださっている幻冬舎の担当編集者から電話が入り、「南さん、大ごとになりました。落ち着いて聞いてくださいよ」と前置きされたのを、昨日のことのように思い出す。

 それが、金沢を舞台にした訪問診療医と患者や家族たちの物語「いのちの停車場」の映画化の話だった。何かとんでもない事態に巻き込まれてしまったのかーと身構えたが、私の書いた小説が映画の原作に選ばれたと聞かされた瞬間、まさに大事件だと思ったのを覚えている。

 映画化のオファーをくださったのは東映。さっそく東映の岡田裕介・代表取締役グループ会長にお会いする機会が設けられた。面談の場がセットされたのは、JR中央線の荻窪駅にほど近い、古くからある地元の和食屋だった。岡田会長の第一印象は、エネルギッシュな俳優さん。よく通る美声で熱く、時には厳しく映画への思いを語ってくださった。そして、あとから「めちゃくちゃ言ったこと、深く反省しています」とメールをくださるようなチャーミングなジェントルマンだった。

 以来、岡田会長にお目にかかったのは、計五回。毎回、東映の重役や映画監督を引き連れるスタイルで、「映画の製作会議」というようなものがあれば、こんな雰囲気だろうかーと感じたものだ。そのうちの一度は、映画で主人公の医師を演じてくれる吉永小百合さんと一緒だった。熱烈なサユリストである岡田会長だけに、その時ばかりはやや緊張の面持ちだったことが印象に残っている。

 いつお会いしても、皆に対して常に気を配ってくださり、楽しい失敗談で笑わせてくださった。実は東映のみならず、「映画界のドン」と呼ばれる畏れ多い方だということは、後になって知った。

 映画化は、新型コロナウイルスの感染拡大という荒波に翻弄された。映画は本当に完成するのか? いや、そもそも撮影に入れるのか? スタッフや俳優さんたちの感染対策は大丈夫なのか? 岡田会長からは「映画の企画というものは、いつ中止になるかもしれない」とも聞かされていた。世の中はそんなに甘くないのだなと、妙に納得した覚えもある。

 ずっと固唾を飲むような気持ちで待っていた。実際に映画製作にかかわった方々も同じ思いであったことと思う。誰よりも、岡田会長こそが無事に映画が完成するのを願っていたはずだ。
それなのに。本当に、あともう少しというところで、岡田会長は急逝された。

 2020年11月18日夜、急性大動脈解離のため、東京都内の病院で亡くなられた。享年71歳ーいっしょにお祝いできなくなってしまったことが残念で仕方ない。

 多くの関係者の惜しむ声が、私にもまだ聞こえてくる。映画「いのちの停車場」のエンドロールでは、「製作総指揮 岡田裕介」としてクレジットを流す検討がなされている、との報にも接した。作品をこのような形で世に出してくれた岡田会長。ただただ感謝の気持ちを胸に、安らかな眠りを願う。

(みなみきょうこ・医師、作家: NHKでドラマ化された『ディア・ペイシェント~絆のカルテ』=幻冬舎=は、多くの皆さんにご視聴いただきました。心から感謝申し上げます。『いのちの停車場』=幻冬舎=は映画化が決定し、吉永小百合さん、松坂桃李さん、広瀬すずさん、石田ゆり子さん、西田敏行さんらが出演、東映系で2021年に全国公開されます)

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2020年12月5日