・ChrisKyogetuの宗教と文学⑤ カレル・ファブリティウス「ゴシキヒワ(Goldfinch)」との再会

 時間―記憶―空間について、様々な哲学や文学を通したが、常に経験が先だった。先に訪れる字面は自分の感性の補助に過ぎない。子供の頃は神の存在を信じたり、忘れたりを繰り返しながらも、自分の内面世界に神秘を感じたことがある。

 それは、いつだったか。音階や色彩感覚が何処から現れるのか、土地は学校の「校庭」のように平凡でも良かった。光と影があれば、それだけで良かった。自分を振り回すその「内奥」をいつしか信じてみたいと思った。例えば、それは神が与えてくれたものだと、いつかそう言える日まで人知れず隠していた。アウグスティヌスは、「告白」で既に記憶について、人間の内にある奥深い広大さに気付いていた。

 その感覚は、知識を得る前に既にあった。それが西暦何年で何月何日の思惟なのかは分からない。無自覚で言葉になるかならないかの狭間で漂っていたように思う。青空に手を翳して、この瞬間を覚えていたいと思っているが、自分の手の大きさが成長していくことに気付かないように、私も色んなことを見落として、忘れているのだろう。忘却とはいつ確定するのか、それは分からない。今、想起出来ないものは全て忘却となるのかと問われれば、そうではない。

 2021年、「Goldfinch」という映画を見た。それは単なる気になる俳優が出ていたという程度で選んだが、主人公である少年が美術館爆発事件に巻き込まれる際に盗み出したカレル・ファブリティウスの「ゴシキヒワ」(Goldfinch)の絵画について、私は既視感があった。

 映画の前情報を全く知らなかったので、この絵画が映画だけの「小道具」だと思い込んでいたのだが、どうも違うのかもしれない、と思うようになった。オランダ絵画の解説もあり、その中に紛れ込んでいるこの小品について、そもそも実在しているのか、していないのか、分からないその絵画に私は見覚えがあったのだ。

 絵画を描いていた時期もあった私にとって、勘ではあったが現代人の発想のようにも思えない色彩感覚、タッチで、古典的な一枚だった。近代か古典か見分けるのには判断材料の少ない一匹の「小鳥」の絵である。

 私は当時、まだ療養期間で頭痛も毎日していた。文章も平素な文章なら書けるが、詩的表現や複雑なことを書こうとすると頭が捻じれるような思いをした。60平米の部屋には本が何冊あるのか分からない。千冊はあるのかもしれない。壁一面の本の中から、取り出すことも億劫だった。けれども、その日は、「ゴシキヒワ」を見たかもしれないと思い当たる図録を探した。それは2012年の「マウリッツ・ハイス美術展」で、そのページをめくっていくと、「ゴシキヒワ」があった。

 私は、やはり2012年に見ていたのだ。

 1654年10月12日に爆薬庫の爆発事故、それは多くの死者を出し、アトリエも巻き込まれ、多くのオランダ絵画が焼失した。その中の一人の、レンブラントの弟子のカレル・ファブリティウスも事故に巻き込まれて帰らぬ人となった。その中で生き残ったトロンプ・ルイユ(騙し絵)の一部、それが「ゴシキヒワ」である。私はこの一枚を見ていた。けれども、とっくに意識からは消えていた一枚だった。思いだせることは少なく、フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」の列に大勢が並んでいた。そこに入るのに嫌気がさしながら少し逃避気分で見ていた一枚だった。

 一匹の鳥のみの絵画は地味でありがらも、反対に、質素なこの一枚は他と類を見ないので、目立つものがあった。家に飾れそうな手頃な大きさ、そして解説による「生命力の強さ」これを家に飾ったら、満たされるのではないのか、それらが手に入れたい、という欲求を掻き立てた。それは映画の主人公と似ていて、当時の自分にとっては、この偶然の生還に強い共感があった。だからこそ、この偶然の記憶の「想起」に感動した。

 2012年、それは単なる平凡な美術鑑賞だった。2018年の自分自身の事故からの生還で、後にファブリティウスの絵画に共感することになるなんて、当時は知る由もなかった。

 この映画を見るときも、動機について特別なことはなかった。もしも、あの日、「身体が重たい」「頭が痛い」という声に耳を傾けていて、眠ってしまっていたらこの感動は訪れていなかった。もしくは、「気のせいか」と流しているだけで終わっていたら、感動の機会を失っていた。あの日、立ち眩みがしながらでも、本棚を探したからこそ、自分の経験が無駄ではなかったと、心象がまた生かされたのだ。

 宝物というものは、忘却の中に眠っていると未だに信じている。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば開かれる。」(マタイ福音書7章7節)とあるが、何気なく覚えようともしなかった出来事の中に、平凡で人に話すほどでもない経験が、急に物語性を帯びて生まれ変わってくる。

 「叩きなさい、そうすれば開かれる」というように、それは、日によって気づきが変わる聖書でもある。この発見で私も全て解決したわけではない。一回や二回の気づきで幸福になれなくても、何度も積み重ねていくことで、また新しい道が見つかる。これは誰にも自慢できる体験ではなかったのかもしれない、けれども自分にとって生きていくための十分な物語性はあった。記憶とは無機質な記録とはまた違う。忘れてしまったことでさえも、物語であり、自分の心を形成している。心象は神の気づきや内面で彩られ、そのように、誰にも自分だけの物語がある。

(Chrisu Kyogetu)

https://chriskyogetu.jp/2021/09/14/the-goldfinch-japanese/

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2023年8月30日