・菊地大司教の日記・ 無原罪の聖母の祝日にイエスのカリタス会の初誓願式、そのほかこの数日

2020年12月 8日 (火)

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 12月8日は無原罪の聖マリアの祝日です。東京教区ではカテドラルである聖マリア大聖堂の献堂記念日でもあります。

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 この日、イエスのカリタス会では初誓願式が行われ、5名の修練者が誓願を宣立して奉献生活者としての道を歩み始めました。

 4名の方がベトナム出身、お一人が日本出身と、国際色豊かなグループで、誓願式ミサには日本で働いているベトナム出身の司祭も(そのうちお一人は、初誓願を宣立したシスターのお兄さん)参加してくださいました。

 ミサは杉並区井草の本部修道院聖堂で行われ、現在の状況ですから、よく消毒をし、マスクを着用し、互いの距離をとり、聖歌は聖歌隊だけのミサとなりました。わたしが司式させていただきました。

 誓願式は修道会にとって大きなお祝いですから、本当は多くの方に参加して いただけると良いのですが、残念な反面、誓願を宣立した方々にとっては、歴史に残るような状況の中で忘れることのない特別な時となったことと思います。

おめでとうございます。またイエスのカリタス会のシスター方には、3月から10月末まで、関口教会からの配信ミサのために毎回聖歌隊を担ってくださり、美しい典礼の配信に力を貸してくださったこと、感謝しております。

なおこの数日と言うことで、三つのことがありました。

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11月29日には、山形県の新庄教会が献堂10年を迎え、この事態ですからお祝いは出来ませんでしたが、感謝ミサを捧げてまいりました。(写真右、新庄教会でのミサ)

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 また12月6日には、千葉県の銚子教会で、新しい信徒会館が完成したこともあり、主日のミサに合わせて信徒会館の祝福式を行いました。(写真左、信徒会館)

 また主任の森神父様との共同司式ミサの中では、お二人が堅信を受けられました。これも現在の事態のため、限定された少数の方のみミサに与っていただきましたので、聖堂には20名ほどの方の参加となりました。

 新しくできあがった信徒会館は木造二階建てで、壁の木材の色調がやさしく、暖かな建物となりました。(写真すぐ上が、右に聖堂、左に信徒会館)銚子駅にも近くまた海にも近い場所です。夏などには合宿などに活用していただける建物かと思います。

もう一つ、明日12月9日は東京教区の澤田和夫神父様の101歳の誕生日です。無原罪の聖マリアの祝日の午後に、澤田神父様も一緒にカテドラルで感謝ミサを捧げる予定にしていましたが、この数週間の東京における感染の状況を勘案し、急遽ミサは取りやめにしていただきました。残念ですが、神父様のお年のことや集まる方々のことを考えると、しかたのない選択かと思います。神父様は101歳ですがお元気です。わたしも今日の午後、お会いしました。明日の誕生日に、皆様のお祈りをお願いいたします。

以下、イエスのカリタス会初誓願式の説教の概要原稿です。

イエスのカリタス修道女会初誓願式ミサ 2020年12月8日

 「私は主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」

 マリアはこの言葉を持って聖母となりました。マリアにとって天使ガブリエルからのお告げは、全く理不尽な内容であったに違いありません。「どうしてそのようなことがあり得ましょうか」と言う、強い否定の言葉に、その困惑の度合いが感じられます。しかしマリアは、聖霊の働きを通じた神の不思議な働きについての天使のお告げを受け、「神に出来ないことはなに一つない」と言う天使の言葉に信頼を置き、神の計画にすべてをゆだねることを決意します。

 創世記のアダムとエバの物語は、この世界を支配するのは創造主である神であって、人間の勝手な思いではないことが明確に記されています。

 パウロはそれを「御心のままにすべてのことを行われる方のご計画によって前もって定められ」と形容し、神はご自分が成し遂げようとされたことを必ず成し遂げられることを示唆します。

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 この世界は、創造主である神によって支配され、神はその計らいを持ってわたしたちを導かれる。そう信じている私たちは、この一年、神のご計画はどこにあるのだろうかと識別を重ねています。

 新型コロナウイルスの感染症は、教会の活動にも大きな影響を与えています。

 いつもであれば、日曜のミサは言うに及ばず、こういった誓願式などのお祝いにも、出来るだけたくさんの人に教会や修道院に来てほしいと案内をするのですが、今年は逆に、来ないでくださいとお願いをしなくてはならない。そのこと自体が非常に象徴的ですが、私たちは何か、価値観の大転換を求められているように感じます。

 教会には目に見える組織としての教会と霊的交わりで結ばれる共同体の二つの側面がありますが、この事態は、私たちに、普段は忘れがちである共同体の霊的側面に目を向けさせています。その意味で、教会の意識も転換が求められているように感じています。

 実は私たちは10年ほど前、同じように価値観やライフスタイルを大きく転換させる出来事に直面しました。2011年3月11日に発生した、東日本大震災の体験です。

 私たちはあの大震災を通じて、人間の力がいかに小さなものなのかを、さらにはその知恵や知識には限界があることを、巨大な地震と大きな津波の前で、また原発事故の直中で思い知らされました。厳然とそびえる限界の壁を知ったとき、私たちは、おごりを捨て、謙遜に生きる道を選択しなければならないと悟ったのではないでしょうか。

 しかしそれから10年が過ぎ、強烈であった震災体験は徐々に忘れ去られ、結局のところ、社会全体の価値観の転換は起きませんでした。そこに、この新型コロナの感染症が発生しました。改めて私たちは、この世界を支配するのは人間ではない。人間の知恵と知識には限界があることを認識させられました。

 暗闇の中をさまよい歩いている私たちには、希望の光が必要です。その希望の光は、互いに助け合い、支え合い、配慮をしながら連帯するところに生まれます。希望の光が持続し、社会全体に定着するためには、その希望を率先して生きる人が必要です。連帯を目に見える形で生きる人が必要です。互いに支え合い思いやることで、生きる希望と喜びが生まれるのだ、と証しする人が必要です。

 教皇フランシスコがしばしば繰り返されるように、だれ一人として排除されて良い人はいない、忘れ去れて良い人はいない。すべての命は神からの賜物であり、神から愛されている。それを証しして、社会の中にあって「しるし」となる人が必要です。

 教皇ベネディクト16世が回勅『神の愛』に、教会の三つの本質的な務めを記しています。それは、「神の言葉を告げ知らせることと、証し、秘跡を祝うこと、そして愛の奉仕を行うこと」であります。

 「神に出来ないことはなに一つない」と言う天使の言葉を信じ、「私は主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」と応えることで神の計画に完全に身を投じて生きた聖母に倣い、この現実社会の中で、人生のすべてを賭けて、神の言葉を証しし、秘跡を祝い、愛の奉仕を率先して行う人が教会には必要です。自己実現ではなく神の計画の実現のために生きる人が必要です。

 奉献生活を誠実に続けることで、どうかキリストを示してください。この世界は神の支配のもとにあるのだ、ということを、その謙遜な生き方を持って証ししてください。私たちは神の計画の実現のために生きているのだ、ということを、その従順な生き方によって証ししてください。私たちは、自分が褒め称えられるためではなく、神を褒め称えるためにあるのだ、ということを示してください。私たちは愛されるためではなく、愛するためにあるのだ、ということを示してください。

 困難な時代にあって、奉献生活に生きる方々が、暗闇に輝く希望の光となりますように。

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教)

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2020年12月10日